2009年11月30日月曜日

ミシシッピ川とメンフィス


ミシシッピ川は米国北部のミネソタ州から米国を縦断して南部ルイジアナ州のメキシコ湾岸に流れる米国最長の川である。世界でもこれだけの長さを持つ川はアマゾン、ナイル、長江あたりであろう。あらためて米国全域を消費財市場として見た場合、実はこのミシシッピ川が東と西の境界線であると教えてくれたのは前号で紹介したユダヤ系のM社長である。米国地図で見るとこの境界線は随分東側に偏っている様に見えて、おそらく国土面積で見れば東側がおよそ1/3、西側がおよそ2/3の割合となるだろう。という事はそれだけ東側に人口が偏っているとも言えるし、また西側は西海岸を別としてその中間部である山岳地帯は人口が過疎であると言える。

米国の総人口は2007年に軽く3億人を越えて、2008年では 304百万人と推定されている。これを州別の割合比率で見れば、カリフォルニア州 12.1%、テキサス州 8.0%、ニューヨーク州 6.4%、フロリダ州 6.0%と上位 4州だけで米国の総人口の 1/3を占めてしまう。これに続く 5位から8位まではイリノイ、ペンシルバニア、オハイオ、ミシガンのかっての工業の中心地であった中西部の4州で、これらを合計しても今や上位4州合計の半分以下の15%程度である。更に9位のジョージア州と10位のノースカロライナ州までのトップ10位までの合計でみると総人口の半分以上の 54%となる。

一方、1990年から 2000年までの人口動態調査で見れば、米国全体の中の人口の動きとしては、「東部と中西部」から「南部と西部」への大移動が起こっているのが明らかである。これは脱工業化社会への移行と internetの普及で企業と人々の立地や居住地の選択が自由となって、天候が温暖で安全と自然に恵まれた地域への移動が行われたという事だ。その面ではカリフォルニア州のみならず、テキサス、フロリダ、ジョージアの各州は人口の大きさのみならず、増加率も10年間で2割を越して目を見張るものがある。

こうした人口の大移動を背景にして、ミシシッピ川という東西境界線から見て、テキサスとフロリダという巨大な二州へのアクセスも考慮に入れれば、自ずとその中心は従来の中西部に近い北側よりもぐっと下がって南部へと降りてしまう事となる。さてそういう観点から、ミシシッピ川の流域の色々な都市の中で、流通拠点として近年注目されているのはテネシー州のメンフィスである。そう、あのエルビス・プレスリーで有名であり、ブッシュ・小泉会談が行われたメンフィスである。その流通拠点として象徴的なものとしては、全米、全世界への配送をカバーする Fedexがその本社と巨大な配送センターをこのメンフィスに置いている事だ。

実は、前号で述べた通り、M社長の会社を全米の総代理店にする事で交渉していた時の最大の課題は、それまでM社長の会社が比較的西海岸からの配送が中心であった事から、果たして同様に南部、中西部や東部へスムースに事業展開が出来るかどうかという点であった。勿論、南部、中西部、東部でのセールスレップを新たに増員しなくてはならないし、これら地域の小売店にも総代理店になった事を通知し、スムースに取引関係を移行、拡大しなくてはならない。そこで M社長がミシシッピ川東側市場への流通配送拠点として迷わず選んだのもこのメンフィスである。メンフィス市側では Fedexの本社と配送センター誘致に成功した事をきっかけに全米の流通拠点として積極的に企業誘致活動を行って来たのであって、新規の進出には様々なインセンティブが供与されている。

移民国家米国の総人口増加の推移としては 1990年2.5億人、2000年2.8億人で、おそらく2010年には 3.1億人に達すると見込まれ、10年間に 11-12%、20年間で 23-24%の驚異的な伸びを見せている。その増加人口の殆どがこういった西海岸と南部に集中しているところからますますこのメンフィスの流通拠点としての重要性は高まってきている。米国という国は、人口増加も激しいが、内部での人口移動もマグマの活動の様に激しい国である。

そうなると経済成長率というものが、生産性と人口増の方程式から得られるものであるから、米国がいかに衰退過程に陥ったとは言え、少子高齢化の日本や西欧と比べれば、まだまだ国家としては潜在的な競争力はあると言える。その米国と興隆する中国の狭間で、閉塞感が漂う日本という国の国家的な見地からのビジョンというのは新政権からは全く見えて来ない。

2009年11月29日日曜日

バーミツワ


銀座にあるバー「ミツワ」ではない。ユダヤ教徒の13歳になった男子の成人式 Bar Mitzvahの事である。女子の方は一歳早く12歳の時に同様のベネミツワの儀式がある。日本ではユダヤ系の人達との交流の機会はそうないであろうが、米国でビジネスをすると必ずといってよいほどめぐり合うのがユダヤ系の人達だ。米国ではビジネス分野のみに限らず、医師、弁護士、政治、学問、メディア等の専門分野で数多くのユダヤ系の人達が活躍していて、一般的に彼らは能力が高く優秀であるとの評価だ。

そういうわけで、私も取引先のユダヤ系の M社長から彼の一人息子が13歳になった時に、このバーミツワのお祝いの会に招待されて出席した事がある。このM社長の会社とは当初は複数の代理店の一つとしての取引であったが、最終的にはこの会社を総代理店にして全米での流通の合理化と売上業績のアップを図った。M社長は私と同じ世代で、ニューヨーク生まれであるが、若い時に「僕はドジャーズと共にロスアンゼルスに移ってきた」というほどのドジャーズファンである。ロサンゼルスでの幼友達と共同で現在の会社をゼロから立ち上げてきたのであるが、今では業界ではトップクラスの流通専門の会社に育て上げた。

例えば日本企業がスポーツ用品の様な大衆消費商品を全米の小売店や量販店網で販売して行こうとなれば、その対象地域の大きさにまずは地図を見てため息をつく。カリフォルニア州だけでも日本の国土の 1.1倍の広さであり、米国全体では25倍ともなって、日本国内の様に「ちょっと小売店の売上状況でも調査してきます」というわけにはとても行かない。

西海岸から東部、あるいは中西部に出張するには時差もあって往復の時間だけでも行きに一日、帰りに一日余計に見ておかねばならない。長時間のフライトで空港についてからでも、更にレンタカーで 1-2時間という所もあり、複数の有力小売店を見て回るとなると、実際に訪問して色々話を聞き調査する時間よりも道中の時間の方が圧倒的に長い。つまり恐ろしく効率が悪い事となる。

従って、米国では全米各地に広がる多数の小売店に商品を販売していく場合は、流通の合理化に特化し、優秀なセールスレップ(Sales Representative)を抱える組織に依存せざるを得なくなる。また近年ではこういう小売店を通さず、顧客から直接 internetで受注し、販売する形態も急増してきているが、これも多くの電話オペレーターと配送組織を持たねばとても対応できない。つまり、この米国市場と言う巨大な空間の広がりにはとてもメーカー直販なるものは不可能であり、そういう流通を一手に引き受ける卸売業の輸入代理店の存在は不可欠となるわけだ。

米国の流通市場では、狭い日本市場での旧態依然とした卸売業の様にメーカーの営業の人間とゴルフと飲食で取引関係を維持すればよいというものではなく、何事にでも全て合理的な努力の積み重ねをしていかねば、とても業界では生き残れない。一般に、輸入代理店の機能と役割は、受注、在庫、配送、与信、回収、販促と多岐にわたるものとなるが、中でも販売面でその手足となって小売店との接点となるセールスレップの教育と維持管理がその代理店活動の成否を決めるものとなる。そこにはいかに米国とは言え、人間関係が強く作用する領域であって、M社長の会社の成功はひとえにこのM社長の人柄に負う所が大きい。

このM社長の人柄とは一言で言えば、契約社員であるセールスレップも含めて従業員達を家族同様に心から大事にしているという事であって、珍しく日本企業の様に終身雇用的である。そこから生まれる従業員の仕事への熱意は年に一回開かれるセールスレップの大会の雰囲気や、日常の我々とのコンタクトでも如実に感じ取れる。私がたまたまそういうM社長の様な人物にめぐり合ったからかも知れないが、米国在住の日本人からは同様の話をよく耳にするので、私の中のユダヤ系米国人のイメージはすこぶるpositiveなものである。

ところでこのユダヤの民の国イスラエルを日本の現職首相としては珍しく訪問し、この国が要ともなる独自の中東外交を推し進めようとしたのが小泉氏であったが、その後国内内向き姿勢一途の新政権の中東外交なるものがいかなるものかを聞いてみたいものだ。

2009年11月28日土曜日

ベルギーという国


つい最近決まったEUの大統領がベルギー人である事から、ベルギーという国の欧州における「ユニークでしたたかな」そのあり方を再認識した。

ベルギー、正式には「ベルギー王国」は欧州の国々の中でも特異な存在だ。まず北部のフラマン語(オランダ系)地区と南部のワロン語(フランス系)地区に二分される国であり、共通なものはカトリックが主流(国民の75%)という事くらいであろうか。ドイツ側の国境の街、アーヘンを西へ向かうとほぼ一直線に伸びる高速道があり、それがそのままベルギーを貫通しておよそ400kmほどでパリにつながっている。

もともとこの国は中世にはオランダと一緒の公国であったが、プロテスタントのオランダは、その後カトリックのハプスブルグ家スペインが支配する事になったベルギーから独立したものである。従って残ったベルギーという国はその地域で言えば、どちらかと言えばゲルマン系の北部とラテン系の南部がカトリックという宗教を軸に一緒にまとまった国と言えるのではないだろうか。

欧州各地を旅行するとこのいわゆるゲルマン系(北欧、英国、ドイツ等)ラテン系(フランス、イタリア、スペイン等)の明らかな違いを肌で感じるはずである。まずゲルマン側は比較的清潔で家もきれいに保たれているが食べ物は日本人の舌からすると今ひとつであるのに対し、ラテン側は少々汚く、家もきれいに行き届いて掃除されているとは言えないかもしれないが、食べ物に関してフレンチ、イタリアンに代表される様に西洋料理としても世界一級である。

仕事に関してはゲルマンの方が何事も几帳面な日本人には相性があうであろうが、ファッションやデザイン、芸術に関しては一般的にはラテンに軍配が上がってしまう。この二種に大別される文化の接点となるのがこのベルギーであり、そのまま少し南に下がってスイスとなるのである。

日本人の駐在員とその家族が多く住むデュッセルドルフで日頃素朴すぎるドイツ料理に飽きた人たちはわざわざ国境を越えてベルギーのワロン地区に古くから伝わる正統派のクラシックフレンチを食べに出掛ける事となるのであるが、玄人筋によればこの一帯のフレンチはパリのフレンチよりもより洗練された本物だとの意見もあるほどである。

地形は南部が比較的丘陵が多いのに比べ北部は平坦で農業栽培向けである。首都ブラッセルは北部の中心にあるがここだけは国際都市だけにフランス語が中心である。歴史的に大国に隣接する小国の運命として西のナポレオンのフランスから侵略されたり、東のドイツ帝国さらにはヒットラー政権に侵略されたりで正に左右からの往復ビンタであった。

従い、国民性としては中々練れている面もあり、欧州統合の象徴としての EU本部もブラッセルにあったりで、EU外からの欧州への企業進出の際にもその中立性からここに欧州本部を置く日系や米国企業も少なくない。

一時はアフリカのコンゴがベルギー領であってそこから算出される銅などの金属資源で潤った時期もあったがコンゴの独立後はさして強い産業や工業力もなく、隣国のオランダとルクセンブルグと共同体を組んで生き残りを図ると同時に多額の奨励金を出して企業誘致も盛んに行ってきた。しかし近年、欧州の東側の開放によりその地位は相対的に低下してきている。日本人にとってはおいしく上品な味のチョコレートと絵のように美しい古都ブルジェのイメージが重なる国であるが、大国にはさまれる国は政治的にはしたたかさで生き残るしかない。

そんなベルギーでも国防政策の基本は、冷戦終結した今でも NATO体制でのいわゆる Nuclear Sharing による米国の核抑止力においている。この Nuclear Sharingにおいては自国内で核兵器使用の際は自国の軍隊を提供し、核兵器を自国内に備蓄する事が前提となっている。国防を考えれば周辺に潜在的な脅威が最早存在しないベルギーの様な国でさえ過去周辺から侵略され続けた歴史を思えばごく当たり前の事である。日本の新政権が過去の米国との核持込密約なるものを暴露したいなら、この際このベルギーの様な非核保有国の現状を見て、あらためて同時に日本の非核三原則なるものの見直しの議論を進めるべきであろう。

2009年11月26日木曜日

ハイエクとオーストリア


少し前になるが衆議院予算委員会での自民党加藤紘一氏の質疑の際にハイエクの名前が出たのを覚えておられる方もいるだろう。自民党は政権奪回に向けて民主党との対立軸を明確にする為、あらためてその政党としての基本理念の再集約に努力しているのが伺える。ハイエクは一言で言えば、1980年代のレーガン・サッチャーの新自由主義者に尊重されたいわゆる保守派自由主義の経済学者であり、マルクスとケインズの両方に共通する政府による「経済の計画的運営」を完全に否定する立場にある。戦後、資本主義体制の国々での経済政策がケインズ的なものが主流であったところからハイエクの名前は古典として忘れ去られていたのであるが、世界的な金融危機が起こった後の言わば「先が読めない」現時点ではあらためてその学説が再評価されているのであろう。自由主義経済で同様の立場に立つ米国のシカゴ学派のフリードマンと基本的に違うところは、ハイエクの場合は経済学そのものよりも背景にある哲学、社会学、心理学といったものを含めての大局的な見地からでの考察である。

私はこのハイエクという学者がオーストリア人である事に以前から注目している。つまりオーストリアという国で生まれ、またオーストリアという国が衰退しきった時に青年時代を過ごしたというところが彼の保守的な経済自由主義の原点ではないかと思うからである。オーストリアは12世紀から20世紀はじめの第一次大戦敗戦までの長きにわたり、欧州の中心的存在であった神聖ローマ帝国と後のオーストリア・ハンガリー帝国の本拠地である。しかし、戦後は兄弟国とも言えるドイツの再復興ぶりとは対照的で産業の近代化に乗り遅れ、冷戦時代の東側諸国との仲介や、観光業が中心の国に成り果てていた。我々ドイツ駐在のビジネスマンも同じドイツ語圏のオーストリアは担当地域内でもあり、時折出張で色々な企業を訪問する機会があったが、工業分野でのその多くの企業はドイツ企業の影響を受けたいわば亜流的存在である。清潔で何事も整ったドイツの都市からオーストリアに入るとその差は歴然としている。

しかし、一方では首都ウィーンに象徴される様に歴史・伝統・文化に関しては、ドイツを凌駕するものがある。例えば音楽の世界ではモーツアルトであり、近代ではウィーンフィルであり、またカラヤンである。オーストリアの西側に位置するザルツブルグの音楽祭には毎年大勢の日本人観光客が訪れる。私もカラヤンが亡くなる前の最後の指揮をした年にこの音楽祭を訪れたが、それこそ夏の一番気候の良い時に、アルプスのふもとの緑に囲まれたきれいな街で、街中至る所で最高レベルのコンサートが連日開かれるのであるから、クラシック音楽ファンにはまさに天国だ。

そのオーストリアと日本の両国の関係が近年急速に接近した時があった。それは確か1988年の ANAとオーストリア航空の共同運航による成田からの直行便の開設である。当時、ドイツから帰国し、東京本社勤務であった私は東京で親しくなったオーストリア人から六本木のANAホテルで開かれた直行便開設記念の「オーストリアの夕べ」なるパーティーの招待券を入手して出かけてみた。このパーティーでの圧巻は会場のホール全体で繰り広げられた正装したオーストリア人達によるウィンナーワルツである。ホール全体で大きく優雅に一部のすきも無く完璧に揃って左回りに回転し続けるのだ。ウィンナーワルツなどは日頃全く別世界にいる日本人招待客の政治家、官僚、経営者達は圧倒されまさに壁にへばりついて傍観するのみである。ちょうど最近 NHKドラマの「坂の上の雲」の予告編で出てくるあのシーンの数倍の規模を想像していただいたら良いが、これがオーストリア文化の優雅さと伝統の深さである事を再認識させられた。

そんな数々のオーストリア文化紹介のイベントを企画した中心人物が当時の駐日オーストリア大使館文化担当アタッシェの Michael Zimmermann氏だ。特段日本と結びつきの深い産業もない伝統文化の国オーストリアの文化担当アタッシェの役割は他の国の大使館の文化担当とは大きく異なる。同氏の文化人としての東京での活躍ぶりと交友範囲は格別なものがあり、そのひげ面で喜劇役者の様な親しみ安い風貌と魅力的な性格、文化に対する深い造詣はあらゆる階層の日本人を引き付けた。そんな彼のイラン大使館への転任に際する送別会たるものもこれまた意表をつくものであった。品川区の埠頭近くにある古くて巨大な倉庫を改装したロフトでの大パーティーを自ら企画したのだ。普通の国の普通の外交官の政界、官界、財界だけという狭い世界とは違って、集まった招待客の人数と多様性は他に類を見ない。その中で招待されて来たという日本人の女の子達が「えー。ミヒャエル(Michaelのドイツ語読み)って外交官なのー。うっそー。」と言っていた。

話がすっかりオーストリアの事になってしまったが、ハイエクの生まれ育った環境は誠の真正保守が育つ「守るべきしっかりとした伝統と文化がある国」という事だ。私はハイエクの理論をそれほど深く学んだ訳ではないが、彼自身が使った自由社会のルールを示す言葉の、「自生的秩序」は有名だ。自生的秩序はドイツ語で Spontane Ordnung、英語で Spontaneous Orderであるが、英語の柔らかい響きよりも、ドイツ語の Ordnung(秩序)の持つ響きはドイツ語圏に暮らした事のある人には特別なものがあると感じられるだろう。秩序こそはドイツ系統の人々には特に尊重される言葉であり、例えば会社でドイツ人部下が “in Ordnung” と答えれば、それは相当重い返事だ。そこには人に頼る、人に甘える、といった事のない成熟したオトナの国の武士道にも通じる「自律」精神そのものがあるのだ。

自民党内ではこの「自生的秩序」を理念の一つとして打ちたてる考えがあると聞いているが、これこそがポピュリズム的政策で「自分さえよければそれで良い」という浅はかな風潮を作る民主党政権との明確な対立軸であると堅く信じる。

2009年11月25日水曜日

在米台湾人


在米台湾人の政治組織は30以上あると言われており、その中には国民党系と民進党系、更には民進党系ではない独立派という様々なものだ。特に西海岸のカリフォルニア州には台湾人社会が集中して見られ、李登輝元総統や許世楷元駐日大使が何度もロスアンゼルスに立ち寄られて日本人向けと台湾人向けで二回づつに分けて講演をされている。黄文雄氏も今や在カリフォルニア日本人の間では人気の講師でいつも会場は日本人であふれんばかりである。もっとも彼ら在米台湾人独立派に言わせれば講演会には必ず国民党系の人間が紛れ込んでいますけれどねと。

ところで在米台湾人の中でもいわゆる「日本統治時代の日本語世代」の方々は今では 70歳代後半以上となられており、生まれてから日本語教育で育ち、日本文化も理解しておられるからその勤勉さや謙虚さ、立ち居振るいといったものは戦後生まれの我々団塊の世代も学ぶべきものが多い。彼らは総じて親日であり、また台湾独立派である。先日もある日本人の学者のお宅に掲げてあった「天壌無窮」の掛け軸について、この世代の台湾人のC先生から「それはね、天皇陛下の世は永遠にと言う意味だよ」と逆に教えてもらったりしたものだ。

在米台湾人の中には C先生の様に米国で PhDを取られて、米国社会の中で知識層として活躍されていた方が多い。「在米台湾人PhDの会」というのもあり、C先生は時々東部まで総会に参加される為遠出をされている。おそらく PhDの総数とその比率で言えば、在米日本人よりも圧倒的に多いだろう。特に日本語世代の中で、今でも日本語を母国語として流暢に喋られる方々は、そもそも日本統治時代の台湾社会では比較的上層社会におられた方々ではないだろうか。そうしたインテリ層であるがゆえに日英中台のmultilingual であり、また頭脳面のみならず、資金面でも米国留学の機会が得易かった事、従い国民党圧政時代の台湾をいち早く抜け出す事が出来たという事ではないかと思う。

彼ら日本語世代の方々から聞く国民党の圧政ぶりは 2.28事件や白色テロと言う言葉に代表される様にすさまじい。敗戦で日本軍が去った時に入れ替わりで大陸からやって来た国民党の兵士の姿を見て、彼らは唖然としたというのが本音だろう。いわゆる「うるさい犬が去り、汚い豚が来た」という表現だ。そんな日本語世代の方々を大きく落胆させる出来事が昨年はじめの台湾立法院議員選挙と総統選挙での民進党の大敗である。これは一面ではあきらかに彼ら在米台湾人と、国民党圧政の経験がない若年層を中心とする台湾国民との意識のずれを示すものであって、在米台湾人の日本語世代は広い意味での台湾人社会では既に minorityになっているのである。

そもそも台湾の法的地位なるものは、結論から言えばサンフランシスコ条約(第2条、第23条、第25条)と日華平和条約で「日本が台湾・澎湖の権原を放棄した」事をとりきめただけで、放棄後台湾・澎湖がどこに帰属するかは全く未定のままである。連合国最高司令官命令第一号では「日本軍の降伏先が蒋介石将軍」であると決められただけで、その後国民党政府が台湾・澎湖を実効支配しているにすぎない。これだけはいかなる文献、条約を点検しても明白である。従い、法的には米軍の支配下、つまり米国の信託統治状態ではないかと、その米国人としての地位確認を米国の裁判所に訴訟している台湾人の学者もいる。

さて、そういう中でも国際政治の「力が正義の現実」は着実に進行している。ますます強まる国際社会での中国の政治、経済、軍事、文化面での存在感と影響力と、それと対照的に米国の中国に対する立場はますます弱体化して来ている。最早、昨年の選挙での台湾国民の選択は point of no return を越えてしまったと見るべきであろう。台湾国内では人民元が流通していると聞くので、三通政策は(通商、通航、通郵)はかなり定着したという事だろう。もう中国は武力行使、いや武力による威圧などは全く要らない。台湾国民が意識しようがしまいが、興隆する「中華」をその identityに選んだという事だ。偶々、今日車で外出した時に前の車の後部に青天白日旗(中華民国旗)の目立つシールが貼られているのを見た。興味があるのでわざわざ追い越して、車の中を見てみると普通の台湾人風の若者男女 3名が乗っていた。なるほどこれがやはり在米台湾人若年層の identityなのかと再認識させられた。

そうなると我々部外者の日本人は単に消え行く日本語世代の方々に同情し、話を聞くだけでは真の理解にはつながらない。日本人側では彼らに単純に同調して中国の民主、自由、人権、法治の問題や国民党政権の圧政の歴史を繰返しあげつらう事で理解を示すのではなく、現在の台湾国民の identityの問題や台湾人の政治心情というものを客観的に深く分析し、理解しておく事が大事だ。それが例え「台湾は台湾人の国」を妥当だと考える我々にとって悲観的、絶望的なものであってでもだ。

ところで一時この台湾問題で民主党としては思い切った発言をされた現職のあの大臣殿はその後何か発言されているのであろうか。それとも闇将軍にきつく牽制、制止されているのであろうか。

2009年11月23日月曜日

精神的「払い戻し」感情


ロンボク海峡、即ちインドネシアのバリ島とロンボク島の間の海峡を挟んで東側と西側では生物分類上その特徴が極めて異なり、この境界線を発見者の名前にちなんでウォーレス線と呼んでいる。西側はアジア的であり、東側はオーストラリア的、即ち原住民のアボリジニ的である。戦後インドネシアがオランダから独立する際に色々紛糾したのが、このウォーレス線の東側にあるニューギニア島の西半分、旧オランダ領(東半分は南側がイギリス領、北側がドイツ領で、戦後独立してパプア・ニューギニアとなった)の帰属問題である。オランダは同地域を新しい国家として独立させようと考えていたが、当時ソ連の軍事援助を受けたスカルノ政権は強引にもこの地域に軍事侵攻したのである。その後国連の調停もあったが、結局はこの地域はインドネシア領となり旧イリアンジャヤ州となったのだ。また近年同じくウォーレス線の東側にあるティモール島の東半分、旧ポルトガル領が独立した際にもインドネシアは一気にこの地域に武力侵攻して併合を強行した。後にこの地域が高まる原住民の独立運動と内紛の中で国連の介入によって、インドネシアの支配から脱して新たな新国家として独立したのが東ティモールだ。

要はこのウォーレス線の東側は、西側のインドネシアの主流であるジャワ族等とは全く異なる言わば未開の種族が住む地域であり、そこに大きな紛争の根本原因があると思われる。見方を変えれば、オランダに長年植民地統治され、言わば奴隷扱いされたインドネシア人が戦後独立して、こんどは自分達の領土的野心で周辺の少数異民族の島々へと植民地的支配に進出していったという事だ。事実イリアンジャヤと東ティモールの両地域には併合後多くのインドネシア人が移住している。ニューギニアと言えば、よくドキュメンタリーフィルムで出てくる半裸の首狩族的な種族が住んでいる所であり、重火器で武装した近代的な軍隊と、半裸で槍と吹き矢の種族ではそれは相手にはならない。以前わざわざこのインドネシア領イリアンジャヤの辺境地まで旅行した日本人の友人が「あそこではインドネシアの軍隊がまるで現地人を動物並みに扱っていた」と言っていた。しかし、ここもインドネシア自体の民主化と近代化に伴い、東ティモール同様に最近になって原住民による独立の動きが出て来た様で、西側最先端の部分だけを分離させて西イリアンジャヤ州としている。この地域は現在では原住民の独立派の間では西パプアと言う名称を使用している。

言うまでもなく、現在は戦前日本が朝鮮半島と中国大陸に進出して行った当時の「喰うか喰われるか」の植民地獲得競争の時代ではない。しかし、その時代に植民地として他国に支配された人々は著しくその尊厳を傷つけられたのであって、その支配から解放されるや、今度はその精神的な「払い戻し」を求める様に他国に侵攻していく様な行動をとるものである。その際、例え欧米先進国側がその行動を批判しても、当然の事ながら「お前達も昔やったではないか、why not me?」と開き直るかも知れない。開き直るまでもなく、これが既成事実として確立してしまっているのが中国である。

中国には漢族以外にウイグル族、チベット族、モンゴル族、満州族、朝鮮族といったいわゆる少数民族があり、合計すれば55の少数民族があるとも言われている。この面から、上記の過去のインドネシアのイリアンや東ティモールに対する姿が、現在の中国のチベットやウイグルに対する姿でもある。つまり、ほぼ軍事的には無抵抗に近い民族を近代的軍隊で一方的に制圧し、抵抗する原住民を動物の様に扱うという姿だ。中国が最近のチベットやウイグルでの独立の動きに対して諸外国の批判を無視するかの様に強引に武力で徹底鎮圧しているのは、中国漢族国民のこの燃える様なナショナリズムにも似た精神的「払い戻し」要求にしっかりと答えなければならないと中国政府が認識しているからであろう。さもなくば「払い戻し未払い」による不平不満のはけ口が今度は中国政府そのものに向けられる恐れすら出てくるからである。

現在の中国の共産党一党支配は最早国民の誰もそれを理想の社会主義国家建設の為とは思わないだろう。現在の中国には欧米的民主主義概念では決して捉える事の出来ない近代史からの複雑な感情が中国国民を支配していて、それは一言で言えば「経済的発展に裏打ちされたナショナリズムの自然醸成」的なものであろう。従って、例え民主主義、言論の自由、人権問題等の面で社会の矛盾があろうが、むしろ国民側にある意識としては、より大事なものはナショナリズムであると感じているかも知れない。特に戦後共産党政権の中でまともな歴史教育を受ける機会のなかった世代には、そのナショナリズムを客観的に見たり批判したりする様な機会も素地さえも無く、そうした教育を受けた国民にナショナリズムの火がついた時の恐ろしさは不気味なものがある。今や中国の若者世代は天安門事件などは眼にせずに知らずに育った世代でもあって、何よりもあの天安門事件を、政権を江沢民に託する事で乗り切り、現在の中国の姿に繋げたという鄧小平の政治的先見性は大変高いものである。今、中国通の誰に聞いても中国の現体制は少なくとも後10年は充分持つと声を揃えて言うのには、この辺の国民の「払い戻し」意識の事情によるものであろう。

鳩山政権の東アジア共同体構想は、こうした中国国民、中国政府の持つ内面的なものを無視し、経済面だけの現象だけで捉えようとしている現れであって、そもそも根底から成立つものではない。中国の経済発展には、日本としてはそれはそれで適度な距離をおいて共存共栄で取り組めば良いのであって、共同体なるものに発展させるには、中国の「払い戻し感情」に基づく覇権国家思想は本来相容れないものである事をまず認識すべきである。

技術は二番目では駄目

「技術は二番目でも良いではないか」、民主党議員によるあきれた発言だ。技術力というものは一番でなければ早晩市場から消え去るかも知れない、というのが厳しい国際競争の現実だ。これを検証し裏付けるものは中々ないのであるが、ちょうど自動車業界の方から第三者の中立機関による米国市場における「メーカーブランド別 2010年モデルの品質評価データ」というものが送られてきたので、これを御紹介しよう(現物は権威ある”Consumer Reports” で、一目瞭然のグラフで示されている)。

まず第一の点は、対象となる30数ブランドのうちのトップ7位までが日本のメーカーで占められている事だ。これは日常の米国での生活の光景から見てごく自然で当たり前だと思う。南カリフォルニアでの日常の光景という大まかな表現で言えば、目にする車の半数以上は日本車である。

第二の注目点は第8位に韓国 Hyundaiが入っている事だ。これも不思議ではない。日本で韓国車に乗る機会というのはそうないだろう。しかし米国内を仕事で頻繁に出張する際に使う空港からのレンタカーの中には数少ないながらHyundaiの選択肢というのが実に12-13年以上も前からあったのである。当時はレンタカーだけは嫌でも米国車を使わなくてはならないので、毎回何か故障が起こらぬかと心配な事もあり、予約の際は無理を承知で日本車 requestを毎回出していた。そこでレンタカー会社の受付で「残念ながら日本車はありませんが、Hyundaiならご用意できます」と言われた時はつい、Lucky!と喜んで OKしたものだ。乗り心地とエンジンの静かさは日本車と同等であり(当時、エンジンは日本から`韓国に輸入していたかも知れない)長距離運転でも全く疲れない大変満足のいくものであった。

第三の注目点こそが本来の主題であるが、ドイツ車の品質評価が相対的に低い事である。まずドイツ勢の中ではトップのポルシェの第9位は例外として、VWが第21位、Benzが第23位、Audiが第24位、BMWが第26位とポルシェ以外は軒並み 20位以降である。更により注目すべき点はグラフで見ると品質のぶれの幅を示す横棒がドイツ車の場合は際立って長い事、つまりぶれが大きい事であり、これこそが技術力が劣化し出す兆候だ。これは日本のドイツ車ファンの方には意外に思われるかも知れないが、私が二回にわたるドイツ勤務の際に経験した BMWとBenzの使用体験からもついうなずいてしまうものである。つまり故障が日本車よりも間違いなく多いという事だ。ドイツ人社員に言わせると、「ああこれはトルコ製なんですよ。だってベンツのドイツの工場では Gast Arbeiter(外国人労働者-主にトルコ人)が車を作っていますから」と。そういう事で、二回目のドイツ勤務から再び米国に戻り、米国では 4台目の日本車のリースを決めた時は全く迷いは無かった。現在の車で米国では 5台目の日本車となるが3年のリース(米国では個人でもリースが普及)期間中に故障なんてものはいかなるものも想定されていない。事実、いずれも毎回見事に故障は皆無である。

それでは日本人が今も固く信じている「ドイツの技術力」がなぜ今や韓国の Hyundaiや Kia(第14位)までに負けるに至ったのか。その遠因はやはり、民主党的「高福祉・高負担」と民主党的「技術力追及に対する甘やかしの姿勢」ではないだろうかとついこじつけてしまいたくなる。

私自身以前転職した先がその分野では世界一の技術力を持つという中小のメーカーであったが、日本の製造業の現場はすざましい。その技術開発と品質管理の厳しさは自衛隊、いや帝国陸海軍並みかそれ以上のものであろう。日本に出張したおりに、トヨタ生産方式の改善コンサルタントの方と数回東北地方の工場に同行した事があるが、現場の責任者への問題点指摘と改善要求の際の怒号罵声のすざましさは殴りかからんばかりの迫力だ。会社としては中小企業だけに賃金水準や付加給付などは「中福祉」企業であるが、それでも現場の作業員には、その分野では世界一の技術力を持ち続けるという強い自負と誇りが態度に表れており、彼らは高温、騒音、油まみれの作業環境などは全く気にしない。これこそが技術立国日本の力の源泉だと思う。間違ってもドイツの自動車産業のケースとならぬ様、民主党に替わる早期の政権交代を期待したい。

2009年11月22日日曜日

親日国の日本離れ


台湾に次いでの親日国と言えばインドネシアであろう。戦前、アジア地域の中で日本軍が占領した国にも拘わらず親日度が高いのは、結果的にオランダから植民地を解放した事と、戦後1,000人以上と言われる日本軍兵士がインドネシアに居残って、舞い戻って来たオランダとの独立戦争に命をかけて共に戦った事からである。その旧日本軍兵士達は独立後、インドネシアに帰化して様々な形で日本とインドネシア両国間の橋渡しの役目を果たし、その多くは国立英雄墓地に埋葬されている。

1965年の共産党解体政変劇での主役であるスハルト将軍はスカルノに次いで第二代大統領となるが、その後そのスハルト政権で大統領補佐官として日本政府、日本企業とのパイプ役を務めたのが M将軍と H将軍だ。この二人の将軍はスハルト大統領の片腕として共に独立戦争を戦った関係から、旧日本軍兵士達との交流もあってすこぶる親日的であり、スハルト体制になってからは日本よりの経済援助や貿易と投資が飛躍的に増大していった。

実は私は1974年11月末の寒い日に、このH大統領補佐官氏をある非公式会合招待の為に帝国ホテルに迎えにいった事がある。H将軍はちょうどカダフィ大佐を小柄にした様な精悍な風貌で、迎えの車に乗るや何か思いつめた様にしばし押し黙っていたのであるが、車が首相官邸近くになると、突然「Mr.Tanaka resigns.」と、ドスの利いた声で口を開き、その後に深いため息をもらしたのだ。まさに田中首相が総辞職を表明したその日であったのであるが、このH将軍の胸中は複雑なものであったのだろう。

かって渋谷区の住宅街の一角に日本政府が賠償金で建てた立派な設備のインドネシア留学生会館と寮があったが、その時代には多くのインドネシア人留学生が日本の大学で学び、帰国後は国のエリートとして官僚や政治家、学者、企業経営者となっていた。しかしながら、田中政権時代の1974年に田中首相のインドネシア訪問直前に首都ジャカルタで大規模な反日デモが起こり、そのあたりからは流れが少し変わって、日本ではその後の田中角栄氏辞任、ロッキードスキャンダルでの逮捕へとつながっていくのである。

田中角栄氏についてはその政治的実行力と金権体質の二面から政治家としての評価が分かれるところではある。同氏の失脚は第一次オイルショックを契機に同氏が「日本独自の資源外交を積極的に推し進めたところから米国という虎の尾を踏んでしまった」事がこの一連の動きの背景と見るのが今や常識であろう。ジャカルタの反日デモと暴動はあきらかに組織されたものであり、その裏側には軍部内でCIAとつながる事で急激に台頭していたとされる親米派の S将軍と、親日のM/H両補佐官との間での権力闘争であったとも言われている。結果的には S将軍が失脚する形となったが、日本での田中角栄氏の失脚後はインドネシアの親米度は一気に増して、その後インドネシア人学生の留学先は日本よりも米国一辺倒となっていくのである。

ところがこの長年続いたインドネシアの親米度も2001年のニューヨークのテロ事件後、米国政府のイスラム教徒留学生への渡航滞在制限が厳しくなり、多くのインドネシア留学生が帰国を余儀なくされるに至り一転する。それに目を付けた中国がアジア地域での覇権と資源獲得の戦略もあって、1965年の共産党解体政変劇で外交関係が必ずしも良好とは言えなかったこのインドネシアに近年積極的に接近しているのである。私の知人で40年近くインドネシアの政財界に精通してきている古宮氏が最近ある雑誌に中国のインドネシア急接近ぶりを書いている。同氏によれば、中国は 05年以降、中国研究センターを設立、8,000校に中国語コースを設立して、大勢の中国語教師を派遣する事で、ソフトパワーの浸透はじわじわ効いているらしい。

こうして見ると、台湾の親日日本語世代とインドネシア政権内の親日派は時代とともに消え行く運命にあって、そこに変わるものは一時的に米国であっても、アジアでの国際政治の急激な変化で、地政学的、資源外交的戦略に長ける中国の存在がますます増大して行っているのが対照的である。ところで中国のもう一つの狙いは、インドネシア地図を見てみると明白である。台湾海峡、マラッカ海峡、それにロンボク海峡、この三つは日本経済の生命線である。マラッカ海峡の反対側にはいざとなれば中国の代理店を勤める華人国家シンガポールがある。1965年の政変の際に多数の中国系インドネシア人と共産党員が軍部に虐殺されたにも拘わらず、そんな「歴史認識問題」は棚に置いての見事な中国の覇権国家戦略である。

鳩山政権の東アジア共同体構想なるものが、いかに政治的に稚拙で裏では中国にあざ笑われているものであるのかは、このインドネシアの持つ戦略的重要性に対する中国の急速な動きを見れば明らかである。

台湾への思い入れ


私の場合の「台湾への思い入れ」の発端は、民進党政権時代に陳水偏総統の国策顧問にもなられた台湾(本省人系)を代表する企業グループの総帥である C社のK董事長に直接お会いした事だ。Kさんは日本統治時代を経験されていて日本語を母国語の様に喋られる事もあり、同じ業界の日本企業ともつながりが深く、日本の経営者の間ではほぼ全員がKさんファンというほどの人格者でもある。Kさんは裸一貫から C社を世界的規模の会社に育て上げた方だが、決して驕る事なく、常に腰が低く、芸術を愛される小柄で上品な感じの方だ。

私と C社とのビジネスでのお付合いはちょうど日本と台湾が国交断絶した後の1974年頃からとなる。C社の東京駐在員であるY氏がある日、法務省に行くのでどうしても付いて来て欲しいというのだ。今から思えば、台湾と国交断絶したゆえにビザの問題で苦労していたのだろう。彼としては少しでも法務省に信用してもらおうと日本企業の社員に同行してもらったのだが、果たして私の同行がお役に立てたかどうかは聞いていない。その後、海外勤務の関係で C社とのコンタクトは途切れ途切れとなっていた。それでも20年ほど前に短期間ながら東京の本社勤務となった時に、たまたま大手企業の役員の方と二人で C社を訪問する事となって、Kさんと董事長室でお目にかかる機会を得た。

今でも印象に残っているのは、我々が台南のC社本社ビルに着いたのは午後 4時頃であったが、一時間ほどKさんと色々なお話をして、事務所を出ようとした時点で気づいたのは事務所内には社員が全くいない事であった。見送りにこられたKさんは「ウチの会社では一切残業をさせないのです。そんな時間があったら、スポーツクラブに行って健康管理をするか、家に帰って家族と過ごしなさいと」。またKさんの董事長室でのお話もほとんどがビジネスに関するものではなく、趣味の美術、絵画、音楽と嬉しそうにお話をされた。Kさんのバイオリン演奏は業界のみならず台湾国内でも大変有名でYouTubeにも数多く演奏の動画が up されている。日本からの大切な来客時にはきまって、バイオリンで日本の歌を演奏されるというサービスぶりだ。こういう Kさんの魅力的で誠実な姿を見ていると、日本の経営者にも見習って欲しいと思ったものだ。

そのKさんの会社が、中国大陸に大規模な投資をし、現地生産体制を軌道に乗せたやさきに、中国政府はKさんの総統国策顧問としての発言に目を付け、その発言封じの為に不当にもC社に様々な圧力をかけ、あげくは現地駐在台湾人幹部を拘束し、その解放と条件にKさんに「転向」の公表を迫ったのだ。Kさんは自らの信念に反して、自社の社員解放の為に不自然な「台湾の独立を認めないという転向宣言」をし、公の場から一切姿を消されたのである。と、ここまで書けば台湾通の方ならKさんが誰かは御存知の筈であろう。

その後の台湾、米国、日本と三つの政権交代が全て「台湾は台湾人の国」にとって不利な方向に向かっている。先日の胡錦濤総書記と連戦氏の仲良く並んだ写真はまるで悪夢の様だ。もう既に80歳を越えられたと思うが、Kさんはどういう思いであろうか。

2009年11月17日火曜日

オバマのオジギ

オバマ大統領の皇居訪問の際の両陛下へのお辞儀の仕方が米国で批判されている。大統領があまりにも謙り過ぎるという事であろう。たしかに写真で見ると、どうみても屈みすぎでおかしい。写真というものはその背景にある様々な物語や出来事、歴史、文化までをも写しだすものであなどれない。

それではこの写真を見て、皆さん、500字以内に思いつく事を何でも良いから列挙せよとの設問をしてみよう。私ならアタリかどうかは別として即座にこう答えるだろう。

1. まずこの挨拶の仕方はおかしい。しかし決して失礼なものではないので日本側では問題にはしない。米国大使館員に教えられた通りのものを自分なりに実現したのだろう。
2. これはオバマ大統領の教養の問題であり、国家元首としていかに相手国の元首に振舞か、またそれがいかに重要かを知らない。
3. 米国内で批判されている。それは対等の国(防衛問題)ではない日本に何故かように謙ねばならないのだろうか。有事には日本の為に米国人の若者が血を流すというのに。
4. オバマ大統領は、従来の大統領と違って、日本人に対する拘りがあまりなくて、素直な気持ちでむしろ両陛下への尊敬と親しみを表現している。
5. オバマ大統領のお辞儀の仕方が例え変なものであって、何よりも両陛下の暖かく迎えられているお顔と立ち居振る舞いが大変立派で上品で美しい。
6. 終戦直後のマッカサー司令官と昭和天皇の写真を思い出す。敗戦国の元首が占領軍司令官よりも立派に見えた。歴史伝統の重さだ。

と、まあこんなところであろう。

こう書き出してみると、だんだんと的が絞れて来た。

オバマ大統領の変なお辞儀の写真を見て、敢えて一つだけに絞ってコメントを書くとすれば、これはオバマ大統領には歴史伝統というものに接してきた事で体得する「免疫」の様なものがない事を現しているのではないか、と見るのが私の意見だ。

昨年の選挙で思いがけず急に国家元首になって、訪日し、初めて歴史と伝統の象徴である両陛下のお姿を見た。そして意図せずああいう極端で不自然なものとなってしまったのではないか。大統領はたしかに成績優秀で演説がうまくて、それに知識はある。しかし、欧州の政治家と違って本当の「深い教養」なるものは持っていないのではないか。

食べ物はチーズバーガー、マイケルジャクソンの曲は全曲知っているファンと自称する大統領はその程度の薄っぺらい大衆文化しか持ち合わせていないのであろうか。その点、フランスなりイギリスなりドイツなりの政治家はこの点深い教養があるので、どう振舞うかは充分知っている。教養は単なる知識だけではなく、芸術や文化などから得られる感性をも加味した人間の精神性を高めるより高度の次元にあるものであろう。

さて、次の写真は 1945年9月27日に撮影された有名なものだ。皆様御存知の通り、この写真も多くのものを語っている。昭和天皇はこの時点では敗戦国の元首で死刑を宣告されてもなんら不思議ではないにも拘わらず、ごく自然にすーっと姿勢よく立たれている。なんら媚びる事もなく臆する事もなく。

一方、マッカーサー司令官はやはり歴史と伝統のない国のタダの戦争のプロだ。司令官のこの不思議な姿勢は何を物語っているのだろう。まず、日本の軍人なら敗戦国の元首と写真におさまる場合、こういう姿勢はとらない。武士道に基づく敗者への配慮と礼儀を考え直立不動だろう。おそらくむしろ昭和天皇の立ち居振る舞いに、その空気に押されたのではないか。こちらから見て陛下と反対側の左に傾いて、手が彼の心の状態を示す様に不安定だ。

これが米国人が絶対に手に入れる事に出来ない貴重な「歴史と伝統」の重さというものだろう。

総理も冒頭のオバマ大統領の写真を見て、まさか「そら見ろ、日米関係は対等だ」と確信されたのではないだろうが。

2009年11月15日日曜日

歴史を見つめる


ハーバード大学のニーアル・ファーガソン教授はたしかに今米国で脚光を浴びている経済学者だ。ファーガソン教授はノーベル経済学賞の大物であるプリンストン大学のクルーグマン教授とは思想的には対極にいて、両者間の派手な論争で一躍有名になってきた。スコットランド生まれの英国人だけあって、常に歴史を見つめ直す姿勢には説得力がある。本来の専門である金融論では、どう見ても、教授の主張する米国債の大量発行は長期金利の上昇とドルの基軸通貨としての価値を落とす事はやはり間違いないのではないかと思える。中国は人民元での競争力を維持する為とは言え、みすみす価値の落ちるであろうドル建ての米国債はそういつまでも買い続けないであろう。結局は FRBが輪転機を回すしかなくなるのではないのかと素人の我々には思えてくる。

さてそのファーガソン教授が Newsweek誌に歴史を見つめる記事を書いている。ちょうど20年前は日本では平成天皇の即位だが、ドイツではベルリンの壁崩壊が重なった時であった。教授の見方では、この冷戦終結を象徴する米国にとって喜ばしい出来事は、その更に10年前の 1979年の四つの出来事と比べれば、取るに足らないものだと言うわけだ。その四つの出来事とは、(1) ソ連のアフガン侵攻、(2) 英国のサッチャー政権 (3) イランのホメイニ革命 (4) 鄧小平の米国訪問、である。これら四つの出来事が現在の米国の抱える重要問題に直接、間接に係わっている。即ち、当時のソ連に変わり、今は米国がアフガンに関与し、サッチャー・レーガンの新自由主義の結果の経済危機があり、イランには核開発計画の問題があり、中国とは深い「負の経済的依存関係」があるというのだ。現在、米国が抱えているそういう深刻な問題の30年前の根源を見れば、20年前の冷戦終結を祝ってばかりはいられないという事だろう。歴史学が専門でもある同教授による紛争を起こす三大要件とは、(1)不安定な経済、(2) 民族対立、(3) 帝国(覇権国)の衰退、だ。アフガン戦争、経済危機、イラン核開発、中国の台頭、現在のこれら重要問題のいずれもがこの三要件に的中していて、更にそれらの不安定要素が拡大の一途である。

同時に同教授のロシアに対する見方もすこぶる厳しい。今やガスプロムを通じて欧州向け天然ガス供給を完全に操るまでとなり、更にシベリア地区での天然ガス供給を通じて中国への影響力をも深めようとする現在のロシアの政権こそがマルクス・レーニンの指摘した「国家独占資本主義」であると皮肉たっぷりである。資源・エネルギー問題の再燃はイラン、イスラエル、アフガン、イラク、と中東の火薬庫に火をつけかねず、エネルギー価格の高騰がますますロシアに利点をもたらすであろうとしている。同様に中国についても、米国とはたしかに「消費の米国と貯蓄の中国」という相互依存関係ではあるが、中国側は19、20世紀と他国に支配された歴史を持ち、若い世代はその「払い戻し」を求めて、新たな自信を持って独断に走る様になるとの意見である。おそらく壁の向こうのソ連や共産中国というものは確かに冷戦終結で無くなったが、それはまた本来のロシアや中国の持つ国家主導型、国家主義的資本主義という新たな国際的自由主義経済社会への脅威にもつながる体制である(ひいては経済の不安定が紛争につながる)事を警告している。

昨日のオバマ大統領の東京でのアジア政策に関する演説を聞いてみると、繰返し日本との同盟関係がアジア政策の礎であるとは述べていても、それ以上のものは特段何も日本に期待していない様にも聞こえる。一方、中国に関しては、いかにオバマ大統領が日本の立場に配慮する控え目な発言をしようが、今回のアジア歴訪の旅では全体の日程の半分である 4日間をも中国滞在に予定している事でその重要視の姿勢は明らかである。国際協調路線に転換したオバマ政権としては、中国に対しては経済的に「あまりにも過度に依存しすぎている事」のみならず、アフガン戦争も、経済危機も、イランの核開発も、気候変動・環境問題も、北朝鮮問題も、何から何まで今や中国の協力なしには何事もなし得ない。歴史を振り返れば、覇権国というのは全盛時代であろうが、衰退過程であろうが、すこぶる身勝手で、ご都合主義で、二枚舌でも三枚舌でも使い分けるものだ。これを常に念頭において置かねば、演説の冒頭での「抹茶アイスクリーム」の一言で新政権が魔法にかかった様に思考停止となって、オバマ大統領の演説の裏に潜むものを読み取る努力を怠ってしまうのでは困るのである。

2009年11月13日金曜日

イラク戦争体験談


Veterans Dayの事を書いた後、理髪店に行くとたまたまそこの日本人のオヤジの息子がDVD機器を修理に来ていた。彼、K君は韓国人の母親との間に生まれた米国籍を持つ日韓ハーフである。従って、日韓英の三ヶ国語を完璧にこなす trilingualである。そんな彼が大学進学の資金稼ぎに親父とも相談して米陸軍に入隊し、5ヶ月の訓練の後に二年間兵士としてイラク戦線に二回参戦した。無事満期除隊したのは半年前であるが、現在は地元の Community Collegeに通いながら大学編入を目指し、カリフォルニア州の州兵に登録して訓練も受けている。州兵に登録する事により学業途中で再度アフガニスタンに派遣される可能性は低くなるらしい。また除隊後は大学の学費のみならず、生活費までが国から支払われるとの事だ。

そこで、なかなか無い機会なので少しイラク参戦の個人的体験談なるものをK君に聞いてみた。K君は背が高くがっちりした体格の、アジア的風貌の物静かで真面目で素朴な感じがする若者である。以下は敢えてイラク戦争の是非そのもののには言及せず、参戦した若者から聞いた話を単に列記するだけに留める。

まず彼のイラクでの所属部隊と任務はパトロール部隊であり、階級は Specialist、(技術兵、伍長と並ぶ階級)であった。基本給は 2年の勤続経験で月に約 $2,000である。バグダッド郊外に配置されて、毎日担当地域をパトロールするのが彼の部隊の任務である。具体的にはどういうパトロールをしていたかと言えば、地元イラク人コミュニティーと頻繁に連絡をとり、地元住民の声を聞いて、イラク軍、警察と協力しながら地域の治安と安全に協力したという事である。この辺は派手な戦闘部隊のイメージよりも、むしろサマワでの自衛隊の地道な活動ともつながるものがある。

そんな日々の中で、K君がイラク参戦で最も辛く嫌な経験であると言ったのは、部隊の仲間が二人戦死した事である。彼の親父によると、かなりのショックであった様で、除隊後もその事についてはあまり話したがらないらしい。逆に彼に、入隊し参戦する事でプラスになった事は何かと聞いてみると、迷わず「部隊の仲間と家族の様な強い絆を持つ事が出来た事」だと答えた。勿論、仲間の中には国家や国際社会に貢献しているとの自尊心の様なものを感じているのもいたらしいが、「僕はそこまでは考えなかった」と素直である。

イラクに派遣されていた仲間の人種構成を聞いてみると、前線部隊にはやはりヒスパニックと黒人が多かった様に思うが、アジア人は極めて少なく全体の2%くらいで、彼の周辺で日系人や日本人の兵士は見た事はなかったと。またバグダッドでは2名の日本の自衛隊員に会った事があると言っていたが、これはサマワ本隊との連絡係であろう。指揮官も士官学校を出たエリートの軍人ではなく一般の大学に設置されている教育課程の一つであるROTC(Reserved Officers’ Training Course、予備役将校訓練課程)の単位取得者が将校となっているのが多いらしい。

彼の所属する小隊(Platoon)は 20名くらいの編成で、普段は兵舎として大型トレーラーハウスの様な所に 6名づつが住み込んでいて、部隊の調理兵による料理を食べていたらしい。歩兵部隊の大部隊だと catering会社によるビュッフェ大食堂があって、そちらの方がずっとうまい飯が一杯食えるんだがなと笑っていた。

ところで前線の軍隊では休日などあるのかと聞いてみたが、そんなものはなく、24時間勤務もあれば 3時間勤務もあり3日間連続の野営もあったそうだ。二回目の派遣期間は 15ヶ月の長期であったが、その間の休暇日数は 18日だけでその期間は米国に帰っていたらしい。この15ヶ月間連続派遣はさすがに厳しかったらしい。

パトロールに出ていない時間は兵器や装甲車、トラックの整備点検があって、これには結構時間がかかったらしい。全くの自由時間ではあまり自由もないのでテレビや DVDを見たり、ビデオゲームをするといったごく普通の若者らしいものである。兵舎ではCNNのニュース等もそのまま見る事が出来るが、仲間も口を揃えて言っていた事は、メディアはどうして都合の悪い事を刺激的に誇張して伝えるのであろうかという事で、前線での事情をうまく伝えていないとの不満もあった様である。

以上の通り、現地での米軍の活動がイラク戦争の開戦初期の様な戦闘部隊中心のものから counterinsurgencyといわれる治安維持部隊中心へのものに変わった為に、K君の話を聞いていると、あたかも一定期間、気候条件の厳しい土木建設作業現場に派遣される若者の体験の様な感じを受けるが、現実には2名の仲間が戦死しており、そこにはやはり日本の若者の日常とはかなり違ったものがあって、色々考えさせられるものがあった。

K君の様に軍役を満期除隊して、大学進学する場合はその費用のみならず、カレッジから大学への編入の際の最優先権までが与えられるとの事である。また彼の家族によれば、陸軍本部からは本人が休暇で帰国した際や除隊帰国後の精神的状態について頻繁に問い合わせが来るらしく、兵士の心のケアにまで相当配慮されている様でもある。

振り返って、日本ではチンパンジーよりも劣ると言われる(驚くべき発言をする)防衛大臣にはとてもとても現場の自衛隊官の気持ちなど推し量る気持ちさえもないのであろう。

2009年11月12日木曜日

Veterans Day


11月11日は米国では Veterans Day、退役軍人の日であった。これに先立つ先週末に、近くの街にある地域コミュニティーの集まりに、そこの幹事役の女性から誘われて彼女のゲストという形で参加させてもらった。おおよそ100人ほどのランチの集まりであったが、その日は特にそのコミュニティーに住む退役軍人達にあらためて敬意を表するという趣旨であった。この街は太平洋岸の比較的昔から開けた一等地であるからか、その集まりにはアジア系、ヒスパニック系の姿は見られなかった。幹事役の女性の説明によると、その一等地で余生を送り、亡くなっていった人達が遺産をそっくりそのコミュニティーに寄付するケースが多く、公共の集会場と言っても日本では考えられないほど立派できれいなものである。

さて集まりでは、司会役の人からマイクを渡されて20人くらいの退役軍人達が一人づつ「どの戦争に、どの軍で、どういう階級で、参戦したか」を簡単に自己紹介したのである。その中には第二次大戦に参戦という80歳代後半から90歳代の老人も 5人ほどいた。自己紹介が進む中で一つ意外な事に気づいた。第二次大戦、朝鮮戦争に次いで「Cold Warに参戦した」という人が10人ほどいた事である。Cold War、冷戦、即ちベトナム戦争である。誰かが他人の自己紹介の後に「戦争なんて Hot なものなのに、一体なんだいその Coldというのは」と冗談を言って笑わせていたが、それに参戦したという全員が見事にベトナム戦争とは一切言わず敢えて「Cold War」を使う事で統一していた。

我々団塊の世代よりも少し上の米国の世代の中から多くの若者が徴兵され、56,000人もの戦死者を出し、事実上敗北、撤退したあの「ベトナム戦争」という名前さえ使いたくないほど、米国社会は傷つけられたからなのであろうか。

米国内で取引先を訪問したり、各地を出張したりした時に、よく出会ったのが「日本に行った事はあるよ、Kadenaに」と言うこの世代の連中である。つまりベトナム戦争での戦場への往復や休暇で沖縄の嘉手納基地に降り立ったという事だ。一人の男は取引先の工場の工場長であったが、それでは「Marine (海兵隊)かい?」と聞くと、「お前は俺を insult(侮辱する)のか、俺は Air Forceだ、奴らと一緒にしないでくれ」と笑う。新政権の岡田外相による普天間(海兵隊)基地の嘉手納(空軍)基地への統合案の話を聞くといつもこの男の笑い顔を思い出す。なるほど我々ではあまり知りえない米軍内での微妙な関係の様なものもあるのだろう。

そのベトナム戦争の終幕を象徴するあのサイゴンの米国大使館屋上からのヘリコプターでの脱出の写真が Newsweek最新号の表紙である。アフガン戦争のベトナム戦争化を危惧しての特集記事が組まれているが、アフガン駐留のマクリスタル司令官からの 40,000人の兵力増派要請に対して、オバマ大統領がどう答えるか、ベトナム戦争の教訓を通じてのまさに賛否両論なのである。

増派賛成派はアイゼンハワー元大統領の ”If you fight, you must fight to win.” という言葉を引用し、オバマ大統領が一旦アフガンの戦いに力を入れると言った以上、中途半端な事をすればそれこそ悲惨な結果につながると警告し、一方反対派の中には早くも早期撤退の機会を探るべきだとしている。いずれにせよオバマ大統領としては、このアフガン問題は医療保険の問題と並んで政治生命をかけての最重要課題であり、日本の新政権の幼稚な対応振りに付き合って居られるほどの時間的、精神的な余裕はないであろう。

2009年11月10日火曜日

闇将軍の宗教観

闇将軍、小沢氏は全日本仏教会会長の高野山真言宗管長に「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」と述べた、と読売新聞が報じている。勿論、中立的立場であっても自民党とつながりの深い仏教界に対して、民主党への支持を取り付ける為、お得意の政治的な殺し文句として使ったのであろう。

これでかような発言をする闇将軍に支配される「新政権の危うさ」というものの認識を更に深めた方々も多い事であろう。日本の仏教界はまさに仏教の教え通り、キリスト教をもイスラム教をも敵視した発言をした事はない。いや現実はむしろ宗教界が一緒になり手を携えて人々の心の癒しと平穏な社会を作る事に努力してきている姿だと思う。故にそういう小沢氏の発言こそが「排他的、独善的」そのものであり、仏教の教えとは180度反対方向にあるものであろう。

私は100%仏教徒であるが、この小沢氏の発言は極めて不愉快であり、許しがたいものであると考える。先ず第一に、仏教界の頂点にある高僧の方は人間の煩悩の象徴である政治権力とは本来かけ離れた所にあり、小沢氏のかような発言の裏に潜む心の卑しさはお見通しである筈だ。ただただ「愚か者め」と思うだけで、逆効果であろう(とそう願っている)。第二に、高野山というまさに真言宗徒、仏教徒にとって最も神聖な場所において、かような醜く卑しい政治権力闘争が潜む発言をする事自体、汚らわしい。第三に、日本の与党の最高実力者が、キリスト教徒が殆どを占める欧米の政界関係者に対し与える日本政治に関するマイナスイメージは計り知れない。まさに日本の与党のレベルの低さ、汚点をさらけ出したにすぎず、国益をますます損なうものであるのは間違いない。

現在の米国の拝金・強欲社会というものは、小沢氏の言う様な「キリスト教文明がもたらした」ものではなく、むしろ歴史、伝統、文化のない、何も共通の精神的バックボーンを持たない移民国家であるからこそ出現した現象ではないのか。仏教徒の私でも欧米に長く生活して、キリスト教の持つその救済実行力には頭が下がるものがある。世界の貧困・戦乱地帯に宣教師やシスターを派遣し、彼らが命を賭して人々の救済にかける姿はとても仏教界には及ばぬレベルの実行力と精神力である。

また小沢氏がわざわざ出向いた高野山は政界遺産に指定された事もあり数多くのキリスト教徒の欧米人が訪れる聖地でもあるが、私が4年前に訪れた「奥の院」ではドイツ人の青年がそれこそ薄暗いお堂の奥の一点を見つめたまま長時間立ち尽くしていた姿が印象的であった。まさに宗派を問わない宗教の魅力であろう。

どうやら小沢氏の心には宗教というものよりも欧米に対する深い劣等感の様なものが見て取れる。それは欧米先進国の政界では絶対にあり得ない、現在の新政権を支配する闇将軍である事のある種の後ろめたさである。その闇将軍に対しては最早、党内からは「小沢さん、それはおかしいですよ」の一言も出ない不気味な独裁体制。あの総選挙前の民主党代表選挙の際に「おい四人組よ、俺のいう事を聞け!」と小沢氏に名指しで恫喝された一人の仙石氏のあの行政刷新チーム問題で小沢氏の怒りをかった時のへりくだった卑屈な姿。まさにあの方のその卑屈なお顔と表情はテレビドラマの俳優の演技での顔よりも真実味があって、見ていて何とも忘れがたい。

今回の選挙で民主党を支持された多くのキリスト教信者の方々には誠に失礼ながら、まさにバッハの代表的宗教曲であるカンタータ140番「目覚めよと呼ぶ声あり」(Wachet auf、ruft uns die Stimme)である。

2009年11月9日月曜日

台湾とドイツ

NHKのベルリンの壁崩壊20周年の特集番組で、東独側では壁崩壊後に生まれた若者世代を中心に旧西独側との経済格差から来る不満からか旧東独に憧れを持つと言った現象まで現れていると報じられていた。まさか「もう一度壁を作れ」と言う人はあまりいないとは思うが、こういう若者は、旧東独のドイツ社会主義統一党と SPD(社会民主党)を離党した左派グループとが合体したDie Linke(左翼党)という政党を支持していると紹介している。

これを見て、つい最近日本の「周辺」の国でも起こったある政権交代の事が思い起こされた。それは世界で最も親日の国とされる台湾での事である。台湾は李登輝元総統のもと 1990年代から急速に民主化を進めてきた結果、2000年の陳水偏民進党政権の成立に至ったのである。その背景としては台湾生まれの本省人と中国大陸出身の外省人の比率がおおよそ 85:15となってきた事もあるが、それよりも台湾が中国の妨害で国際政治・社会では阻害されながらも、グローバリズムの進展の中で IT産業を中心に経済的に大きな発展を遂げた事が台湾の人々の独立国国民としての自身を深めたところにもあるのだろう。

しかしながら、2008年の総統選挙では陳水偏氏の後任である民進党の謝長廷氏は大陸生まれで国民党の馬英九氏に大差で敗北したのである。国民は決して映画俳優なみのマスクの馬氏に惑わされただけではない。それに先立つ立法院選挙でも国民党は民進党に圧勝していたのである。この現象に日本の良識ある人々は「一体何故?」と思われた方も多いと思う。台湾人の民進党支持層を含むいわゆる独立派の人々は口々に「国民党がメディアと軍と官僚組織を押さえている事から公正で正当な選挙が出来なかった」と述べている。確かに戦後長く続いた国民党独裁政権体制の残渣というものは消し難いものはあるだろうし、事実そういった不正はあるだろう。しかし、私にはそういう表面的な事もさることながら、それは民主主義体制が確立されたからこそ、必ず生じる一つの「不幸な共通現象」、「不都合な真実」に他ならないと思えるのである。

この「不幸な現象」を理解する為に、ドイツの歴史を振り返ってみよう。ドイツは第一次世界大戦後それ以前のドイツ帝国から、いわゆるヴァイマール共和制に移行して民主主義国家となった。しかし天文学的数字の巨額の賠償金と驚異的なインフレにより国民経済は疲弊し、人々の不安と不満は高まり、その様な国民の心理状態からでこそ、あのヒットラー率いるナチ党が国民の熱狂的な支持を受けて民主主義の選挙の中で正当に政権を握ったのである。実は表面的には違った現象でも台湾国民の心理もこれと共通のものがある。
台湾は国際社会から閉鎖された中で、一方では中国の政治的、経済的、軍事的存在感は急速に高まり、このままでは台湾は政治的、経済的、軍事的に呑み込まれてしまうという大いなる不安と懸念を持っている事は間違いない。何よりも頼りとする米国や日本も今や中国の言うままとなりがちで頼りにはならない。そうした不安、不満が頂点にある時に国民はヴァイマール共和制のドイツのごとく、民主主義で自らが選んだ筈の政権を自ら民主主義で葬り去るのである。ドイツの心理学者、エーリッヒ・フロムもその著書「自由からの逃走」で人間(台湾国民)は自己実現(台湾人としての identity確立や国連加盟)が阻まれる時に一種の危機に陥り、自らが意識しないままに権威(中華思想)への従属と自己の自由(台湾の民主主義)を否定する方向に向かう、と述べている。

これは2000年以上も前の民主主義の原型である都市国家アテネでも既に起こっていた事を政治学の教科書では教えている。アテネではそれまでの貴族によるいわゆる僭主専制政治から市民の投票により選んだ将軍による民主政治に変わっていたのであるが、民主主義体制の市民は民主主義を手にした途端、まことに気まぐれとなる。その将軍の施政に少しでも不満や不安が出てくると、投票で自らが選んだ将軍を自らの手で葬り去るという事を繰り返したのである。それがやがては都市国家の活力をそいで、あっという間に隣国の新興軍事大国マケドニアの力に屈して占領されてしまう結果につながるのである。

いや、ひとごとではない。それは国民が「政権交代政権交代」と無邪気に興奮しながら選挙で選んだ、「国家観なく、ポピュリズムに走る」、「独裁裏将軍の操る」民主党政権の日本国、そのものの姿でもあるのだ。

東側諸国の実態

前号にて旧東独地域では旧西独地域との著しい経済格差の不満から壁の存在を知らない若者層では旧東独体制に憧れまでを抱くに至っていると報じられている事を述べた。先日、同様に米国内で日本の新政権に大いに期待するという日本人ジャーナリストの女性が講演で「だって小沢さんってもう過去の人でしょうー」と発言したのには参加者一同驚いた。ひょっとして自民党幹部としての金権全盛時代や細川政権時代の闇将軍であった小沢氏を知らない20代の若い世代かと思いきや、お顔のシワを良く見るとそうでもなさそうであった。

いずれもつい20数年前の事とは言え、歴史を知らないという事は恐ろしい。その面では我々団塊世代のビジネスマンは政治家、官僚、メディアの方々とは違い、冷静終結前のいわゆる東側体制の東欧諸国に仕事で頻繁に出かけて行き、その実態をつぶさに見て、体で体験しているだけに政治がどうあるべきかの信念は揺らぎないものがある。この「甦れ美しい日本」のメルマガにも時折投稿される関西零細企業経営者の方にも共通するのは、冷戦中にその東欧諸国に度々出張した体験を持つ事であろう。

それではその団塊の世代が学生時代の頃から一部知識人に「理想の社会主義国」として教えられたりしていた東欧諸国の実態というものの一例をご披露しておこう。

その理想の国とされていた一つはルーマニアである。冷戦終結前にもルーマニアのブカレストには日本企業の駐在員事務所が置かれていて、少人数ながら日本人も家族連れで現地に赴任していたのである。このルーマニアは「ローマ人の国」を意味する国名からも推察される様に東独、ハンガリー、チェコの様な工業国家ではなかった。従って外貨を稼ぐには農産物や畜産物といったものの輸出しかなく、チャウチェスク独裁政権のもとでは農業国でありながら、国民には充分な食料は行き渡ってはいなかった。

その結果、現地では日本人家族に食べさせられる様な食料品の入手が難しく、近隣の先進国である西独から駐在員が出張と称して毎週のごとく西独で調達した肉、魚、野菜、パンといったものをコンテナーに詰めて代わる代わる運び屋をやったのである。勿論、私も運び屋をやったが、問題は入国検査である。ある同僚の西独駐在員は入国検査でその食料コンテナーの中身までを調べられて、係官に目の前でその中身をゴミ箱に捨てられたのである。勿論、そんな大芝居は誰が見てもみえみえであり、後でその貴重品である西側の食料品をゴミ箱から拾って係官の皆で山分けしたのは間違いない。辛いのはその運び屋出張社員の到着を家族と共に待ちわびていたブカレスト駐在員の「オマエは一体何の為に出張して来たのか」という落胆ぶりである。

それでも出張者は、一応は出張目的として現地政府の公団との輸出入の折衝をするという事になるのであるが、泊まるホテルも駐在員事務所も食事をする所も全てがアメリカ系のインターコンチネンタルホテル内だけの世界となる。つまり一歩そのホテルの外に出れば、通信のインフラから交通手段、レストランも何にもないただただ灰色の世界なのである。公団には事務所の車を使って出かける事となるが、相手は国営公団のお役人である。アポイントを取っていても、一時間いや二時間、暗い部屋の堅い木の椅子で待たされるのはざらである。出てくる役人どももどれもやる気のない、しかし高飛車な態度の腐りきった人間ばかりでうんざりする。案の定、この腐りきった独裁政権の末路は、無血民主化を成し遂げた東独、ハンガリー、チェコとは違ってあのテレビで何度も繰返し放映される事となったチャウチェスク夫妻の銃殺シーンである。

こういう事が当時日本のメディアが決して伝えなかった、しかし我々ビジネスマンがまず知り得た、「人間を幸せにする理想の社会主義国」の実態なのであった。国営化企業、計画経済、社会主義といったものがいかに人間の精神とモラルを腐らしてしまうものか、その本来の国民全体を幸せにすると言う観念的な目的からは大きくかけ離れた現実的な結果を導くものであるという事を、我々は身をもって体験していたのである。

欧州の現実

今回の8月の選挙結果から、日本も欧州先進国の様に少子・高齢化の問題を抱え、これからは高福祉国家の道を一途に目指して、市場経済重視の道には二度と戻らないであろうと思い込むのは早急であろう。英国では来年6月の総選挙で 13年ぶりに保守党に政権交代する可能性が高まってきている。43歳というキャメロン党首の人気が急上昇中である。このキャメロン氏は王族の血を引き、イートン – オックスフォードという絵に書いたエリートであり、長身、甘いマスク、弁舌爽やか、ユーモアあり、よき父親(2月に長男を亡くした事への同情あり)、自転車通勤という庶民性と、英国では申し分ない条件である。しかも、サッチャー流の新自由主義とは一線をかいて中道の道を行くとなれば支持層も幅広い。

もし英国で保守党政権へと交代すれば、フランス、ドイツに並んで三国揃っての保守政権となる。しかしながら、米国とは若干違い、保守政権が米国型の市場経済至上主義に走るという事は三国での政権交代の流れを見る限りあり得ないであろう。いずれも保守派の中ではやや中道路線を歩み、社会民主主義的な政策を維持していて、幅広い支持層を獲得しているからである。それではそうした明確な対立軸がない中で、何が政権交代をもたらしているのであろうか。どうも党首の外見、人気、人柄によるところが大きそうだ。

そこにはそれぞれ三国のお国柄の違いも見て取れる。フランスのサルコジ大統領はややあくの強い個性を見せ付けるし、ドイツのメルケル首相はいかにもドイツ的(牧師の娘で西独生まれ、東独育ち)な質素ないでたちである。メルケル首相はドイツでは党派を問わず、女性層の支持を完全に取り付けているらしい。米国から見ても、あのヒラリー女史の様な人を見下した、冷たそうな雰囲気で一種の緊張感をもたらすのではなく、メルケル首相の決してファッショナブルとは言えないな服装といでたちに、何となく癒される様で好感が持てるのである。

英独仏三国の政治を見ていると、日本との大きな違いの一つが、首班が日本の様にそうコロコロと変わらない事だ。それは一つにはドイツでの解散権の制約等の議会の規約上の要因もあるであろうが、やはりしっかりとした二大政党制というものが確立していて、日本の様に以前は自民党の中枢にいた人物が、今度はぞろぞろと民主党の中枢で権力を把握するといった大いなる欺瞞と矛盾がないからである、つまりあくまでも政策が中心であって、日本の様に政局を軸に選挙民が惑わされると言う様な馬鹿げた事が起こっていないからであろう。

ドイツ版不都合な真実

「関西の零細企業経営のオッサン」の方の記事を読み、まさに四半世紀前に私自身が経験した西ドイツでの高福祉の「不都合な真実」を思い出した。そこで現在の新政権が目指す高福祉政策の結果がいかなるものとなるのかの一例としてそれをご披露しよう。それはちょうど 25年前、即ち西ドイツが70年代からの社会民主党政権時代に確立した「高福祉政策」の頂点にある時代に、私がたまたま日本の製造業現地責任者として、本社が約 50億円を投じた150人規模の新工場を立ち上げ、工場を運営していた時の経験談である。

その際、一番苦労したのが日本とは全く異なる雇用関係である。そこで、営業関係はその分野で経験の深いもう一人の日本人に任せきり、この雇用問題に関しては信頼できるドイツ人の人事総務部長と製造部長の二人から色々教えてもらいながら、徹底的に取り組んだ。まずその法制面での実態とは以下の様なものである。

1. 解雇防止法で従業員は違法行為でもない限り原則的に解雇出来ない
2. 勿論、派遣労働なるものはなく、一時雇用はごく短期間に限定される
3. 労働時間は週35時間(当時)以内に厳格に規定され、残業なるものはそもそもない
4. 日曜日は工場の運転は出来ない(従って 24時間X 7日の連続運転は不可能)
5. 工場内に Betriebsrat と称する作業所単位での労使協議会の設置を義務付けられる
6. 原則従業員の人事雇用に関する事項は全てこの協議会での了承取り付けが必要
7. 現場従業員の賃金水準は企業の業績に関係なく、上部団体の産業別組合が決定する
8. 子供手当ては国から支給されるが、母性保護法により女性従業員の出産前後 14ヶ月は完全な有給休暇となる

まだまだ列記すれば限りないが、これが西欧先進資本主義国での「高福祉政策」の法制である。特にドイツ独特の労使協議会の存在により、従業員側のどういう人間が労使協議会の委員長になるかが経営上の成否を決める大きな要因となってしまう。労使協議会と言っても、日本の様な企業別労組と違い、上部団体の産業別労組の影響を大きく受けるのであって、いかに経営側が社内で協議会委員長と良好な関係を築こうが、合意に至らないケースも多く、その場合の最終決定は労働裁判所に委ねられ、裁判官の元に何回も足を運ぶという事となる。

今から考えれば、その後の冷戦終結によるグローバリズムの前であっただけに、旧東側体制や新興国からの安い賃金での輸入品というものも無かった時代であり、この高福祉からくる極めて高コスト体質の企業でもその当時は充分存立できたのである。当然ながらこの工場は現在では中国品等の輸入品とはとても競合出来ず、たちまち廃業となってしまっている。

それでは次にこうしたぬるま湯的高福祉政策が現場の従業員の態度にいかなる影響をもたらすかのいくつかの事例をご紹介しよう。

クライン・孝子さんの「大計なき国家日本の末路」にも書かれている様に当時の西独政府は東独政府に高額のお金を出して、西側に逃亡しようとした人間を西側に引き取っていた。我々の工場にも東独からの3名の人間が現場に雇用されていたが、人事部長と製造部長が声を揃えて彼ら3名の勤務態度を高く評価し、いち早く班長に抜擢したのはそのうちの一名であった。彼はポーランド生まれであったが、「私はドイツ人である」と胸を張って頑張っていた。彼は戦後ドイツから領土をポーランドに取り返された旧ドイツ領地域の出身であったのである。

これは何を意味するのか。もう既に高福祉政策の労働者保護の恩恵にどっぷり浸かっていた西独の労働者とは違い、職業選択の自由さえない東側体制から解放された喜びからか、彼らは一から頑張って、必死で勤勉に働いたという事である。

二番目は、これまた日本や米国で考えられない事であるが、平たく言えば有給での「病気ずる休み」がいくらでも可能であるという事だ。私自身も風邪気味で近所の医者で見てもらった事があるが、そこでドイツ人医師は「それでは休みは何日欲しいのか?」と聞いてきたのである。それは「病気であるから何日の休養が必要である」との医師からの証明書があれば、法律では有給休暇の枠外で、有給で何日でも休めるのである。本人が風邪の症状で辛い苦しいと言えば近所で仲良くしている医師とか親戚の医師であれば気軽にそういう証明は書いてくれるものである。悪意の従業員にかかると、ある時は医者を次々と変えたりしてこれを乱発させて、工場シフト体制に穴をあけてしまうのである。

もう一点は Schwarz Arbeit(闇労働)、つまり手厚い失業保険の給付を受けながら、同時に闇で働き続けて報酬を受取る事である。これは当局がなかなか失業者一人一人の実態をつかめない事から、相当蔓延していた様に思う。いわゆる家庭内のペンキ塗りや電気製品の修理等のいわゆるアルバイト的な仕事はほぼこの連中の活躍の場であった事は間違いない。

こういう高福祉・高負担社会であっても、それでもドイツは当時は西欧諸国では群を抜いて経済的に豊かなであり、先進であり続けたのは、いかにドイツ人の時間当たりの生産性が高く、いかにドイツ人が効率良く働くかを示すものである。しかしながら、そこまで生産性の高くない英国の先例では、経営者、従業員ともに自動車、家電、OA他の機械類などは自国内で作るという気概さえなくし、工業で成立っていた地方都市が次々と荒廃していったのはこの高福祉政策の結果である。まさに関西のオッサンの方が述べられていた「大なり小なり精神を冒され腐りつつある」と言う状態が現実におきていたのであった。

大計なき国家

「大計なき国家・日本の末路」 クライン・孝子著

この本を読んでつくづく感じた事がある。日本人はある程度米国に関しては情報や知識、体験に恵まれていて米国は比較的「近い国」であるが、ドイツに関してはそれらの面からは依然「遠い国」なのである。例えば自分自身の周りを見渡しても、親戚、友人の殆どと言って良いほど米国勤務や留学の経験がある。今の時代、永住権を持って米国に住んでいますといっても、日本人では何も珍しい事ではない。事実、カリフォルニア州あたりでは定年後そのまま帰国せずに永住している人や、あるいは定年後改めて永住権を取って移住する人までがかなりいる。しかし、ドイツに住んでいました、留学しましたという人にはそう多く会う事はない。日本人の欧州観光旅行でもまず行き先はロンドン、パリなのである。

そんな中でドイツに関する情報というものは駐在や留学でドイツに住んだ事のある人間にとっても、意外と限られたものである。一つにはドイツ語という言語の問題もあるだろうし、仕事の関係でドイツに住んでも担当範囲が、欧州全域とかで何事もドイツだけというわけにはいかない事もあるからだろう。クライン・孝子さんの本はそういう意味ではユニークであり貴重である。何よりも一般の日本人が知らない事実をジャーナリストとしての視点から細かく調べ上げている事であり、この本に書かれている戦後ドイツの悲劇や情報戦略・諜報機関といったものを今までどれだけの日本人が調査し、書き記したであろうか。

そもそも我々日本人にとって、ドイツという国は、米国という国に対する感情とはまた違った特別なものがあるのではないか。それは特にクライン・孝子さんの世代にとってはもう米国などとは比較にならない思い入れがあって当然だ。同世代の両国の人達が第二次大戦末期と戦後にどれだけ色々な問題で苦労をし、辛酸をなめさせられたか。そこに於いて、国のあり方や政治のあり方がどうあるべきかを体で学んだものを、今の若者、いや戦後生まれの我々さえも今一度ドイツの戦後体験を深く理解する事で学び取らねばならないと思う。

クライン・孝子さんの言いたい事を代弁すれば、ドイツの体験とは一言で言えば「現実は厳しい」に尽きるのではないか。外交・安全保障、情報戦略、教育、メディア、歴史認識、これらにしっかりと対処しないとそれこそ「末路」へと向かうという事だ。この本が出版されたのはきしくも政権交代により日本の新政権が生まれた時期と重なり、これら全ての面から見れば、今後ますます末路へと向かうという危惧を強めざるを得ない。ひょっとしてクライン・孝子さんはそれを随分前からお見通しで敢えてこれを書かれたのではないかと思う。米国に住む私が何故今、急に昔住んだドイツの事を繰返し思い返すかと言えば、それはひとえに「新政権の危うさ」からである。今日本が学ぶのは米国からよりもドイツからである点を深く深く再認識させてくれた名著である。

脱官僚

新聞の解説にある通り、いつのまにやら新政権の勇ましい掛け声の「脱官僚」が「脱官僚依存」に変わってしまってきている。いずれにせよ、総論での「脱官僚」に反対する人間は少数派であろうが、国民の側としては「脱官僚をどんどんやってくれ、しかしどこまでやれるのかな」というのが大多数が感じるところではないだろうか。民主党の若手を中心に「脱官僚」に情熱をもやし、国民の負託に真摯に答えようと見られるものがいて、この点は大いに支持したい。内閣府の副大臣トリオはそれなりに知識、経験、見識もありそうで、新政権のイメージ作りには大いにプラスであると思う。新鮮で清潔、熱情といったものが感じられ、この辺の人事は妥当ではないだろうか。

しかしである。裏の権力者であられる方はこの「脱官僚」というものにどれほどまでに真剣に考えておられるのかははなはだ疑問である。この方の歩んでこられた政治の道では、むしろ官僚と密着に接する事で自らの権力維持に努めてこられたのではないだろうか。政治の師と仰ぐ田中角栄氏は官僚たちを使いこなす名人であったので、官僚なしでは自らの権力維持はあり得ないと体の芯まで感じておられる筈だ。そうすると、今回の華々しい「脱官僚」なるものの掛け声は単なる選挙戦での戦術に過ぎず、あの斉藤元大蔵次官の日本郵政新社長への起用は、この最高権力者の方の「官僚たちよ、これからは俺様の言う事を聞けよ、悪い様にはせんからな」という暗示なのではないだろうか。

そもそも官僚達が「脱官僚」を叫ぶ新政権にどこまでも盾をついたり、あるいはボイコット的な行動に出るのであろうか。官僚達は本来自らの身の振り方、自己保身には極めて敏感である。また新政権側でも官僚達と敵対したり、対決したりするのは政権維持の上で得策ではない事は充分承知の上である。そうなれば官僚達はさっさと新政権に迎合し、適応するのではないだろうか。それが本来の官僚の官僚たる姿だ。そしていつの間にやら、新政権と官僚達との間での新たな形での「官僚依存」関係が出来上がるのは目に見えている。その際、優秀な官僚達の創意工夫と協力で、あくまでもマニュフェストとの論理性と整合性は一応備わった形にして、である。

ところで民間企業で「誰それは官僚的だ」と言われると、それは完全にnegativeな評価である。企業が求める本当の人材は究極的には真にearning powerのある人間であるが、そういうタイプではなく、自己保身のうまい人、評論家的な人、形式主義の人、これらの総称だ。企業組織の中での人事評価と昇進を決めるのは基本的には上司であり、時には会社の為よりも自己保身の為に上司が「白のものを黒」と言っても、それに従わねばならない時もあるだろう。また敢えてリスクに挑戦するよりも、出来ない理由を列記し、一応の論理性と整合性を武器に評論家的に振る舞い続ける事もあるだろう。利害関係が複雑に絡むビジネス社会において物事を全て形式的にとらえ、「前例がない」「上からの指示だ」で処理しようとするのはまことに楽な事である。こういう人達を官僚的だと言うのだ。そういうキャラの集団が新政権に適応してそれなりに新たな相互依存関係を築けない筈はない。「脱官僚」はこれまた空虚で欺瞞に満ちた言葉となろう。

小沢チルドレン

報道によると、新政権での予算を削る為の事業仕分けチームに官邸が党に断りもなく新人議員達をそのメンバーに勝手に入れてしまったと小沢幹事長はご立腹であり、あわてて平野官房長官が「新人は外します」と謝罪したそうだ。これなどは実に小沢氏の思惑と権力欲が如実に現れているではないか。今回の衆議院議員選挙で当選した新人議員は今回当選議員総数の半数近い約 141名にものぼり、この数を纏めて取り込む事は民主党内各派での勢力争いには欠かす事が出来ない有効手段である。小沢氏はこの新人議員達の研修と称して「小沢学校」を開設して、いかに小沢氏の存在が今回各人の当選に寄与したか、また彼らが次回、あるいは将来の衆議院議員選挙でも再度公認され、再選されるにはいかに小沢氏の力が大事であるかを徹底して教え込む事に狙いがあるのは間違いない。選挙には、組織と金が大事であり、それを握り、使い切れる力があるのは党内では小沢氏である。

そもそも「脱官僚主導」を掲げる新政権にとって第一の関門となる予算集計作業での「事業の仕分け」には「官僚の手を一切借りない」と新政権が豪語した以上、それこそ猫の手でも借りたいほどの膨大な作業量となろう。従い、新人議員をこれに加えるとの官邸の判断は妥当なものである。第一、国政選挙に立候補するくらいの人物であれば、既にそれなりの社会人としての経験、見識、知見もあろう筈であり(そうでもなさそうな人物も見られるが)、大学出たての新入社員を企業で研修するのとでは大きな違いがある。新人議員の中には元官僚もいれば、弁護士もおり、地方自治体の議員出身者もいるだろう。そういう人材こそ、事業仕分けチームという作業には実務的にも、体力勝負の面でもうってつけではないか。
会社生活でもそうであるが、人は一緒に困難な仕事を協力し合ってやる事により、新たな信頼関係や友情の様なものが芽生えたりするものである。例えば、どこかの省庁での事業仕分け作業に新人議員が加わって連日の厳しい作業をするとなれば、国会議員としての初仕事でもあり、また国民の「脱官僚」の期待を背負っての責務から、生涯忘れる事の出来ない経験ともなろう。その際、仕事を通じて上司の大臣、副大臣、政務官達との人間性にも触れる事で深い信頼関係が生じるかも知れない。それを小沢氏は先ず一番に恐れていて何としても避けたいのであろう。まずはそういう甘い親分子分感情が芽生える前に「選挙という現実」をしっかり教え込む事でそれに対する小沢氏の天才的能力と有り難味を体に沁みこませるのが先

小沢研究

もう世間で、ジャーナリズムで、充分研究しつくされ、言い尽くされ、報道され尽くされた事ではあるが、小沢一郎氏というのは一体どういう人物なのだろうか。それを知るには、彼のその時々で変わる政治的な発言よりも、彼がどういう行動をとってきたかで判断すべきであろう。彼の中にあるのは、異常とも思える権力欲である。権力欲とは即ち、人間を自分の意のままに動かし、操る事が出来る様に欲する事である。権力ほど怪しい魅力にあふれたものはないだろう。それは他人の生殺与奪の運命を完全に掌握し、また一方で数々の便宜や恩恵を他人に与える事で、その権力が雪達磨式に蓄積され、ますます強固なものになるという性質のものである。そこには本当の「深い生甲斐の様な充実感の極め」と、「自尊心を極限まで高める快い酔い心地、恍惚感」といったものがあるのであろう。

小沢氏は時の最高権力者である田中角栄氏の後ろ盾で若くして自民党組織の中枢に付き、その権力者としての快感と恍惚感の味を若くして知ってしまったのである。権力にはそういった魔力的な部分がある一方、民主主義体制のもとでは、短期間でいとも簡単に失ってしまうものでもあって、権力者の誰もが権力を失っていく過程はまさに天国から地獄の世界である。それではその民主主義体制のもとで、正当な手続を経て一旦手に入れた権力を出来るだけ長く保持できる、それこそ sustainableなものとするにはどうすれば良いのであろうか。それは表の権力者とはならず裏側から表の権力者(即ち傀儡)を意のままに操り、その体制がうまくいっている間はその状態を続け、一旦うまくいかなくなった場合は(民主主義社会では必ずその時が来る)新たにまた別の傀儡に首のすげ替えをやれば良いのである。

しかしながら、民主主義体制での選挙手続の下では、権力を正当に入手するという結果はいつも保証されるものではない。そこでは政治家としての「政局を充分見極める目と判断力」が要求される。更に権力を入手していく具体的な行動としては、連立の組み合わせ、あるいは党の分裂や解党、合併、新党の設立といったものを「企画し、画策し、実現していく行動力と腕力」が必要である。こういった「政局の先を読む目と、腕力と実行力」を備え持つ人間はある種天才的な人間であろう。それが小沢一郎氏である。彼には政治家は世の為、人の為、国の為という発想はない。ただただあくなき権力への執着だけである。従って、彼の時々の政策、政策提言や政見はあくまでも権力を入手する為、人を動かす為の手段であって、その時点での政治情勢、政局で変わっていくものとなってしまう。自民党幹事長時代、細川政権時代、新進党時代、自由党時代、それぞれの時期に憲法改正から集団的自衛権、対米政策にいたるまで小沢氏の意見は、まるで180度違ってきているのである。おそらく 20代、30代の若い世代は自民党幹事長時代の小沢氏の発言や姿をテレビ等を通じて見ていないからであろうが、そういう人物が政権の裏側にいる事さえも気づかず、政権交代政権交代と無邪気な興奮をしているのが現在の状況である。小沢氏は若者達が期待している様な「過去の人」ではなく、今回で 3度目(自民党、細川政権、新政権)のまさに「政権の中枢にいる人」なのである。

モラトリアム

マニュフェスト原理主義の鳩山政権で、マニュフェストに書かれていない重要施策は何と言っても社民党、国民新党との連立政権であろう。たしかに国民は選挙で民主党を選択した。しかし、社民党や国民新党を選択したわけではない。国民新党に至っては、綿貫代表と亀井久興幹事長までもが落選しているのだ。その国民新党から連立政権の閣僚となった亀井(静香)氏の掲げるモラトリアム(資金繰り悪化の中小企業に対し債務返済を3年程度猶予する)なるものは、国民新党のマニュフェストには書かれていても、一体民主党のマニュフェストのどこに具体的に書かれているのであろうか。

モラトリアムは資金繰りに苦しむ中小企業救済という面から、一見正当性がある様にも思えるが、実は日本経済全般に及ぼす悪影響は多大であろう。なによりも日本の金融機関に対する国際的な信用力を著しくおとしめる。既に株式市場では亀井氏の発言だけで金融株が下落傾向を見せている。そもそも借りたものは返すという私企業間の法に基づく契約に対し、政府が金融機関に公的介入するというのは、よほどの恐慌か危機的状況でない限りは許されない筈である。これによって金融機関は貸倒引当金の積み増しを行わねばならず、様々な悪影響が出てくる。これはまた一面では借手側の中小企業経営者のモラルにも影響しかねない。

米国の住宅バブルを作り出したサブプライムローン問題は、その根本にはモーゲージローン(住宅担保ローン)で借手側に返済能力がなくなった場合、住宅を手放すだけで借入額の返済が全て免除される、いわゆるノンリコース(物的担保はあるが人的担保はないという意味での不動産業界用語としての意味)がカリフォルニア州等の州で認められている事に問題がある。現在の様に住宅価格が下落してしまった状況では、借入額が住宅価格をはるかに上回る結果となっており、これは金融機関側に多大な損失をもたらす結果となっている。何もサブプライムに限らず、プライムにおいても、例え借手に他の資産や収入があっても、当該物件にはこのノンリコースは原則適用されるのであるから、今年になって100行以上にもなる米国で金融機関の破綻が続出するのは頷ける。金融機関の破綻は結果的には国による公的資金の投入等で国民の税金で負担せざるを得なくなるのだ。

新政権のマニュフェストに列記されているポピュリズム的政策では、「パイの分配」にあまりにも力を入れすぎるあまりに、「パイ全体の拡大」に努力する事をすっかり怠り、結局は各人への分配量を減らしてしまうという馬鹿げた事につながりかねない。この厳しい国際競争の中でいたずらに国の経済力を弱めてしまうポピュリズム政策はまさに麻薬の様に国家国民の体を蝕んで行き、国際社会における日本の政治力ナシ、軍事力ナシ、文化力ナシに加えて、最後の経済力さえナシの状態を作りあげてしまうであろう。国民はマニュフェストの甘い言葉に惑わされて愚かな選択をしたものだ。

郵政改革

新政権のマニュフェストには「郵政事業の見直し」が書かれている。まさか郵政の民営化をまたもとの完全国営に戻すという話ではないだろうが、具体的には郵政事業の4分社化を見直し、郵便事業、簡易保険、郵便貯金の郵政三事業を一体化する事に戻す様だ。民主党はサービスの一体化で地方などでの顧客の利便性と公共性を確保すると説明している。

現在の日本郵政は民営化されたといっても株主は 100%財務大臣で、国営のままである。それでこの会社をまず民間の経営手法を取り入れて経営的に自立させ、競争力をつけさせた上で、自力で資金調達なり、上場する様にさせるのが当初の狙いであった様に思う。そうする事によって、昔の様に郵便貯金や簡易保険で郵便局に集まる 300兆円もの巨額のお金が国債購入を通して、無駄な公共事業や特殊法人に流れ、赤字垂れ流しとならぬ様にしようとしたものであろう。最終的には赤字のツケは国民の負担となるからである。

小泉内閣での郵政民営化のもう一つの狙いは、従来から自民党内で田中角栄氏の流れをくむ派閥が地方の特定郵便局のネットーワークを使って自民党支持の組織票固めをし、それを背景に党内派閥での圧倒的な力を堅持し、300兆円のお金の流れを田中派が仕切っていた事を壊滅させる事にあった様だ。まさに郵便局にからむ組織と金を断ち切る事が反田中派の小泉氏にとっては怨念にも似た政治的情熱でもあったわけだ。そこに来て金融バブル開花途上のアメリカからの「経済の構造改革」への要求と圧力であったので、それに小泉氏は乗ったのであろう。

そうなってくるとあれだけ大騒ぎした郵政民営化反対の動きにはどうやら二通りの流れがある様に見えてくる。第一のグループは、田中派の流れを組む一団、即ち郵便局で恩恵を蒙ってきたグループ、あるいは選挙区の事情で特定郵便局の組織票に頼らざるを得ないグループである。第二のグループは、300兆円もの国民の財産を金融や保険の形で易々とアメリカの拝金・強欲社会に取り込まれてしまっては国益を損ねるという平沼氏ら保守派の考えを持つグループである。いずれもが、「日本の地方での伝統的な共同体や価値観を守る」という事では一見同じ様に見えるが、前者はあくまで「自己利益の為」、後者は「国益の為」であり、その二者の重複や中間というのもあって複雑である。

この面では新政権での小沢氏の「郵政民営化見直し」は、現在の民主党政権の権力基盤を磐石のものとし、自らの権力を堅持する事の狙いから、共産党や公明党の様な強固な組織票固めの基盤をもう一度再構築する事を意味するものである。しかし、民主党全体での各人の本音はどうなのだろう。そもそも政権につく前からの小泉氏による郵政民営化への動きは、当初は民主党の松沢氏(現神奈川県知事)、前原氏、上田氏(現埼玉県知事)らとの超党派での郵政民営化研究会からであったから、今後どう民営化を見直していくかについては、民主党内での小沢氏以外の各人の思惑と本音は複雑であろう。

シュミット首相

前回のドイツの元首相、コール氏に続いてその前任のシュミット氏についてもふれておかねばならいだろう。この人もまた魅力にあふれる政治家である。ハンブルグ生まれの都会的で知的な雰囲気と、大衆に媚びない人を喰った様な表情、発言が欧州人政治家によくある特徴だ。シュミット氏は知的な教養と趣味を持った人だが、決して知的エリートでもなく、貴族でもなく、世襲議員でもなく、ましてや富裕層の出身でもない労働者階級の出である。第二次大戦に将校として参戦した後、戦後は一貫してSPD(社会民主党)党員として、社会民主主義者としての道を歩む。中央政界ではブラント政権で国防相、経済・財務相に就任し、1974年に東独スパイのスキャンダル事件で辞任したブラント氏の後任として首相に就任した。

シュミット氏の首相としての手腕が高く評価されたのは何と言っても、1977年にソマリアの首都モガディシオの空港でおきたテロリストによるルフトハンザ機ハイジャック事件であろう。シュミット首相はその直前のバングラディシュ・ダッカでおきた日航機ハイジャック事件での日本の福田首相の「人名は地球より重い」の超法規的対応とは 180度違い、テロリストとの交渉を一切断って、他国の空港にあるルフトハンザ機に西ドイツのテロ対策特殊部隊を突入させて人質たちを無事解放させたのである。

もう一つの功績は、当時のソ連の中距離弾道ミサイル SS-20のワルシャワ条約機構加盟国への配備に対抗して、国内世論と与党SPD党内での猛反発を押さえて、西ドイツ国内への米軍のパーシング2ミサイルの配備を強行した事であろう。これらの動きがNATO諸国の軍事面での優位性をもたらし、後のソ連崩壊、冷戦終結への道につながる一つの要因ともなったのは間違いがない。従来SPDは東側諸国とは平和対話路線であったし、何より西ドイツ国内ではミサイル配備反対の大規模デモが繰り返されていたのであるが、その面からも外交・安全保障面ではシュミット氏は決してハトではなくタカである。

そんなシュミット氏ではあるが、人間的には何ともユーモアのある皮肉屋的なところがあり、それを示すエピソードを二つあげておこう。一つは1979年日本で初めて開催された東京サミットの初日の事である。会議冒頭に日本式に挨拶を長々とぼそぼそと述べる大平首相に「(挨拶はその辺にして)、直ぐに議題に」と横から促したのである。いかにも鈍牛首相と切れ者首相の好対照を示すものである。もう一つはEEC(EUの前身)の会議で横に並んだイギリスのサッチャー首相が演説をしている側で何と鼻唄を歌っていたのをしっかりマイクで拾われていた事である。まさか取材陣にも聞こえる様にわざとしていたわけではないとは思うが、当時EECで何かと意見の異なる英国の首相の「そんな真面目くさった話なんぞは聞いていられるか」という様な態度でもあり、これは時折ドイツのお笑い番組でも紹介されて笑いをさそった。これらは彼の熟練した政治家としての自信がそうさせているのであろう。

日本の新政権が目指す一つのモデルとして、確かにドイツ型の福祉国家(高福祉、高負担)は
その一つとしてあげられるであろう。ドイツ(西ドイツ)では子供手当ては文字通り Kindergeldとして30年以上前からあり、またライフワークバランスなるものはドイツ人にとっては聖域とも言える Urlaubという長期の有給休暇に象徴されて、しかりである。しかし、ドイツにおいてはいかなる政権においても外交・安全保障問題は一貫性があり全く揺るぎがない。国内に米軍駐留を認め、米軍ミサイルを配備し、NATOという集団的自衛権の体制に入り、かつアフガニスタンには戦闘部隊を派遣するという具合にである。

新政権の鳩山氏に見られる、どこか何となく自信のなさそうであり、優等生的、大衆迎合的なところは、おそらく富裕な家庭で知的エリートとして何一つ苦労と挫折を経験せず育ったというところからきているのではないだろうか。それはシュミット氏やコール氏の様に決して大衆迎合型ではなく自国の事を真剣に考える本物の政治家から受ける印象とは全く異なるものである事は間違いない。

コール首相

早いものでベルリンの壁崩壊から早 20年になるのだ。今日のニュースでは記念式典で父ブッシュ元大統領、ゴルバチョフ元大統領と並び、ドイツ統一の立役者であるドイツのコール元首相の姿を久しぶりで見た。コール氏は 1982年にシュミット氏の社会民主党/自由民主党連立政権から政権交代したキリスト教民主・社会同盟・/自由民主党連立政権の首相となり、以降ドイツ統一を挟んで 16年間も政権の座についた人である。コール氏の首相就任当時はそれまでのシュミット前首相のどこか知的で都会的な風貌とは正反対の巨漢で田舎臭い印象から、大衆人気の面では今ひとつであった。特に演説の時に見せるその笑顔一つない怖そうな目つきがとっつきにくい印象を与えていた。

この不人気な首相が国のリーダーとして、真の指導力を発揮したのがドイツ統一の偉業である。
そこに至るまでのコール氏の逸話で今でも記憶に残る話がある。あくまでドキュメンタリーニュースでの再現場面での話であるが、ベルリンの壁崩壊前の1989年に多数の東ドイツ市民がピクニックと称してハンガリー・オーストリア経由で西ドイツへ集団逃走しようと試みた有名なピクニック事件の一場面である。

当時では東ドイツ政府が同じ東側体制にあるハンガリー政府に東ドイツ市民の西側への集団逃走を実力で阻止する様要請するのは当たり前の話であって、ハンガリー政府がその要請を受け入れてしまえば命がけの集団脱走劇はそれでおしまいである。つまり、ハンガリー国内に入った東独市民を中立国オーストリアに逃がすかどうかの決め手は当時のハンガリー首相の決断にかかっていた。

しかし、ハンガリーでも民主化の動きが着実に進んでいて、裏では西ドイツ政府と集団脱走事件についても色々と連絡が取られていたのであろう。ネーメト・ハンガリー首相はコール首相との電話で「閣下のご要請通り、東独市民が安全に貴国に入国出来る様出国許可の手配を致しました。東独市民の道中安全を心からお祈りします」と劇的なメッセージを送ったのである。これに対しコール首相は「閣下のご配慮を心から深謝申し上げます」と言い、あの巨体を揺すらせて電話の向こうで大粒の涙を流し続けたという事である。まさにドラマか映画の一場面である。実際にネーメト首相は東独政府の要請を無視して、オーストリアとの国境に張り巡らされていた電流が流れる有刺鉄線を一部切断する様命じたのである。

もう一つはこれもドイツ人としては珍しく涙腺のゆるいコール氏が本当にニュース画面で涙を流し続けた話である。それはEU統一への動きの盟友であるミッテラン元大統領の国葬の際である。
既に一部ジャーナリズムで報道されている通り、ドイツ統一に関し、イギリスのサッチャー首相とフランスのミッテラン大統領は裏側で何とかこれを阻止出来ないかとソ連のゴルバチョフ大統領に働きかけたというのがロシア側からの資料流出で暴露されたようだ。その際、ドイツ統一に自らの政治生命と歴史的使命をかけたコール氏は必死の思いで説得した相手がミッテラン大統領であったのであろう。そうした強い信頼感がその後に大きく進展する EUの統一へとつながっていったのであるが、それが故に盟友ミッテラン氏の葬儀に際してのコール氏の心情は特別な思いであったのであろう。

こうした場面から、歴史的な役割を淡々とこなして行ったコール氏のその外見とは全く違った心情や感情というものが思い起こされてくるのであるが、新政権成立直後、なんと奥様とファッションショーのモデルもどきの軽々しい振る舞いをされた日本の大衆迎合型首相とは違い、コール氏は本当の熟成された重厚なオトナの政治家である。ノーベル平和賞なるものはこの東西ドイツの「平和統一」という偉業を成し遂げたコール氏には授与されず、何の平和の実績もないオバマ大統領に授与されるのであるからこうした世界的権威もポピュリズムの流れにあるのであろう。

政権交代

鳩山政権の掲げるマニフェストが早くもインチキである事が露呈しはじめた。「脱官僚」の筈が日本郵政新社長には既に天下りをした大物大蔵官僚を起用し、更にワタリをさせんとする事や、税金の「無駄使いカット」の筈が最高額の概算要求など。いやそれよりも重大なのは普天間基地移設問題である。今までの鳩山新政権とオバマ政権のやりとりを見てくると、何やら「出来レース」的なものさえ感じる。事実、ゲーツ国防長官の頑なな姿勢と昨日からの米国紙で報道され、また日本の新聞各紙でも紹介された”the hardest thing right now is not China, it's Japan"の高官発言である。日本の政界とジャーナリズムはこれに微妙に感じるのである。

そもそも欧米各国の政権交代と比較してみれば、今回の政権交代に国民が興奮している様自体が滑稽である。ドイツ、フランス、イギリス、あるいは米国の政権交代とは本質的に異質なものであるからだ。つまり、民主党政権の 5人のリーダーのうち、菅直人氏以外の小沢、鳩山、岡田の 3氏は田中角栄全盛時代の自民党員経験者であったという事実。残る前原氏は日本新党出身ではあるが、細川政権成立なければ、政治家を目指す以上自民党員になるしか当時の選択肢はなかったであろう事である。こういう幹部の「出自」そのものから現政権は自民党政権の亜流そのものである。その辺を完全に米政権に読まれてしまっているのであろう。つまり政権交代したのだから、ノムヒョンの時の様に多種荒い鼻息のガス抜きくらいは多めにみてやろうではないかという親心である。日米同盟の機軸はびくともしない。普天間基地移設もそもそも橋本政権時代に日本からお願いして言い出した話であり、それがいやならこのまま海兵隊は普天間基地に居座るだけという極自然な話である。米国側は多少鳩山政権が鼻息荒くごねたところで失うものは何も無いので威嚇などはもとより不要なのである。

本当の政権交代の例と言えば、1998年、それまでの16年の長きにわたり続き政権の座にあり、ドイツ統一という偉業を成し遂げたコール CDU/CSU政権(キリスト教民主同盟、社会同盟)に変わり政権交代を果たしたシュレーダー氏率いるSPD(社会民主党)と緑の党の連立政権の
例の様なものであろう。このシュレーダー氏というのは母子家庭で貧困の中で苦労して育ち反体制的な活動をしていた人であり、ドイツ赤軍テロリスト裁判では弁護士まで勤めた筋金入りの人物である。また一方の緑の党の代表のヨシカ・フィッシャー氏は80年代初めに緑の党が議席を得た際、議会でヒゲ面、スニーカーと薄汚いジャケット姿で登壇し、副議長に向かって「尻の穴」を意味する下品な言葉を吐きかけた(それがテレビで放映された)これまたバリバリの反体制派である。

そんな二人が首相と外相として仲良く政権の中枢で国家を運営していくとなれば、選んだ側のドイツ国民はさぞや心配したであろうと思うかも知れない。しかし、当時ドイツ人達は、「なーに、政権についたとなればそのうちにコロッと180度変わるから心配無用、いつまでも反体制的な発言、行動をするほど馬鹿な奴らではないよ」と断言していた。確かにその通りである。新政権は早速コソボ紛争ではそれまでタブー視されていた戦闘部隊を域外に派遣し参戦し、更にはアフガン戦争ではいち早く米国を支持し、ドイツ連邦軍戦闘部隊をアフガニスタンに派兵したほどである。 もともとドイツは平和ボケした日本とは違い、そういう筋金入りの反米、反体制政治家達が政権をとろうが、依然として12ヶ月の徴兵制をしき、NATO軍に加わって、集団的自衛権の元に自主防衛体制をしいている国である。万一、米国が手を引いても核兵器を保有するイギリス、フランスと集団的自衛権で守られているのである。そういう自主防衛の国だからこそ、例えばイラク戦争では国連決議がない事を理由にフランスと共に堂々と派兵をしないという様に米国に対しても対等な立場でものが言えるのである。この辺が鳩山、岡田の世間知らず坊ちゃん外交とは根本的に違う所である。集団的自衛権等での自主防衛体制さえなくて、自国を一方的に守ってくれている米国とどうして対等に話が出来るのだろうか、小学生でも判る話である。そう言えば、貧困母子家庭で苦労して育ったシュレーダー氏と、14億円の資産でぬくぬくと何の苦労も無く育った鳩山お坊ちゃんとでは、もともと政治家としての素質と根性を比較する事自体無理な話かも知れない。