2011年4月6日水曜日

米軍による救援活動

新聞報道によれば、今回の震災救援活動での米軍出動に関し、米国政府はその予算手当を当初の30億円をはるかに上回る2.3倍の68億円に引き上げたと公表したらしい。これは何を意味するかと言えば日本政府への一部負担か、何がしかの資金的な見返りを求めてくるという事だろう。そもそも「give & take」は米国人の本能であり文化だ。一方、「安全と空気はタダ」というのが平和ボケ日本の文化だ。菅政権は請求されれば支払うしかないだろう。米軍側にも言い分がある。外国の軍隊である米軍が日本の災害支援にこれほどまでの大きなプレゼンスでもって救援活動を行うのは「菅政権に自国民を守る確固たる意思と能力と備えがない」からであると。更には「菅政権には危機対応能力が著しく欠如」しており「人道的見地」から、とても黙ってみておれないと言われるだろう。

その通りである。民主党政権の事業仕分けによって、スーパー堤防、原発災害防止調査等々の予算が軒並みカットされてきている事は、公表されている内閣府の事業仕分け結果のリストを見れば一目瞭然である。今はひたすら国民の眼が救援・復興にエネルギーが注がれているので、この問題は追及されていない。しかし、国民の安全と安心を守るのが政治の基本だ。昨日も述べた通り、菅氏が主張してきた様に日本がPKO協力法案を断固阻止して、自衛隊を海外に派遣する事をかたくなに拒んできていたならば、今回の米軍出動の図式は本当に国際的に見て軽蔑の対象どころか笑い話のネタにさえなる。

国民の安心と安全の面で災害救援と同じく重要なのが防衛である。このPKO協力法案に続くのがいわゆる有事法制であった。この「有事法制」に関しては2001年の米国での 9.11テロがきっかけとなり国内でも論議が深まって、2003年の小泉政権時代には自公与党に民主党も加わり圧倒的賛成多数で「武力攻撃事態対処関連3法」が成立した。更には2004年には有事の際の国民保護や米軍への協力などの詳細定めた「有事関連 7法」の成立に至り、ようやくの事ながら日本は普通の国の入口までに何とか至ったのである。思い返せば30年以上前の事ながら、有事に関する職業上の責任からのごくまともな発言でさえ、時の来栖統合幕僚会議議長が罷免されるjなど、長くタブー視されてきた事こそが異常であった。

米国のいわば自己完結型の自国防衛と、NATOという集団的自衛権のもとの西欧諸国の自国防衛が先進国での国際基準でありながら、片務的な(米国は日本を守るが日本は米軍に基地提供と資金を出すだけで米国を守らないという、いわば非対称の疑似双務的)日米安保体制のもとに米軍に守られて一人国際社会で平和ボケをしていたのが日本であったから、この面での小泉政権の功績は大きい。

勿論、日米安保体制は米国の世界的な軍事戦略の一環である事は事実である。しかしその事が理由で日米安保体制が不当なものであるとの意見は成立たない。何故なら日本は非核兵器保有国であり、集団的自衛権さえも事実上認められておらず、日米安保体制がなければとても露中朝の周辺核保有国からの攻撃と威嚇に対抗できないからだ。所詮は軍事同盟などというものはお互いが国防上、利用できるものを利用するというものである。かような米国の世界戦略に巻き込まれたくなければ、自主防衛力を飛躍的に向上し増大させ、核武装論議まで発展させなければならなくなる。その覚悟がさえもなければ、現在の日米安保体制の状態を良しとせざるを得ないのは子供でも判る話だ。

仮に今回、米軍出動の費用負担の面で日米での合意と了解がなされても、依然として米国側が忘れないのは普天間基地移設問題だ。新聞の社説では「約2万人の米軍兵士が参加した今回の大掛かりな救援活動は日本に恩を売る絶好の機会」とオバマ政権に「思惑がなかったわけではないだろう」と、遠慮がちに二重否定で書かれている。新聞は何を遠慮しているのだ。オバマ政権に「思惑はある」と肯定文で書くべきだ。それが国際政治では当たり前の話だからだ。

ルース大使の連日の Twitterでは米軍の支援活動の写真がこれでもかと言わんばかりに多量に紹介され、陸自が(尖閣海保事件の様に)菅政権に規制でもされているのかと思うほど遠慮がちに小出しに自衛隊の写真を公表するのとは対照的だ。極めつけの写真は沖縄の第三海兵師団による「ブーツをグラウンドにおろして」の「可視化された」人海戦術による瓦礫撤去作業である。我々は邪心を忘れ今回の米軍の救援活動には素直に心から感謝すべきであろう。さて、ここまで米軍様に徹底的にご親切にされれば、果たして当事者能力のない菅政権はどうするのか。まさか知らんふりして「逃げ菅」にはなれないだろう。大いに注目したい。

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