2011年4月3日日曜日

小渕氏という政治家

菅氏への「在日外国人からの不法献金」問題追求のまさにその日、その国会の委員会での質疑中に東日本大震災が起こったのは何か不思議なものを感じざるを得ない。この時の大きな地震の揺れで閣僚席の大臣達が天井を見上げてあわてふためく姿の写真は、迫り来る菅政権の崩壊を暗示するものであり、まるで美術館で見る欧州の絵画の様だ。確かに原発問題、震災復興という重大課題に直面して、最早このまま菅氏が政権維持できないのは明らかだ。そして復興という大義を利用しての自民党との大連立への動きが加速されるのはこれも誰の眼にも明らかとなってきた。

連立というものをあらためて考えて見れば、それは「政権の獲得や安定維持の為には衆参での議決を確実なものとする」必要があって、その事を第一義の目的とするものである。それを考えながら、あの震災発生から何日が経過したのかとカレンダーを見ているとある事に気付いた。今からちょうど11年前の2000年4月2日は政界に大激震が走った日だ。それは当時の小渕首相が脳梗塞で倒れた日である。小渕氏は昏睡状態のままその翌月に還らぬ人となった。今でも憶えておられる方がいると思うが、小渕氏の葬儀の際に葬列の霊柩車が国会前を通過しようとしたまさにその時突然大きな雷鳴が轟き、何とその国会議事堂に落雷したのだ。こんな事が本当にあるのかと恐ろしいものを感じた方も少なくないだろう。小渕氏の無念の怒りであろう。

政治家小渕氏は小沢氏と小泉氏の二人の個性とはまた違った味を持っていた。あの生真面目な顔をして新しい元号を掲げる「平成おじさん」の顔そのものの方だ。小渕氏が脳梗塞で倒れる直前には今も注目のあの方、小沢氏との間で「自由党の自自公連立からの離脱」の話合いがなされていた。そもそも自自公連立政権は、当時自民党が参議院で単独過半数割れをしていた事から、野中幹事長が「悪魔にひれ伏しても」自由党の小沢氏に連立参加をお願いして成立したのがきっかけである。その後小沢氏側から自民党に対し数々の難題がぶつけられ、自民党は対応に苦慮し連立維持を危惧していた。そこで自民党は地域振興券というバラマキを主張する公明党案に賛成する事で公明党を連立に引き込む事に成功して三党連立が成立したものだ。

この自自公連立の安定政権樹立には小渕氏という誠実で真摯な性格のリーダーへの信頼感もさる事ながら、その水面下、舞台裏での野中氏、亀井氏といった自民党内のプロ中のプロの政治力が大いに寄与した事は言うまでもない。こうなれば自自公政権は磐石な安定政権となる。今思い出すだけでも小渕政権は周辺事態法、国旗・国家法、通信傍受法等の成立へと次々と右方向への舵をきって行った、いやきって行けたのである。

しかし、自自公政権の安定状態というものは数の面での弱小政党を率いる小沢氏にとっては政権内での自らの存在を誇示し、主張を押し通すには決して望ましいものではない。それどころか、自由党が存在意義をなくして党の霧散消滅の危機を迎える事さえ危惧されたのである。政治家としての小沢氏の嗅覚はその辺に極めて敏感だ。そこで小沢氏は小渕氏に対し先手を打って連立離脱をちらつかせる事で「自民党と自由党の発展的解消による合併、新党結成」を主張したのだ。さすがの小渕氏も戦後政治を担ってきた自民党という政党を自らの代で消し去る事は受け入れ難いとするのは言うまでもない。結果、捨て身の小沢氏の豪腕に振り回され、連立維持交渉は決裂して、その心労が原因と思われる小渕氏の脳梗塞へとつながって行ったのである。

小渕氏は政治家としては決して雄弁ではなく、またどちらかと言えば「冷えたピザ」や「凡人」と揶揄された様に地味であり、控え目でさえある。それが逆に自民党内の力学にプラスし、公明党との連立工作が成功したとの見方も出来る。しかし、今になって振り返れば、結局は小渕氏という政治家の力量や存在そのものよりも、その連立政権の行く末の政局に差し込んだ小沢氏の大きな蔭の方が意味を持つ。こうした小沢氏の「自民党と対峙する」動きが過去20年の政界に与えた影響力のその大きさをあらためて思い知らされる。

小渕氏の死後は、自民党内の談合により成立した森政権の短期終焉、更にはあの小泉氏の劇的な登場とつながって、小沢氏は2002年の中国に対する「核武装威嚇発言」を最後に一転、民主党との合流への道へと左方向急展開を図るのである。あくまで「政治は実行力とその結果」であるが、こうした言わば「理念なき変節の政治」に振り回される政界の動きに対し、あの小渕氏の葬儀の際の雷鳴落雷や今回の大震災という自然のなすわざは、何か人間を諌め、警告を与えるものの様にも思えてくる。

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