「首都機能分散」といった課題にでもドイツの先例がある。先例といってもドイツは地震大国ではない。それは、この国が1871年のドイツ帝国成立前までは王国や公国・侯国、司教領という地方を基盤に成立っていたという歴史と、第二次大戦後の東西ドイツへの分裂そして 1990年の統一という経緯への流れを物語るものでもある。統一ドイツの首都はベルリンではあるが、現在でも西独時代の首都であるボンに教育省、環境省といった連邦政府の6省庁が置かれている。つまり首都機能は分散されている。
ボンはライン川河畔の人口約 30万の小都市であるが、そもそも西独時代にこのボンを首都としたのは、(1) 将来の統一後にいつでもベルリンに首都を移せる様に暫定として小都市を選んだ (2) 戦前の第三帝国時代のベルリンのイメージを払拭する為に対照的な小都市を選んだ、という事だ。本来、ドイツは西独時代から各州(統一後は16州)の地方自治を基盤とする連邦制の国家であり、日本よりも数段進んだ「地方分権」の国家である。
それでは何故統一後もボンに一部の省庁を残したかと言えば、それはまず連邦議会での僅差での議決により、1994年に制定されたベルリン・ボン法に基づくものである。議会での表向きの議論では、ベルリンとボンに省庁が分かれる事で生じるコストと、ボンの省庁全てをベルリンに移動させるコストとの比較、更には全省庁移動に伴うボンの経済的な衰退を防ぐという事も含めて総合的に検討された。その結果議会は敢えてボンに政府機能の一部を残すと決めたのだ。
しかしその背景にある、(1) 1871年のプロイセンによる統一ドイツ帝国成立は当時の英仏露墺の列強に対抗するものであったが、その後その強力な中央集権国家というものが結果的に第一第二の大戦での敗戦をもたらしたという事からの反省と知恵がある事 (2) 戦後の東西分裂の象徴として忌まわしい記憶の残るベルリンよりも、長い間の平和と繁栄をもたらした西独と言う国家の首都ボンへの人々の思い入れがある事 (3) また同時にベルリンは新興軍事国家プロイセンの首都、ボンはケルンと並び文化芸術のラインラントの中心、という歴史的な風土と人々の気質の違いがある事、なども見逃せない。
従って、繰り返すがドイツのケースは災害リスク対策の為の「人工的な首都機能の分散」ではない。歴史の流れの中でのごく「自然な政治的選択の結果」であり、その根底にはしっかりと根付いた「地方分権制」が確立されているという観点で見るべきだ。もともとドイツの良さというものは英国のロンドンやフランスのパリといった様な大都市にはない、分散された各都市における「静かで落ち着きがあり自然に恵まれた環境」にある。また同時に戦後の西独の経済的繁栄はこの計画的とも思われる程見事に分散された都市機能にある。即ち、それは前々回にも述べた通り、ほぼ 200kmごとの距離にある Hamburg, Hanover, Düsseldorf/Köln/Bonn, Frankfurt, Stuttgart, Münchenに代表される主要都市での個性豊かでかつ均等な繁栄である。
私個人もベルリンには観光で行くには良いとしても、とてもあの大都市に住む気にはならない。欧米の大都会というものは、必ず外国人労働者との摩擦、治安の悪化、物価高が付き物であるからだ。米国とて同様で、普通の平均的米国人は決して大都会には住みたがらない。郊外にある中小都市の静かで安らかな環境での生活と、子供達へのより高い教育水準を求めるのは同じだ。
振り返って、東京首都圏はその比較においては国際的に見て異常だ。第一、東京の様な都市の狭い空間でしかも狭いがゆえに常に周りの目を気にしながら画一的に育った子供達が将来どういう人間になるかの方が心配だ。経済界でも個性的な活動をしている人材は全てとは言わないまでも関西や九州で育った人間が多い。ソフトバンクの孫氏、旧ライブドアの堀江氏、楽天の三木谷氏、ファストリの柳井氏等、皆さん学生時代に東京で勉強をしたかも知れないが、生まれ育ちは伸び伸びとした環境のある関西以西である。東京で育った子供たちは子供の頃から既にこじんまりとサラリーマン化してしまっているのではないかと心配になる。
今回の大震災の教訓として、大災害による国家的リスク回避の面から首都機能分散の具体化を急ぐ必要があるが、同時にこれによって懸案となっている地方分権化の推進を図り、有形無形の形で日本全体を再活性化させるという側面も出て来る。一体、民主党政権になってこの地方分権化なるものが政治主導でどれだけ進捗したのであろうか。いや政治主導なるもの自体は全くなく、地方分権化は完全に後退してしまっているのが実態だ。「首都機能の分散」と同時に「民主党政権の霧散」が日本の復興再生への第一歩かも知れない。
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