2009年11月9日月曜日

脱官僚

新聞の解説にある通り、いつのまにやら新政権の勇ましい掛け声の「脱官僚」が「脱官僚依存」に変わってしまってきている。いずれにせよ、総論での「脱官僚」に反対する人間は少数派であろうが、国民の側としては「脱官僚をどんどんやってくれ、しかしどこまでやれるのかな」というのが大多数が感じるところではないだろうか。民主党の若手を中心に「脱官僚」に情熱をもやし、国民の負託に真摯に答えようと見られるものがいて、この点は大いに支持したい。内閣府の副大臣トリオはそれなりに知識、経験、見識もありそうで、新政権のイメージ作りには大いにプラスであると思う。新鮮で清潔、熱情といったものが感じられ、この辺の人事は妥当ではないだろうか。

しかしである。裏の権力者であられる方はこの「脱官僚」というものにどれほどまでに真剣に考えておられるのかははなはだ疑問である。この方の歩んでこられた政治の道では、むしろ官僚と密着に接する事で自らの権力維持に努めてこられたのではないだろうか。政治の師と仰ぐ田中角栄氏は官僚たちを使いこなす名人であったので、官僚なしでは自らの権力維持はあり得ないと体の芯まで感じておられる筈だ。そうすると、今回の華々しい「脱官僚」なるものの掛け声は単なる選挙戦での戦術に過ぎず、あの斉藤元大蔵次官の日本郵政新社長への起用は、この最高権力者の方の「官僚たちよ、これからは俺様の言う事を聞けよ、悪い様にはせんからな」という暗示なのではないだろうか。

そもそも官僚達が「脱官僚」を叫ぶ新政権にどこまでも盾をついたり、あるいはボイコット的な行動に出るのであろうか。官僚達は本来自らの身の振り方、自己保身には極めて敏感である。また新政権側でも官僚達と敵対したり、対決したりするのは政権維持の上で得策ではない事は充分承知の上である。そうなれば官僚達はさっさと新政権に迎合し、適応するのではないだろうか。それが本来の官僚の官僚たる姿だ。そしていつの間にやら、新政権と官僚達との間での新たな形での「官僚依存」関係が出来上がるのは目に見えている。その際、優秀な官僚達の創意工夫と協力で、あくまでもマニュフェストとの論理性と整合性は一応備わった形にして、である。

ところで民間企業で「誰それは官僚的だ」と言われると、それは完全にnegativeな評価である。企業が求める本当の人材は究極的には真にearning powerのある人間であるが、そういうタイプではなく、自己保身のうまい人、評論家的な人、形式主義の人、これらの総称だ。企業組織の中での人事評価と昇進を決めるのは基本的には上司であり、時には会社の為よりも自己保身の為に上司が「白のものを黒」と言っても、それに従わねばならない時もあるだろう。また敢えてリスクに挑戦するよりも、出来ない理由を列記し、一応の論理性と整合性を武器に評論家的に振る舞い続ける事もあるだろう。利害関係が複雑に絡むビジネス社会において物事を全て形式的にとらえ、「前例がない」「上からの指示だ」で処理しようとするのはまことに楽な事である。こういう人達を官僚的だと言うのだ。そういうキャラの集団が新政権に適応してそれなりに新たな相互依存関係を築けない筈はない。「脱官僚」はこれまた空虚で欺瞞に満ちた言葉となろう。

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