1861年の日本とプロイセンとの修好通商条約締結から150周年という事で先日の何ともピントの外れた国会決議と相成ったわけだが、そもそもこの時代のプロイセン(Preußen)は地図上から見ても現在のドイツとはやや性格が異なる国家だ。プロイセンは北ドイツ、ポーランド、バルト海沿岸を拠点とするドイツ騎士団領とブランデンブルグ選帝侯領が合体して出来た新興の軍事国家だ。この時代のプロイセンの東アジア遠征艦隊が日本にやってきたのが条約締結のきっかけらしい。
既にアジア各地に植民地獲得の爪を伸ばしていたイギリスやフランス、あるいは南下の動きを見せていたロシアを避けて、日本がこの欧州で急激に勢いを伸ばすプロテスタントの軍事新興国を明治維新後の富国強兵のお手本にしたのは正解だろう。プロイセンとて極東での植民地獲得の野心を持って極東にやって来たのであろうが、当時は何分いまだドイツとしての統一前後でもあり、欧州での自らの足元固めに専念するのが先決であったであろうから、日本にとっては組みやすい相手だ。
プロイセンはこの日本との条約締結の 5年後の1866年には普墺戦争でオーストリアを破り、更にそのまた 5年後の1871年には普仏戦争でナポレオン三世のフランスを破って、破竹の勢いであった。この結果、同じ年にプロイセンが主導してドイツ各地の王国、公国、大公国、司教領等の領邦を取り纏めて統一的なドイツ帝国の成立を果たすのである。
実はこのドイツ帝国成立の1871年から第一次世界大戦が始まる1914年までの 44年間は欧州には戦争がない、安定した平和が保たれた時代であった。言うまでもなく、英仏露独墺の列強の間で見事な勢力均衡(Balance of Power)が成立っていたからである。この44年間という時間の長さを感覚でとらえ様とすれば、それは丁度1945年の日本の敗戦から1989年のベルリンの壁崩壊までの東西冷戦時代の長さと同じである。
それでは何故、新興軍事国プロイセン主導によるドイツ帝国の出現によって、欧州内の勢力均衡バランスの変化が生じたにも拘らず、半世紀近くも平和が保たれたのだろうか。それはドイツの鉄血宰相(der Eiserne Kanzler)と言われているビスマルクの絶妙な外交手腕によるものである。ビスマルクはあくまでも現実主義的な観点に徹して、誕生間もないドイツの欧州内での地位を確固なものとし、その国益と生き残りの為を思い、外交手腕を発揮した。ビスマルクは当時複雑に絡み合う英仏露墺の列強間の利害・敵対関係を徹底的に分析利用して、各国間での協商や同盟を画策し、独自の安全保障体制を作り上げたという事なのだ。これこそが結果的に欧州内で見事な勢力均衡を生み出したという事であり、決してビスマルクは平和主義者でもハト派でも何でもない。
同様に戦後日本の平和と経済的な繁栄は、何も憲法9条があったからや平和念仏を唱えていたからの結果からではない。これはあくまで米ソ間での「核の攻撃には核で対抗」という軍事力での勢力均衡が保たれていた結果であり、また日本が日米安保条約に基づいて米国との軍事同盟関係を持つという正しい政治的選択をした結果であるのは言うまでもない。
歴史を振り返れば勢力均衡が崩れて、突出した軍事大国が出現した時ほど大規模な戦争の惨劇が生まれる時はない。欧州の例ではナポレオンのフランス、ヒトラーのドイツ、スターリンのソ連である。そしてこれから間違いなく起こるであろう事は急速な軍事的拡張を続ける中国による東アジアでの覇権である。おまけに中国の人民解放軍は国家の軍隊ではなく、中国共産党に属する組織である。
その後、ドイツ帝国はビスマルクを疎んじたウィルヘルム二世により誤った方向に路線変更がなされ、ビスマルクが築いた平和の遺産を生かす事なく第一次大戦に突入した。その100年前においてでさえ、ドイツ帝国では議会の総選挙が実施されていた。例え統帥権が独立していたとは言え、言論の自由は確保されて、社会民主党が大躍進した様な国である。この事を思えば、この東アジアにおいて今後勢力均衡が崩れる様な事ともなれば、惨劇の歴史が繰り返されるのは必然であろう。
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