有名な映画監督が自分の作品についてニヤリとしながら語った言葉だが「この作品にかける私たちの思いはサヨク(左翼)でもウヨク(右翼)でもありません。ただのシヨク(私欲)です」と。確かに名画というものに少しでも政治理念やどこかの政党の臭いというものが感じられれば、折角の感動が冷めやり、興ざめとなって俳優の演技そのものまでもが胡散臭く見えてくるものだ。この場合の「私欲」というのは単にその作品が金儲けの為だけではなく、出来る限り多くのファンを感動させ、その心をつかみ、支持されるものでありたいという思う映画人としての欲であろう。
同じ様に出来る限り多くの国民に支持されたいと各政党が思うのが政治の世界での選挙である。そこにおいて政党は選挙民に対して「政党の綱領」や「結党の精神」、「政治理念」「具体的政策」を提示して選択肢を明確化しなければならない。また一方の選挙民側では各政党の今までの政策実現の実績等も考慮し、その選択肢と照らし合わせながらどの党に投票するか決めるとなるわけだ。
しかし、現実の政治では過去の政治行動の実績はあまりあてにならない。つまり政権獲得や政権維持の為の「変節」がまかり通っているからだ。しかもごく短期間に時には真逆方向への転換が見られるから選挙民の頭は混乱する。民主党なる「綱領無き政党」がその最たる例だ。変節の例を見つけ出すのには小沢氏、菅氏の事を思えば簡単だ。この二人の間では同じ結果における「変節」でもその種類が違う。小沢氏の変節は権力を得る為の強い「能動的な」変節である一方、菅氏の変節は自己保身の為にやむを得ずズルズルと行う弱い「受動的な」変節である。
菅氏の「受動的変節」の一例を上げよう。1992年のいわゆるPKO国会でのまるで学生運動でもする様に体を張ってPKO協力法案成立阻止をしようとしたのが菅氏である。この菅氏が国会内で衛視に演壇からひき降ろされるまでの様子をニュースで見て憶えておられる方もおられるだろう。もし今現在も菅氏が主張した様に日本がPKO協力の為に自衛隊部隊を海外派兵する事をしないままであったならば、今回の大震災の際に出動した米軍人の心の中はどうであっただろうか。
「一体、こいつら日本人は世界各地で大災害や内乱や戦乱で困っている人達を救う為のPKO活動が必要な時には一切自国の軍隊を派遣せず協力しないクセに、いざ自国が大災害に会った時にだけは助けてくれーだと、ふざけんな!」と思われてもおかしくない。現場で救援活動を行う米軍人とて原発付近での放射性物質被曝のリスクがあるわけであるから、なお更だ。その米軍の同盟国としての役割以上(普天間問題解決の為の give & takeの政治的意図がありありとしていても)の救援活動で菅氏と菅政権は救われているのである。事実、北沢防衛大臣がわざわざ米大使とともに撤収する米空母を航空機で訪問して謝意を表している。
こうなると菅氏が国会で体を張ってまでPKO協力法案を阻止しようとしたその行動に一体いかほどの正当性があると言うのだ。因みにこのPKO協力法案は当時の自民党幹事長である小沢氏が1991年の湾岸戦争勃発を機会に、操り人形の海部内閣と続く宮沢内閣をその豪腕で後ろから強烈に押して国会を通過させ成立させた重要法案だ。同様に「能動的変節」をした現在の小沢氏ではとても考えれない動きだ。
政治の世界では、政治は数合わせ、数合わせは政策「目的」を遂行する為の「手段」と言われている。しかしその今や「手段が目的となっている」ところに「理念なき変節の政治」が続いている。これが混迷する日本政治の根本原因であるのは間違いない。
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