2000年4月に小渕首相が脳梗塞で倒れた後の森政権誕生までのいきさつは、腐りかかった旧来の自民党的体質の病状が末期症状として一気に吐き出す形となった様に思える。ご存知、「五人組」、青木官房長官、森幹事長、野中幹事長代理、亀井政調会長、村上参議院議員会長の面々による密室協議での森氏選びである。まさに legitimacy(政権担当の正当性)が大いに問われるケースの典型である。
そもそもこの五人組の密室協議以前に、小渕氏が重態の病床で青木氏に「後を頼む」と言ったと伝えられているが、それが果たして本当なのか(例えば第三者が横で聞いていたとか、録音されていたとか)、あるいは仮に本当であっても、いかに臨時首相代理を決めるかといった事についても全く不透明であり定かではない。形式的には官房長官である青木氏が取り敢えず臨時首相となり、その2日後に両院議員総会での総裁選出、国会での首班指名という正式手続が踏まれたが、これらは全て密室協議での筋書き通りである。
小渕政権までの自民党内での権力基盤は言うまでもなく旧田中派(経世会)にあり、党内のかなりの部分を牛耳っていた事から、竹下氏辞任後の海部、宮沢両政権は当時の幹事長であった小沢氏率いる経世会の「操り」であった事は言うまでもない。一方、同じ経世会でも梶山氏は「一六戦争」と言われた「竹下・金丸体制」後の田中派後継争いで、羽田氏を推す(そしてその陰にまわる)小沢氏に対抗して、小渕氏を後継会長に推した派閥内の実力者だ。またこの事が1993年の小沢氏グループの離党、新進党設立、細川政権樹立への鍵となる重要な裏舞台である。いや裏舞台ではなく、むしろこれが1993年の政権交代の本質だ。
しかし、小渕氏が倒れる 2000年4月の時期は同時に、旧田中派内での実力者である竹下氏、梶山氏の重鎮二人があいついで病床に臥し(二人は同年6月のほぼ同時期に亡くなっている)、党内での派閥力学バランスが少し傾きかけていた。これが一方では森氏という清和会(旧福田派)派閥の長の首班への起用であり、同時に野中・青木の小渕派(旧田中派)と亀井・村上の江藤・亀井派との間とも絶妙なバランスが保たれていたと見るべきだろう。もっとも、根底にあるのはひとえに実力派閥の両派にとって森氏が操り易かったからである事も見逃せない。
こういう政界のドス黒さに敏感なのは石原都知事である。森政権発足とほぼ時を同じくして2000年5月には台湾で陳水偏氏が本省人初の総統に選ばれたが、その総統就任式に出席し、翌日テレビ朝日のサンプロに出演した石原都知事が「陳総統の顔は引き締まって良かったですよ。それに比べてあそこに座っておられるお二方(5人組の野中氏と亀井氏)は人相が悪いなー」とズケズケと発言したのを今でも憶えている。亀井氏とは盟友関係にある石原都知事ではあるが、密室協議の本質を見抜いていたのは言うまでもない。
さて、森政権というのはほぼ一年余りの短期間であったが、途中には「加藤の乱」があり、森氏自身の数々の失言や「資質問題」からも支持率が急激に低下して森氏は辞任に追い込まれた。森氏というのは旧来の自民党的なものから生まれた旧自民党的体質を持つ政治家であった。もし自民党がその後の総裁選に勝利する小泉氏により「ぶっ壊されない」旧体制のままであったならば、おそらく解体して一部は小沢氏のグループに吸収されていたやも知れない。
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