小泉氏と小沢氏は宿命の政敵であろう、いや政敵であった。その政治手法は全く違うし、小泉氏にとっては小沢氏がいた角栄王国が構築した仕組や小沢氏の角栄式政治手法はその政治情念をかけた大改革の対象とさえも言えるものだ。しかし一方においては、近年に於いてこの両氏ほど「政治」というものの持つ「危険であやしい権力の魅力」を体験し、また知り尽くしている政治家はいないだろう。
小泉氏と小沢氏の政治手法の大きな違いは、小泉氏が言わば「一匹狼」的存在で、子分は持たず、派閥に依存せず、また政治資金にも「あまり」依存せず、ただただひたすら自ら発する言葉とメディアを通じての大衆人気を武器にして権力を手にしたところにある。しかし、こうした大衆人気と言うのはハヤリの言葉を使えばsustainable(持続可能)ではないゆえに、権力維持は単発的であり、その身の振り方も当然「闇将軍」的存在の小沢氏とは全く違ったものとなる。大方の選挙民というのは選挙行動においては「移り気で、無知で、愚か」でさえあるのは、2000年以上前の都市国家アテネの民主制度から何も変わらない。それを小泉氏も小沢氏も熟知しているのだ。
小泉氏の政治的情念は、田中角栄氏が作り上げた構造の根本改革、即ち「郵政民営化」と「道路公団民営化」への挑戦に注がれた。この「構造改革」とは、塩爺こと塩川元財務大臣がいみじくも述べた「母屋がおかゆすすっているのに離れですき焼きを食っている」と言う表現の通り(母屋=一般会計、離れ=特別会計)、一般会計である国の財政が逼迫している時に、特別会計で大きな無駄遣いをしているという仕組の大改革だ。具体的には、郵貯、簡保、年金を通じて国民から吸い上げた潤沢な資金を、特別会計として国の予算とは別に旧大蔵省が公庫、政府系銀行、特殊法人(道路公団等)に投融資した仕組である。こういう仕組が日本にある事を聞いた司法関係の米国人は腰をぬかさんばかりに驚いた「あり得ない!」と。
この仕組は戦後の日本においては、国民生活の向上とインフラ整備には確かに効率的に機能した。しかし民間企業の活力がついていく中で時代にそぐわなくなり、存在意義がなくなってきた。この仕組はまた、官僚の采配によって投融資が決まるので、あの「かんぽの宿」に象徴される様な無駄使いや資金の流れが出てくるのは言うまでもない。一方、この資金は霞ヶ関の官僚の天下り先にも流れていくものであった為、官僚が抵抗勢力となっていた。従い、小泉氏の持つ強い政治主導がなければ、この改革は出来なかったであろう。
郵政民営化については色々な立場と見方はあるだろう。しかし、あのままの集金組織を維持して、それを集票システムに活用し、更には自民党内での自らの権力基盤の維持に活用してきた田中角栄式政治手法はあきらかに時代にそぐわぬものとなって、あの時点での自民党の致命的な崩壊につながったであろう。その事が自民党総裁自ら「自民党をぶっ壊す」と叫んだ意味だ。あのシステムが角栄派、経世会の党内での権力維持に寄与してきたのは、システム崩壊とともに派閥が解体状態になっている事から明白である。
また民営化によって日本国民が貯蓄した莫大な資金が米国に騙し取られるとのナイーブな意見さえ出てきていたが、これはお笑いものだ。開かれた国際金融社会での恩恵を日本人や日本企業が受けていながら、一方では自らは鎖国状態にするというのは金融の国際化、自由化の時代には最早通用しない。我々個人でも日本企業でも米国や欧州に投資をし、そこで上げた利益を充分吸い上げ持ち帰る事が可能な開かれたシステムだ。この流れに逆らおうとするのは、ちょうど迫り来る列強の前に怯える幕末の攘夷派と同じ感情論である。要はその様な厳しい国際金融競争にも耐えうる様な体力と体質、抵抗力を作っておく方が重要である。
私はこの小泉改革の果たした日本の政治史上での意義はやはり大きかったと思う。と同時に小泉氏の政治家としての見識、情熱、力量を素直に評価したい。勿論、我々には政治の動きの全てを知る事は出来ない。またその水面下の見えない部分は想像すら出来ない事も多い。それがゆえに政治家を評価するにはその政治家個人が果たして「人間として信頼できるかどうか」、これで見極めるしかない場合もある。それを賢明な国民は知っている筈だ。
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