2011年4月26日火曜日

列強時代に学ぶ

ドイツの歴史はイギリスやフランスの歴史と違って、時代時代によってその領域の地図が変わるので複雑だ。1871年のプロイセン主導によるドイツ帝国成立までは、その領域は同じドイツ圏の覇者オーストリア・ハプスブルグ家による神聖ローマ帝国のもとに王国、公国等に小さく分かれていた。ドイツ帝国成立に至る決め手はプロイセンによるナポレオン三世のフランスとの普仏戦争(1871年)での勝利であるが、それに先立つオーストリアとの普墺戦争(1866年)での勝利も、ドイツ圏の領域での足固めとして大変重要であった。

普墺戦争に至るまでのドイツ圏での覇権を求めてのオーストリアとの戦いで、プロイセン側での主役は何と言っても1740年に即位したフリードリッヒ大王(Friedrich der Große)であろう。最近では米国のゲーツ国防長官が演説で引用したDiplomatie ohne Waffen ist wie Musik ohne Instrumente. 「軍事なき外交は楽器なき音楽のごとし」の名言を残したプロイセンの専制君主である。歴史上の大人物を今の近代社会の価値判断に基づいて評価を下す事は出来ない。このフリードリッヒ大王の名言は憲法9条により平和ボケをした現代の日本では好戦的であるとして危険視されていて、それこそ外交官の間では禁句であろう。しかし、時代を問わずこれが外交の本質だ。

フリードリッヒ大王は即位の年の年末には、早速オーストリア継承戦争(1740年)を仕掛ける。オーストリアのマリア・テレジア王女が神聖ローマ帝国の皇帝に即位する事に反対し(王女の皇帝即位は前例がなかった)、この名目での戦争に勝利してプロイセンは隣接するシュレジア地方(現在のポーランドの東部)を獲得した。しばらく後に、挽回をはかるマリア・テレジアのオーストリアは宿敵フランスと、更にロシアとも同盟を結ぶ事でプロイセンに挑んだ。この7年戦争(1756-63年)は長期戦となりプロイセンは苦戦し敗戦まで覚悟したが、結局、フランスと対抗する同盟国イギリスの支援を得て何とか持ちこたえるのである。

その後一時的にはプロイセン、ロシア、オーストリアの三国間では勢力の均衡が保たれ、緩衝地帯であるポーランドの三分割が進められた。また、プロイセンはイギリス・オランダ連合軍と一緒に戦ったワーテルローの戦い(1815年)でフランスのナポレオンを破り、ウイーン会議(1815年)を経て、ドイツ圏の盟主であるオーストリアをしのぐ勢いとなる。一方では、プロイセンはロシア、オーストリアとの間の神聖同盟を結び、国内での革命勢力を押さえると同時に、フランスからの産業・商業の担い手である新教徒ユグノーを積極的に受け入れて、軍備の近代化と国力の充実を図った。この結果が最終的には普墺戦争(1866年)での圧倒的な近大軍事力での勝利である。

その後、前回述べた通り、ドイツ帝国が成立した 1871年から第一次大戦勃発の1914年までの 44年間にわたり、「英仏露墺普」の欧州列強間の勢力均衡が保たれ、それが複雑に絡み合う列強間での同盟関係を作り出した。ここにこそ外交・安保の本質が隠されていて欧州の歴史で最も面白い時期である。またそれは同時に、日清戦争後の空白地帯となった満州・北支地域で南下を目論むロシアと対峙していた日本にとって、露仏同盟に対抗するイギリスとの日英同盟(1902年)を結ぶ結果に至った事は恵まれた環境であった。

多極化に向かう現在の世界の列強は「米露中欧」である。そして舞台は欧州から東アジアに移った。19世紀の領土拡張と、現代での産業・資源と金融・財政での競争と、国益のぶつかり合いの内容の違いはあっても、その根底には軍事力(核武装の)がある事は何ら変わらない。今回の大震災での原発事故で、放射性物質の汚染がかくも恐ろしいものであるのかを日本国民は知らされた。列強側では日本国民の災害に対する resilienceを絶賛しながらも、裏では菅政権の狼狽する対応の無能ぶりを見て、「日本を陥れるには核での威嚇がかくも有効なるものか」という事を冷徹な眼で学び取ったであろう。

18世紀末の「普露墺」の列強によるポーランド分割の様に、近い将来の「米中露」間での非核地帯の日台韓の共同管理に向けての動きは既に始まっている。それが落日の大国米国にとって取り敢えず取り得る唯一の勢力均衡の構図なのであろう。

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