2011年3月29日火曜日

あらためて小沢氏という政治家

『小沢党首、核武装可能と中国けん制』〔日本経済新聞〕 2002/4/06
自由党の小沢一郎党首は6日、福岡市内で講演し、軍事力増強を続ける中国を批判して「あまりいい気になると日本人はヒステリーを起こす。核弾頭をつくるのは簡単なんだ。原発でプルトニウムは何千発分もある。本気になれば軍事力では負けない。そうなったらどうするんだ」と述べた。2002年の話とは言え、あの中国様を恫喝するという、今の政界では誰も出来ない何とも勇ましく力強いご発言である。

そう言えば、小沢氏は自由党党首の時にはこういう外交スタンスで政治主張をしていた記憶がある。つい 9年前の事だから、小泉政権の絶頂期に田中真紀子外相を更迭して支持率が少し落ちた頃の話だろう。小沢氏はまた1990年の自民党幹事長時代、湾岸戦争勃発時に自衛隊をペルシャ湾に派遣すべく「操り人形」の海部政権に法案を提出させた。しかし、これは廃案となり国連の元で活動をするPKO法案となって自衛隊の海外派兵への道をつけた。これほどの親米タカ派であったのが今ではとても信じられない。当時、TV朝日のサンプロで田原総一朗氏の質問に「日米安保において米国の兵士が日本を守る為に血を流すならば、逆に日本は米国の為に何もしないで良い、というわけにはいかんでしょう」と述べて、集団的自衛権にまで踏み込む勢いでの積極的な米軍支援を主張した。

その後、小沢氏は1993年の細川政権成立から紆余曲折を経た後、2003年の民主党との合併を経て、2009年の政権交代実現へと大きな政治力を発揮した事は記憶に新しい。政権交代後は一転して、普天間基地移設に関する駐留米軍問題では「日本の防衛には第7艦隊だけで良い」発言もあり、当時の鳩山首相の普天間県外移設、国外移設を後押しした。まあ一言で言えば安保面での180度方向転換であろう。また2009年年末にはすっかり有名となった143名の民主党議員団を引き連れての中国詣を行い、胡錦涛主席と議員一人づつ全員との連続ツーショット記念撮影を実現させるほどの親中ぶりを見せ、更には習近平氏の天皇会見ごり押し問題へと発展させていくのである。まさに小沢氏に向ける胡主席のお顔は「おぬしも悪よのー」だったであろう。

こうした小沢氏の過去の動きを振り返って見れば、現実の政治というものは「理念」というよりも「権力」に重きが置かれるべきものであり、「権力なければ理念の実現は不可能」であるという真実を見せつけられる。即ち、権力を先ず手に入れる為には理念はその時々の政局で猫の目の様に変わってもそれはそれで割切るべきものの様にも思えてくる。

そうなれば、結局は2009年の政権交代というもは1993年の細川政権樹立の時と本質的にそう変わっていない様に思えてくる。その本質とは「小沢氏が主役であり政変の軸」であって、選挙を通じて権力を得る為には「旧社会党系、民社党勢力をどう取り込むか」という事だ。2009年の政変が1993年のものと違うのは、公明党が入っていない事と、抵抗勢力と言われた連中が自民党の主役の座から落とされている事だろう。思い起こせば、その自民党(抵抗勢力が主役の時代の)でさえ、1993年の政変で野党に陥落した後は「社会党」そのものを取り込んで政権を取り返して何とか生き延び様としてきた歴史がある。

さて現在はその小沢氏ナシの言わば「旧社会党系」が主役の中心である民主党政権となっているわけである。政権交代を望んで民主党に投票した人達の一部からすれば「話が違うぞ」との違和感は拭えないだろう。従って、「理念よりも権力」を理解しているオトナの人達からすれば、小沢氏待望論が出てきても不思議ではない。震災復興を論じる先週の朝ナマでは最後に田原総一朗氏はじめ討論参加者の中から「小沢さん早く出てきて東北復興して下さーい」と小沢待望コールさえ出て来ている。もうその雰囲気からは刑事被告人などというタイトルはなきに等しい。

私の立場は小沢氏待望論者でもなく、また頑強に小沢氏を否定するものでもない。ただただ冷静に、冷ややかに、真の日本の再生に果たして「この小沢氏は必要なのかどうか」という一点を見つめるだけである。常に小沢氏の存在は「政治とは何か」を深く考えさせられるものである。

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