ドイツの歴史を学ぶ上でまず最初に戸惑うのは「神聖ローマ帝国」と言う名称だ。ドイツ語では確かにHeiliges Römisches Reichであるからそのままの和訳である。この神聖ローマ帝国は962年のオットー大帝の即位から 1806年のナポレオンのフランスによる征服で解散されるまで実に九百年近くの長きにわたり欧州大陸の中央に君臨するのである。この帝国はローマという仰々しい名前にも拘わらず実態はドイツ人の帝国であった。従って、ヒトラーの時代のドイツを第三帝国と言うのは、この神聖ローマ帝国が第一、1871年のプロイセンによるドイツ帝国が第二という事となる。
そもそもこの帝国は簡単に言えばフランク王国の流れを汲む東フランク王国がその前身と言えよう。フランク王国がライン川とアルプスという地形によって三分割されて、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型となったが、東フランクはそのうちのライン川の東側、アルプスの北側の部分である。しかし当時、北はバイキングのノルマン人、東はフン族のマジャール人の襲来と侵略で、外部異教徒との戦いもあって、帝国はゲルマン人の軍隊指導者を封建領主として征服地をその領地としていったのである。そしてこのゲルマン人の帝国の皇帝は血統ではなく有力領主による選挙により選定される形となっていく。
とは言え、帝国としてのその皇帝の権力はまだまだ脆弱であった為、簡単に言えば、カトリック教会の権威、つまりローマ教皇の伝統と権威を利用したという事だ。これがこの「神聖ローマ」なる仰々しい名前の由来である。この帝国はまた、中央集権的な国家ではなく、領内各地に分散された王国や公国等の領邦によって成立っており、その実態は帝国と言えるものかは、はなはだ疑問である。
この帝国はザクセン朝・ザーリア朝からホーヘンシュタウヘン朝へ、更にはハプスブルグ家にと王朝は事実上、世襲がらみで受け継がれていくが、この帝国の特徴をなんと言っても、ローマ教皇の権威とドイツ諸侯との権力との間における絶妙なバランスにある。つまりイギリスやフランスの様な中央集権的な絶対王政とはまた違った権力構造になっているのである。その一つの表れが、1356年のカール4世時代に出された「金印勅書」である。この勅書は31条からなり、一言で言えば「皇帝の選挙規程」と「帝国議会の法的根拠」を示すものである。そもそもゲルマン人の社会では昔から皇帝さえも選挙で選ぶと言う慣わしがあった事が驚きであり、また皇帝自身が自らの地位を律する勅書を出すと言うのもこの時代の事を思えば極めて近代的な事である。
長い帝国の歴史の詳細は割愛するとして、17世紀に入りこの強固な帝国の存在を大きく揺らがす事態が生じるのである。16世紀のルターによる宗教改革とそれを促進したグーテンベルグによる印刷技術の発明に事の発端を見る事が出来る。従来聖職者が独占的に支配してきたラテン語の聖書のドイツ語版を印刷技術により大量配布する事が可能となって、これが新教徒勢力を作り出したのと同時にドイツ人としての国民意識を芽生えさせたのである。こうなれば帝国はなにもなすすべもなく、ドイツ国内は分裂状態となって諸外国勢力を巻き込んでの30年の宗教戦争となるのだ。後の国民国家の成立へとつながるあの有名なウェストファリア条約(1648年)はこの30年戦争の終結と戦後処理の為に66カ国もが参加し署名した。これにより帝国は形骸化し弱体化して、帝都のあるオーストリアはオスマントルコやナポレオンフランスに侵略されてしまうのである。
こうしてドイツの歴史を見てくると、日本の隣国の大国の事を思わざるを得ない。世界の人口の 1/5を持ち、5年後には米国を抜いて世界一の経済大国になろうとするこの現代の帝国においては、国民の選挙権がない事はおろか、言論の自由も、インターネットを使う自由もない。共産党という一つの政党による古典的、専制的な政治体制が続いている国である。しかもその共産党内部においてでさえ、皇帝たるトップを決める選挙規程も明らかにされていないのであるから、金印勅書が出された14世紀ドイツよりもはるかに遅れているのである。国家財政破綻による落日の米国が東アジアからの軍事的プレゼンスの後退を余儀なくされ、勢力均衡のバランスが大きく崩れて、この大国の「歯止めの利かない暴走」の向かう先がこの日本となるのは目に見えている。もうグーテンベルグの印刷技術に匹敵するインターネットにしか、この暴走を少しでも抑える手立ては残されていないのであるが。
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