2011年3月9日水曜日

仏教の「精神修養」

日本人が米国人に英語で仏教のエッセンスについて説明しようとするとこれは至難の技となる。例えば「空」 Emptiness、「無」 Nothingnessで説明すれば、聞く側からは「それでは全てが何の意味も持たない」「それは宗教ではなく、対極にあるニヒリズムである」という反応しか出て来ない筈だ。それ以前に我々自身が仏教とは何かという事についての理論武装さえ出来ていない事が充分認識される。そんな中で日本の仏教界では若手の僧侶が積極的に米国に留学して博士号を取得したり、更には大学教授として米国人学生に仏教について講義をしている例もある。あの仏教徒であるAppleのCEO Steve Jobs氏の様に、近年特に理系、工学系の米国人学生の間では仏教に興味を示す学生が増えていて大学側でもそのニーズに応えているのであろう。近代的合理性と科学万能主義という「唯物」の世界を突き詰めて行くと、そういったものを超越したmeditationや philosophyという「唯心」の世界を求めるのであろうか。

先日、カリフォルニア大学バークレー校で講座を持つ臨済宗の僧侶で住職でもある方からお話を聴く機会を得た。禅宗の臨済宗は言うまでもなく、座禅を中心とする修行を行う事で「自分を見つめる」事に主眼をおく教えを持っているが、実際にその僧堂(雲水の修行道場)でいかなる事が行われているかをスライドで説明して頂いた。あまり一般には公開されていないという写真のスライドごとに付記された文字をメモしただけでも庭詰、旦過詰、粥座、斎座、飯台、参禅、托鉢。作務、園頭畑、新到参堂、殿司、開静、典座、止静、接心、警策、公案、経行、解定、開枕と、僧堂での厳しい生活を現す専門用語も我々俗世間の人間には新鮮だ。しかし、極寒の時期や蚊の多い極暑の時期を通じて朝の 3時から夜の 10時までを 2-3年粗食に耐えひたすら修行に励み自己を見つめるという生活は想像するだけでも俗人にはとても無理な世界だ。

実はこの講師の方の祖父も父親もメディアを通じて有名な僧侶で、ベストセラーとなった著作やNHK教育テレビのシリーズでそれぞれ「般若心経」を判り易く解説をされた方々だが残念な事に最近お二人とも相次いで他界された様だ。講師はまた二人のご兄弟も揃って僧侶との事であり、芥川賞作家として日本で人気の僧侶の方も同じ宗派の兄弟子にあたるらしく、厳しい修行に耐えた姿を想像させない臨済宗のエリート家系のプリンス的風貌である。

臨済宗と言えば、個人的には京都を訪問して日本の美を体感出来るのはこの宗派の建仁寺、大徳寺、東福寺の三つを上げたい。全ての無駄な装飾を排し、自然の美と調和し、洗練された素朴な美しさには日本人ならずとも脳波に響くものがある筈だ。これらのお寺では毎回必ずと言って良いほどフランスやドイツといった欧州からの観光客の姿を眼にする。いずれもがもの静かに立ち止まり、あるいは縁側に座ってしばしの間静寂の時間を堪能している様に思える。深い歴史と伝統、文化を背景とする彼ら欧州人には何事も合理性と科学性をよりどころとする米国人よりも日本人に近い共通した感覚があるのであろう。

こうして見ると、あらためて日本仏教とキリスト教の違いは何かとの思いを抱かせるものだが、一般的に我々俗人には日本仏教はキリスト教よりもその布教のエネルギーや救済の具体的行動力の面では控え目に見える。しかし逆に「聖書にはこう書かれている」といった教条的な色彩はなく、あくまで個人の内面を追求する言わば精神修養的な「自立と自律」の世界ではないかと思える。

末期症状的民主党政権のお粗末な現状のもと、日本の政治には今何が求められているのかという面で日本国民自らが己を見つめ直すには、その「自立と自律」の為の「精神修養的」な観点が必要だ。まずは2009年の政権交代を喜び騒いだ「世論依存」の大いなる過ちを反省し、一体この民主党政権という詐欺師的な集団は何だったのかと言う本質を見直し総括するという事が必要だ。

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