2009年11月9日月曜日

小沢研究

もう世間で、ジャーナリズムで、充分研究しつくされ、言い尽くされ、報道され尽くされた事ではあるが、小沢一郎氏というのは一体どういう人物なのだろうか。それを知るには、彼のその時々で変わる政治的な発言よりも、彼がどういう行動をとってきたかで判断すべきであろう。彼の中にあるのは、異常とも思える権力欲である。権力欲とは即ち、人間を自分の意のままに動かし、操る事が出来る様に欲する事である。権力ほど怪しい魅力にあふれたものはないだろう。それは他人の生殺与奪の運命を完全に掌握し、また一方で数々の便宜や恩恵を他人に与える事で、その権力が雪達磨式に蓄積され、ますます強固なものになるという性質のものである。そこには本当の「深い生甲斐の様な充実感の極め」と、「自尊心を極限まで高める快い酔い心地、恍惚感」といったものがあるのであろう。

小沢氏は時の最高権力者である田中角栄氏の後ろ盾で若くして自民党組織の中枢に付き、その権力者としての快感と恍惚感の味を若くして知ってしまったのである。権力にはそういった魔力的な部分がある一方、民主主義体制のもとでは、短期間でいとも簡単に失ってしまうものでもあって、権力者の誰もが権力を失っていく過程はまさに天国から地獄の世界である。それではその民主主義体制のもとで、正当な手続を経て一旦手に入れた権力を出来るだけ長く保持できる、それこそ sustainableなものとするにはどうすれば良いのであろうか。それは表の権力者とはならず裏側から表の権力者(即ち傀儡)を意のままに操り、その体制がうまくいっている間はその状態を続け、一旦うまくいかなくなった場合は(民主主義社会では必ずその時が来る)新たにまた別の傀儡に首のすげ替えをやれば良いのである。

しかしながら、民主主義体制での選挙手続の下では、権力を正当に入手するという結果はいつも保証されるものではない。そこでは政治家としての「政局を充分見極める目と判断力」が要求される。更に権力を入手していく具体的な行動としては、連立の組み合わせ、あるいは党の分裂や解党、合併、新党の設立といったものを「企画し、画策し、実現していく行動力と腕力」が必要である。こういった「政局の先を読む目と、腕力と実行力」を備え持つ人間はある種天才的な人間であろう。それが小沢一郎氏である。彼には政治家は世の為、人の為、国の為という発想はない。ただただあくなき権力への執着だけである。従って、彼の時々の政策、政策提言や政見はあくまでも権力を入手する為、人を動かす為の手段であって、その時点での政治情勢、政局で変わっていくものとなってしまう。自民党幹事長時代、細川政権時代、新進党時代、自由党時代、それぞれの時期に憲法改正から集団的自衛権、対米政策にいたるまで小沢氏の意見は、まるで180度違ってきているのである。おそらく 20代、30代の若い世代は自民党幹事長時代の小沢氏の発言や姿をテレビ等を通じて見ていないからであろうが、そういう人物が政権の裏側にいる事さえも気づかず、政権交代政権交代と無邪気な興奮をしているのが現在の状況である。小沢氏は若者達が期待している様な「過去の人」ではなく、今回で 3度目(自民党、細川政権、新政権)のまさに「政権の中枢にいる人」なのである。

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