2011年4月15日金曜日

村山内閣との類似性

今回の東北地方の大震災で「よりによってこの内閣の時に」と、阪神大震災の時の村山内閣の事を思い出された方は少なくないだろう。阪神大震災での村山氏は自衛隊の派遣等で全てが後手後手にまわった事に関して「何分にも初めての事なもので」という馬鹿げた発言で国民の激しい批判を浴び、支持率が急落した。現在の菅内閣が1994年6月に成立したその村山内閣に似ているという指摘がよくなされる。後手後手にまわる「危機対応」ぶりは確かに同じであるが、これ以外の共通点としては「反小沢」であり、もう一つは「外交音痴」であろう。

今から振り返れば15年前のたった1年半の「村山内閣」というのは一体何だったんだろうと思う。この村山氏ほど首相になる legitimacy(正当性)がない人物はなかっただろう。何故、村山氏が首相になったかは言うまでもなく数合わせの論理の結果だ。つまり、(1) 細川・羽田連立政権での真の実力者である小沢氏が羽田政権樹立時に「社会党・さきがけはずし」を図った事と、(2) 同時に政権復帰を狙う自民党がこの社会党・さきがけという反小沢氏の動きの二党との連立工作をしたのがきっかけである。そもそも小沢派による細川政権の「理念なき野合」が、あい続いで反小沢派による村山政権の「理念なき野合」を作り出したのだ。

そもそも細川連立政権成立時に社会党が加わったのは自民党政権時代のもとでは同党が70名という最大野党勢力であったからだ。自民党を離党し、反自民党の結集という事で数合わせ上、小沢氏はこの社会党とも手を組む事を決めたのである。そこにおける小沢氏の読みとしては、社会党が連立政権としての数合わせ上は重要であり、また一方では冷戦体制終結で既に賞味期限が切れていて政党としての力を無くししていた事にある。後に「踏まれてもついていきます下駄の雪」と揶揄されるほど細川政権下では小沢氏に舐めきられていたのだ。

首相として何の功績もなかった村山氏でも戦後50年の節目の1995年に出された「村山談話」だけは有名だ。いわく戦前の日本が植民地支配と侵略によってアジアの国々に多大の損害と苦痛を与えてと言う内容だ。まさに国論を二分するとも言われる歴史観問題ではそれまでにはない踏み込んだ発言だ。この首相談話の内容は村山氏の考えもさる事ながらそこには外務省の意向が色濃く出ているのではないかと思われる。その背景にあるのは鄧小平氏の後継として1993年に全ての権力を手中に収めた江沢民氏による「反日姿勢」の中国にある。

1989年の天安門事件の民主化の動きに危機感を抱いた江沢民氏は共産党一党独裁体制維持の為の正当化根拠を「反日」に定めたのである。それ以来日本の外務省の対中国交渉では何事につけ中国側からこの「歴史問題」を引き合いに出されて困難を極めた。外交官の頭の中にあるのは必ずしも国家第一ではなく、いかに与えられた仕事を波風立てずそつなくこなすかの官僚的発想だ。そういう彼らには国家観がなく外交音痴の村山首相の登場は渡りに船である。首相談話は首相一人が了承すれば議会の承認がなくとも公表されるものであるので、これがあれば中国、韓国の反日国との外交交渉はスムーズに進むのだ。現在の外交官の中でも村山首相を評価する人が少なからずいるのは、ひとえに村山氏が外交音痴で外務官僚の言いなりで操れる無能の宰相であったからだろう。

村山氏にとっての労働者は菅氏にとっての市民である。いずれの首相にも共通するのは「労働者ありき、市民ありき」で「国家」なるものが意識にない事にある。そもそも外交とは国家の利益即ち国益と国益がぶつかり合う場であるから、国家観のない首相に外交を担当する資格はない。実際、イタリアのナポリサミットでは晩餐会で各国の首脳が食事に会話にと和やかな雰囲気が作られた中で、普段日本食しか食べる事が出来ない村山首相は終始一切食事には手をつけず全くの招かれざる客であったとの事だ。そもそも村山氏には外交どころか外国とか外国文化といったものにさえ触れる興味と機会はなかった様であるから、外交舞台でいかに振舞うかも知らないリーダーではお話にならない。

90年代の村山氏はまさに現在の菅氏である。現在の主要な外交交渉の相手は中国だけではない。同盟国である米国こそ常に衣の袖の下に見え隠れするのは鎧であるから、菅内閣そのものが国家の危機である事は言うまでもない。

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