ドイツ人の身の丈に合った暮らしぶりという視点では、その原点はやはり日本人と共通する「自然に対する敬い、親しみ」というものがある。ドイツは言うまでもなくキリスト教国である。おおまかに言ってカトリックとプロテスタントが半々であろう。しかし、そのドイツ人の心の奥深くに眠るゲルマン精神はむしろ多神教から来るものであろう。例えばあのワグナーの楽劇では「神々の黄昏」に代表される様に神々、即ち複数の神々を描いているのである。ワグナーの楽劇は同じオペラの形式でもイタリア歌劇と違って、森深くや岩山といったものの自然が舞台装置だ。また本来、欧州のキリスト教国でも例えばギリシャ神話、アイルランドのケルト神話、北欧神話などむしろ多神教の方が自然発生的で多数派である。
一方、日本の稲作農業は天候や水といった自然に左右される事が多いので、植物・動物の自然を支配せんとする小麦農業や牧畜業とは違った「自然への敬い」の宗教観が醸成されたとされている。日本のある有名な仏教哲学者が「ものつくり大学」を提唱し、初代総長になった事は興味深いものがある。というのも、日本人のモノ作り文化というものには、職人、作業員達自らが作る製品そのものをまるで仏像や神様に対するがごとく本当に大切に扱ってきている精神が基本にあるからだ。製品というのは種種雑多であり、その一つ一つがモノ作り従事者にとって仏像、神様のごとき「魂を入れて作るもの」であれば、それはまさに多神教の世界以外の何物でもない。
もう一つ日本人の精神性を表す逸話がある。この米国の大リーグでも活躍した野球の新庄剛志選手は日米を通しての現役時代に、一貫して新人の時に 7,500円で購入したグラブを使い通した事である。それもその古いぼろぼろのグラブに補修に補修を重ね、引退の日までの 20年近い期間に使い通したのである。あの派手なプレーとパフォーマンスぶりの新庄選手にでさえ、ものを大切にするという日本人の精神が貫かれていたのだ。スポーツの本場の米国ではゴルフの一流選手でさえ、ミスショットの後はクラブを叩きつける(へし折る選手もいる)投げつけるなど野蛮な振る舞いが普通だ。米国人にとってのモノは所詮使い捨てなのである。
こうした違いを我々は今一度はっきりと認識しておく必要があるだろう。工業先進国の中で際立つドイツの「脱原発」の動きにも、実は「自然を敬う」というゲルマン精神に根ざしたものがあるのであろう。もう30-40年も前から活動してきているドイツの環境保護運動の政党はその名も「緑の党」 Die Grünenである。緑、即ち木々の緑の森や林は日本人にとっての鎮守の森に等しい大切で貴重なものなのである。またドイツ人にとって最も身近で日常的な運動は spazieren (散歩する)である。郊外の森の中の散歩道を一人思いにふけりながら、あるいは愛犬と、家族、恋人、友人と静かに会話をしながらひたすら静かに歩くのである。
一方、ドイツ人が心から軽蔑し、深くため息をつくのは彼らがグランドキャニオンを訪れる際に泊まるラスベガスの光景である。これほど全てが人工的なもの、偽物、虚飾の街を作る米国人とはいかなる哲学を持つ国民なのであるかと。その米国が全てだと言わんばかりに留学で、ビジネスで学んだ米国式を盲目的に崇拝し、政治的には隷属姿勢を示し続けてきた日本人は、本来精神性に共通のものを持つドイツ人の様に米国との距離を一定に保つべく、今こそ覚醒すべき時であろう。
2011年11月29日火曜日
2011年11月25日金曜日
ドイツいじめ
孝子様、「言いたい放談」拝見しました。全く同感です。
ドイツ人にとって「あんただけには言われたくない」と言いたくなるのが英国の論調です。英誌、エコノミストあたりでもECBによるユーロ共通債にドイツが反対姿勢を示している事に対して、「ドイツ厳格主義が欧州統合を潰してしまう」と批判しています。一体自国の都合でユーロに参加さえしていない英国に欧州統合に向けあらゆる努力をしてきているドイツを批判する資格があるのかと。ここで ECBが安易に財務問題を抱える国に共通の資金を大量につぎ込む事になれば、そういった国は本来財政規律を厳格化して、自らが「自律と自立」に向かう様な努力をすべきであるところ、これを怠ってますます事態を悪化させるのは眼に見えています。
そもそもドイツは落日の英国と違って、経済力と技術力、市場の大きさと成熟度では欧州域内では圧倒的です。これが現在のギリシャ、スペイン、イタリア問題で象徴される財政危機にあたってのドイツの存在感に出ています。そのドイツの圧倒的な国力をもたらす源泉には日本と共通するものがあります。「勤勉、努力、向上心」というものを基礎に、「誠実、正直、几帳面」という国民性、何よりも「自然に親しみ、身の丈にあった暮らし」というものがあります。もうひとつは先日のブータン国王の国会での演説の中にもあった「規律」、これこそが両国に共通するものでもあります。ドイツもこの規律を重視するからこそ、それに対して厳格な姿勢でのぞむのです。
また、日独両国は英米のいわゆるアングロサクソン系と違い、決して「カジノ資本主義」には走らないという点でも共通です。英国はご存知の通り、今や自動車も家電製品もIT機器も外資は別として自国では全く作れない技術力なき後進国です。国民が勤勉ではなくなると経済が低迷し、財政悪化につながっているという基本構造ではイギリスもギリシャと何ら変わりません。財政悪化の結果、過度の民営化によってロンドンは観光客にとっても一目で判る様な情けない姿となっているのです。例えば、旧ロンドン市庁舎を日本の不動産業者に売却した為に議事堂対岸には景観を損なう醜く巨大な観覧車の塔が設置されて遊園地化し、バッキンガム宮殿が今やロイヤルグッズを販売する土産物屋化し、ロンドン市内西部にできた欧州最大のショッピングモールの客の大半は中東系で埋め尽くされているという状態です。
先日、米国の大手銀行のセミナーでエコノミストの人が「ギリシャでは 58歳で年金がもらえ(55歳とも言われている)、富裕層は脱税に走り、政府は財政数字をごまかす」「そこまでいい加減であればギリシャは自業自得、救済してもらうならばその見返りに独仏には彼らの休暇先として人気のクレタ島あたりを差し出せ」などとの金融界での冗談話を紹介していましたが、笑い話ながらもついつい頷いてしまいました。
これが企業であれば倒産と言う事ですから、どこかの企業に合併されるか吸収されてしまうという事につながります。何故、国家であれば生き残る事が出来るのであろうかと。実際に敗戦国であるドイツや日本などは領土の一部を奪い取られているではないですか。まずは独立主権国家であれば、国民に負担を強いて財政規律を立て直す事が先決であり、そういう努力を政府がリーダーシップで示していくのがごく当たり前の話です。あの金融危機の際の韓国で国民が自主的に金の製品を拠出したなどという精神は全くないのです。
ドイツ人にとって「あんただけには言われたくない」と言いたくなるのが英国の論調です。英誌、エコノミストあたりでもECBによるユーロ共通債にドイツが反対姿勢を示している事に対して、「ドイツ厳格主義が欧州統合を潰してしまう」と批判しています。一体自国の都合でユーロに参加さえしていない英国に欧州統合に向けあらゆる努力をしてきているドイツを批判する資格があるのかと。ここで ECBが安易に財務問題を抱える国に共通の資金を大量につぎ込む事になれば、そういった国は本来財政規律を厳格化して、自らが「自律と自立」に向かう様な努力をすべきであるところ、これを怠ってますます事態を悪化させるのは眼に見えています。
そもそもドイツは落日の英国と違って、経済力と技術力、市場の大きさと成熟度では欧州域内では圧倒的です。これが現在のギリシャ、スペイン、イタリア問題で象徴される財政危機にあたってのドイツの存在感に出ています。そのドイツの圧倒的な国力をもたらす源泉には日本と共通するものがあります。「勤勉、努力、向上心」というものを基礎に、「誠実、正直、几帳面」という国民性、何よりも「自然に親しみ、身の丈にあった暮らし」というものがあります。もうひとつは先日のブータン国王の国会での演説の中にもあった「規律」、これこそが両国に共通するものでもあります。ドイツもこの規律を重視するからこそ、それに対して厳格な姿勢でのぞむのです。
また、日独両国は英米のいわゆるアングロサクソン系と違い、決して「カジノ資本主義」には走らないという点でも共通です。英国はご存知の通り、今や自動車も家電製品もIT機器も外資は別として自国では全く作れない技術力なき後進国です。国民が勤勉ではなくなると経済が低迷し、財政悪化につながっているという基本構造ではイギリスもギリシャと何ら変わりません。財政悪化の結果、過度の民営化によってロンドンは観光客にとっても一目で判る様な情けない姿となっているのです。例えば、旧ロンドン市庁舎を日本の不動産業者に売却した為に議事堂対岸には景観を損なう醜く巨大な観覧車の塔が設置されて遊園地化し、バッキンガム宮殿が今やロイヤルグッズを販売する土産物屋化し、ロンドン市内西部にできた欧州最大のショッピングモールの客の大半は中東系で埋め尽くされているという状態です。
先日、米国の大手銀行のセミナーでエコノミストの人が「ギリシャでは 58歳で年金がもらえ(55歳とも言われている)、富裕層は脱税に走り、政府は財政数字をごまかす」「そこまでいい加減であればギリシャは自業自得、救済してもらうならばその見返りに独仏には彼らの休暇先として人気のクレタ島あたりを差し出せ」などとの金融界での冗談話を紹介していましたが、笑い話ながらもついつい頷いてしまいました。
これが企業であれば倒産と言う事ですから、どこかの企業に合併されるか吸収されてしまうという事につながります。何故、国家であれば生き残る事が出来るのであろうかと。実際に敗戦国であるドイツや日本などは領土の一部を奪い取られているではないですか。まずは独立主権国家であれば、国民に負担を強いて財政規律を立て直す事が先決であり、そういう努力を政府がリーダーシップで示していくのがごく当たり前の話です。あの金融危機の際の韓国で国民が自主的に金の製品を拠出したなどという精神は全くないのです。
2011年11月20日日曜日
TPPと日米同盟
TPP参加賛成論の中に安全保障面での日米同盟の観点から、参加すべきだとの意見もある。日本の安全保障政策での基軸は日米同盟であるという事は大多数の政党と国民の共通認識だ。しかしながら、東アジアにおける安全保障上の最大の懸念材料を持つ中国という国に対して、同盟国米国は日本をしのぐ勢いで経済面、財政面、投資面、貿易面でますます深いつながりを築き、ますますその依存度を高めてきている。米国債保有高、ドル建て外貨準備高、輸入相手国、貿易赤字の相手国、これら全てにおいて米国に対して中国は日本を抜いてのダントツトップの強い位置にあるのだ。いずれにせよ本来、TPPと日米同盟に関しては全く違う次元での議論である筈だ。
日本をTPPに引き込みたい米国は、おそらく野田政権に対して、日米同盟を意識させる事で無言の圧力の様なものをかけてきている事は容易に想像させられる。野田首相が APECで TPP交渉参加を表明すべきかどうかまさに国論が二分されている時期に、安全保障の専門家であるジョセフ・ナイ氏やアーミテージ氏、それにキッシンジャー氏までが相次いで訪日してきているのは単なる偶然ではない。米国は野田首相がそういった外交交渉の駆け引きの経験が浅い事やしたたかさに欠けるとみて、ここぞとばかりの攻勢をかけてきているのである。
それでは百歩譲って、安全保障と日米同盟の観点から、TPPへの参加を決めたとしたところで日本の安全保障面、防衛力は盤石なのかと言えば、とてもそう安心はしておられない様に環境が激変してきている。まずは上記の通りの米国の中国に対する経済的・財政的な依存度が極めて高い事、更には米国の財政赤字の面からの軍事費用の大幅削減が見込まれる事がある。仮に本当に中国との有事となれば、集団的自衛権さえも認めていない(日米安保条約では米国は日本を守る義務があるが、日本は米国を守る義務はない)日本という同盟国の防衛の為に米国の若者が血を流す事に対して米国内で米国民の理解を得るのは難しいと理解しておくべきだろう。
こうした米国の国力の弱体化の一方では、米国内での中国パワーの飛躍的な伸びが顕著である。米国への諸外国からの留学生数を見れば、毎年中国がこれまたダントツの一位であり、しかも人数の増加率が昨年30%、今年22%の大幅 up である。今や米国への中国人留学生数は16万人近くとなり外国人留学生の5人に 1人は中国大陸からの学生である。また、中国の富裕層が米国の投資移民プログラムを利用して大挙して米国の永住権、市民権を得ようとする動きが活発化してきている。ちょうどカナダに香港からの移民が大挙して押しかけた様に中国人は本来自らの国家を信頼していないのであろう。
この様に米国、特にもともと中国系が多く住みついている西海岸では「中国化」が着々と進み、本当に米国が中国と事を構える事などは米国の国内事情からして果たして可能であるのだろうかと思えてくる。仮にいざ有事となっても、米国という覇権国家としては同盟などという「義」よりも自己中心的な「利」を優先させるのが、衰退過程での生存本能であろう。米中の軍事衝突というのは現実的ではない様に思われてくる。
こういう状況下では、日本としては当然の事ながら「自主防衛」と「集団的自衛権容認」への道を着実に推進するのが正しいであろう。中国の軍事的プレゼンスの拡大を脅威として捉えているのは日本だけではなく、台湾は言うまでもなく、韓国、フィリピン、ベトナム、インドなどである。我々は今一度尖閣問題の時の中国のとった行動を思い出すべきだろう。日本人社員を言わば人質状態にし、中国からの観光客は止め、レアアースの輸出を制限し、と何でもありの国である。中国は関税よりも何よりも人民元を不当に安く操作している事自体から、TPP参加の交渉をする資格さえないのである。中韓抜きの TPP構想では、アジアの成長を取り込むなどという標語は全くのインチキであると言わざるを得ない。
日本をTPPに引き込みたい米国は、おそらく野田政権に対して、日米同盟を意識させる事で無言の圧力の様なものをかけてきている事は容易に想像させられる。野田首相が APECで TPP交渉参加を表明すべきかどうかまさに国論が二分されている時期に、安全保障の専門家であるジョセフ・ナイ氏やアーミテージ氏、それにキッシンジャー氏までが相次いで訪日してきているのは単なる偶然ではない。米国は野田首相がそういった外交交渉の駆け引きの経験が浅い事やしたたかさに欠けるとみて、ここぞとばかりの攻勢をかけてきているのである。
それでは百歩譲って、安全保障と日米同盟の観点から、TPPへの参加を決めたとしたところで日本の安全保障面、防衛力は盤石なのかと言えば、とてもそう安心はしておられない様に環境が激変してきている。まずは上記の通りの米国の中国に対する経済的・財政的な依存度が極めて高い事、更には米国の財政赤字の面からの軍事費用の大幅削減が見込まれる事がある。仮に本当に中国との有事となれば、集団的自衛権さえも認めていない(日米安保条約では米国は日本を守る義務があるが、日本は米国を守る義務はない)日本という同盟国の防衛の為に米国の若者が血を流す事に対して米国内で米国民の理解を得るのは難しいと理解しておくべきだろう。
こうした米国の国力の弱体化の一方では、米国内での中国パワーの飛躍的な伸びが顕著である。米国への諸外国からの留学生数を見れば、毎年中国がこれまたダントツの一位であり、しかも人数の増加率が昨年30%、今年22%の大幅 up である。今や米国への中国人留学生数は16万人近くとなり外国人留学生の5人に 1人は中国大陸からの学生である。また、中国の富裕層が米国の投資移民プログラムを利用して大挙して米国の永住権、市民権を得ようとする動きが活発化してきている。ちょうどカナダに香港からの移民が大挙して押しかけた様に中国人は本来自らの国家を信頼していないのであろう。
この様に米国、特にもともと中国系が多く住みついている西海岸では「中国化」が着々と進み、本当に米国が中国と事を構える事などは米国の国内事情からして果たして可能であるのだろうかと思えてくる。仮にいざ有事となっても、米国という覇権国家としては同盟などという「義」よりも自己中心的な「利」を優先させるのが、衰退過程での生存本能であろう。米中の軍事衝突というのは現実的ではない様に思われてくる。
こういう状況下では、日本としては当然の事ながら「自主防衛」と「集団的自衛権容認」への道を着実に推進するのが正しいであろう。中国の軍事的プレゼンスの拡大を脅威として捉えているのは日本だけではなく、台湾は言うまでもなく、韓国、フィリピン、ベトナム、インドなどである。我々は今一度尖閣問題の時の中国のとった行動を思い出すべきだろう。日本人社員を言わば人質状態にし、中国からの観光客は止め、レアアースの輸出を制限し、と何でもありの国である。中国は関税よりも何よりも人民元を不当に安く操作している事自体から、TPP参加の交渉をする資格さえないのである。中韓抜きの TPP構想では、アジアの成長を取り込むなどという標語は全くのインチキであると言わざるを得ない。
2011年11月16日水曜日
米国から見るTPP参加問題
現在の日本が直面する課題に原発問題と TPPがあるのは言うまでもない。いずれも日本の先行きを決める重要なものであるだけに種々議論がなされてきている。その中で従来と少し違った様相を見せて来ているのが、こういった課題に対して、今までのいわゆる保守 vs 革新といった対立軸では見られなかった新たな動きがあることだ。例えば、保守層の中から脱原発を強く主張したり、TPP参加に強く反対する意見が出ている事である。また一方革新層(民主党での)では財界と一緒になって米国主導の TPP参加を強く後押ししている事である。先日も参議院予算委員会で社民党の福島党首が TPP問題で野田総理に厳しく詰め寄った際に、後ろに控える自民党議員が大声で「その通りだ!」とヤジを入れるなど思わず苦笑させられる場面もあった。そもそも保守や革新などという言葉自体、メディアが作り出した誤ったものであるのには違いがないが。
それでは何故こういった新たなねじれ現象が出てきているのであろうか。それは原発もTPPも米国的なもの、米国的価値観に基づくもの、あるいは米国主導のものであるからだろう。そういった米国中心的ものに対する日本人側での見方に変化が現れているのではないだろうかと思われる。特に、2007年後半のリーマンショックとそれに続くオバマ政権の誕生で明らかに日本人の米国に対する見方が変わってきている様だ。2000年頃を前後して、米国経済が「インフレなき高成長を維持出来るNew Economyの時代に入った」などと言って賞賛されたのが、実は米国民が浅ましくも身の丈知らずの過剰消費や住宅バブルに踊らされただけであったという事や、連邦債務残高問題がデフォルト寸前までに追い込まれ、議会での混乱で今日現在与野党間での合意さえ達成できていない事など、とても米国が世界のリーダーたるお手本の国ではないという事が次々と明らかになってきているのである。
特にオバマ政権が当初Change などという掛け声で変革を大いに期待されたにも拘わらず、こうした深刻な問題に対して、全くもって解決の方向性さえ示す事ができていないのには、米国内のみならず国際社会からのその落胆と批判の度合いは大きい。あの大統領就任直後のプラハでの核兵器廃絶宣言なるものや、ウォ―ル街の経営者に対する厳しい言葉は一体何だったのであろうか。そもそも当初オバマ大統領が国民に実現への努力を公約した、医療の国民皆保険制度や、投機に走らない銀行、格差社会是正(貧富差を示すジニ係数では米国は先進国で最高レベルの0.46に対し日本は最低レベルの0.30未満)、こんなものは日本に既に長らく当たり前のものとして存在するものではないか。
こうした事を思い起こせば、日本国民にとっては戦後から長く続いてきた「米国従属姿勢」をそろそろ見直しすべきだとの「覚醒」の機会となってきているのであろう。こうした覚醒というものは保守層では明確に見られるが、一方の政権政党では明らかに真逆の動きを見せているのがこの TPP参加問題だ。民主党内でのTPP参加交渉反対の署名をしなかった 133名の議員のリストを見ると、つい最近まで何かと反米姿勢を貫き通してきたであろう旧社会党系の議員も多く見られ、このTPP参加問題を理解しようとする国民の頭の中は混乱してしまう。彼らは今や財界・経団連と一緒になって日本の農業を壊滅させてしまう危険性を大いにはらむこの米国主導のTPPへの参加を目論んでいるのだ。
野田首相はじめ前原政調会長、枝野経産相といった現在の政権与党の首脳陣の経歴を見ても、彼らが米国に留学したり米国に住んだりという経験はなく、果たしてどこまで米国というもの米国人というものを自らが体験し理解しているのであろうか。今時ビジネス社会では米国で仕事をしたり住んだりといった経験はごく普通の事である。ビジネスマンであれば仕事を通じて米国人がその仕草、外見や社交辞令とは違っていかに(日本人的に見れば)あくどいと言えるほど自己利益に厳しいかを充分体験している筈だ。日本人ビジネスマンの米国での体験を通じてのとても「信じられない!」逸話は数多くあるが、何でもありのここ米国社会では実際に日常で起こっているのだ。そうした体験の積み重ねから、それを充分理解し割り切った上で、そういう相手ともうまくわたり合っていけるだけの免疫力、したたかさ、知恵や実力が養われるのだ。
実は、保守層の側でTPP参加問題への抵抗感、警戒感が強い背景には、現政権幹部よりもよりこうした「米国体験を通じた免疫力が多い」事にあるのだろう。G20のオバマ大統領との会談で野田首相が「TPPが全品目対象」と言ったか言わなかったかで早くも両政府の発表内容が違う事に対し、自民党幹事長が「危なっかしい!」と野田首相の甘い姿勢を批判するのは当たり前の事だ。オバマ大統領にとって外交交渉音痴の野田首相を相手にする事などは赤子の手を捻るよりも御し易い事なのだ。
それでは何故こういった新たなねじれ現象が出てきているのであろうか。それは原発もTPPも米国的なもの、米国的価値観に基づくもの、あるいは米国主導のものであるからだろう。そういった米国中心的ものに対する日本人側での見方に変化が現れているのではないだろうかと思われる。特に、2007年後半のリーマンショックとそれに続くオバマ政権の誕生で明らかに日本人の米国に対する見方が変わってきている様だ。2000年頃を前後して、米国経済が「インフレなき高成長を維持出来るNew Economyの時代に入った」などと言って賞賛されたのが、実は米国民が浅ましくも身の丈知らずの過剰消費や住宅バブルに踊らされただけであったという事や、連邦債務残高問題がデフォルト寸前までに追い込まれ、議会での混乱で今日現在与野党間での合意さえ達成できていない事など、とても米国が世界のリーダーたるお手本の国ではないという事が次々と明らかになってきているのである。
特にオバマ政権が当初Change などという掛け声で変革を大いに期待されたにも拘わらず、こうした深刻な問題に対して、全くもって解決の方向性さえ示す事ができていないのには、米国内のみならず国際社会からのその落胆と批判の度合いは大きい。あの大統領就任直後のプラハでの核兵器廃絶宣言なるものや、ウォ―ル街の経営者に対する厳しい言葉は一体何だったのであろうか。そもそも当初オバマ大統領が国民に実現への努力を公約した、医療の国民皆保険制度や、投機に走らない銀行、格差社会是正(貧富差を示すジニ係数では米国は先進国で最高レベルの0.46に対し日本は最低レベルの0.30未満)、こんなものは日本に既に長らく当たり前のものとして存在するものではないか。
こうした事を思い起こせば、日本国民にとっては戦後から長く続いてきた「米国従属姿勢」をそろそろ見直しすべきだとの「覚醒」の機会となってきているのであろう。こうした覚醒というものは保守層では明確に見られるが、一方の政権政党では明らかに真逆の動きを見せているのがこの TPP参加問題だ。民主党内でのTPP参加交渉反対の署名をしなかった 133名の議員のリストを見ると、つい最近まで何かと反米姿勢を貫き通してきたであろう旧社会党系の議員も多く見られ、このTPP参加問題を理解しようとする国民の頭の中は混乱してしまう。彼らは今や財界・経団連と一緒になって日本の農業を壊滅させてしまう危険性を大いにはらむこの米国主導のTPPへの参加を目論んでいるのだ。
野田首相はじめ前原政調会長、枝野経産相といった現在の政権与党の首脳陣の経歴を見ても、彼らが米国に留学したり米国に住んだりという経験はなく、果たしてどこまで米国というもの米国人というものを自らが体験し理解しているのであろうか。今時ビジネス社会では米国で仕事をしたり住んだりといった経験はごく普通の事である。ビジネスマンであれば仕事を通じて米国人がその仕草、外見や社交辞令とは違っていかに(日本人的に見れば)あくどいと言えるほど自己利益に厳しいかを充分体験している筈だ。日本人ビジネスマンの米国での体験を通じてのとても「信じられない!」逸話は数多くあるが、何でもありのここ米国社会では実際に日常で起こっているのだ。そうした体験の積み重ねから、それを充分理解し割り切った上で、そういう相手ともうまくわたり合っていけるだけの免疫力、したたかさ、知恵や実力が養われるのだ。
実は、保守層の側でTPP参加問題への抵抗感、警戒感が強い背景には、現政権幹部よりもよりこうした「米国体験を通じた免疫力が多い」事にあるのだろう。G20のオバマ大統領との会談で野田首相が「TPPが全品目対象」と言ったか言わなかったかで早くも両政府の発表内容が違う事に対し、自民党幹事長が「危なっかしい!」と野田首相の甘い姿勢を批判するのは当たり前の事だ。オバマ大統領にとって外交交渉音痴の野田首相を相手にする事などは赤子の手を捻るよりも御し易い事なのだ。
2011年11月4日金曜日
We are the 99%.
OWS (Occupy Wall Street) 運動は9月に New York市で始まり、今では全米の主要な都市への進展の様相を見せている。彼らのスローガンである ”We are the 99%.” に象徴される様に高所得者層の top 1% との所得格差が拡大していることへの怒りと不満がこの運動の原点だと言える。先月、実際にこの top 1%が実に全体の17%の富を独り占め状態にしているとの数字が米国の公的機関から発表されたが、この数字を見て今更驚く米国人はおそらくいないであろう。
10月末に CBO(Congressional Budget Office、議会予算局)が1979年から 2007年の期間を対象に、家計数を所得額で5つに均等分割した各階層間での所得の伸びに関する分析結果を公表した。この分析は”Trends in the Distribution of Household Income Between 1979 to 2007” (1979年から 2007年の間の家計所得の分布傾向)というタイトルで、データはIRS(内国歳入庁)からの税収に関する各種の資料がベースとなっている。
この分析によると、1979年から 2007年の間に於ける、
1.各階層の税引後家計所得の平均額の増加率は(全体では 62%の増加)、
(1) Top 1% : 275%
(2) Top 1%を含む Top 2割(81%-100%) : 65%
(3) これに続く中間層の 6割(21%-80%) : 40%
(4) 最下層の低所得者層の 2割(1%-20%) : 18%
2.各階層の税引後家計所得が所得全体に占める割合の増減は、
(1) Top 1% : 8% から 17% (+ 9%)
(2) Top 1%を含む Top 2割(81%-100%) : 35% から 36% (+ 1%)
(3) これに続く中間層の 6割(21%-80%) : 50% から 43% ( -7%)
(4) 最下層の低所得者層の 2割(1%-20%) : 7% から 5% ( -2%)
つまり、「30年間の間に所得格差が急激に拡大している」という事と、「Top 1%の家計が全体の所得の17%をも押さえている」という事であり、益々格差社会に向かう傾向を示している。
家計所得には給与所得や労賃、個人業からの所得、キャピタルゲイン、配当収入、その他等がある。給与所得の面では、この30年の間での技術革新が熟練(中間層)と非熟練(最下層)の労働者の給与格差の拡大をもたらしたのは間違いない。
しかし、そうした事よりも top 1%の所得の中のいわゆるストックオプションによるキャピタルゲインが更なる格差拡大に大きく影響していることは言うまでもない。また、スポーツ選手、俳優、音楽家等のいわゆるsuper star達の収入が飛び抜けたものである事と、企業経営トップ、取り分け金融業界のトップの報酬が飛び抜けた額である事も同時に指摘されている。
OWS運動には現在では様々な団体やグループが加わり、その主張も様々で怪しげなものになってきているが、当初の主張の中核をなす「富裕層優遇税制の是正」と「投機的金融取引の規制」の根拠はオバマ政権が対策を講じてきていなかっただけに、それなりに明確ではある。
10月末に CBO(Congressional Budget Office、議会予算局)が1979年から 2007年の期間を対象に、家計数を所得額で5つに均等分割した各階層間での所得の伸びに関する分析結果を公表した。この分析は”Trends in the Distribution of Household Income Between 1979 to 2007” (1979年から 2007年の間の家計所得の分布傾向)というタイトルで、データはIRS(内国歳入庁)からの税収に関する各種の資料がベースとなっている。
この分析によると、1979年から 2007年の間に於ける、
1.各階層の税引後家計所得の平均額の増加率は(全体では 62%の増加)、
(1) Top 1% : 275%
(2) Top 1%を含む Top 2割(81%-100%) : 65%
(3) これに続く中間層の 6割(21%-80%) : 40%
(4) 最下層の低所得者層の 2割(1%-20%) : 18%
2.各階層の税引後家計所得が所得全体に占める割合の増減は、
(1) Top 1% : 8% から 17% (+ 9%)
(2) Top 1%を含む Top 2割(81%-100%) : 35% から 36% (+ 1%)
(3) これに続く中間層の 6割(21%-80%) : 50% から 43% ( -7%)
(4) 最下層の低所得者層の 2割(1%-20%) : 7% から 5% ( -2%)
つまり、「30年間の間に所得格差が急激に拡大している」という事と、「Top 1%の家計が全体の所得の17%をも押さえている」という事であり、益々格差社会に向かう傾向を示している。
家計所得には給与所得や労賃、個人業からの所得、キャピタルゲイン、配当収入、その他等がある。給与所得の面では、この30年の間での技術革新が熟練(中間層)と非熟練(最下層)の労働者の給与格差の拡大をもたらしたのは間違いない。
しかし、そうした事よりも top 1%の所得の中のいわゆるストックオプションによるキャピタルゲインが更なる格差拡大に大きく影響していることは言うまでもない。また、スポーツ選手、俳優、音楽家等のいわゆるsuper star達の収入が飛び抜けたものである事と、企業経営トップ、取り分け金融業界のトップの報酬が飛び抜けた額である事も同時に指摘されている。
OWS運動には現在では様々な団体やグループが加わり、その主張も様々で怪しげなものになってきているが、当初の主張の中核をなす「富裕層優遇税制の是正」と「投機的金融取引の規制」の根拠はオバマ政権が対策を講じてきていなかっただけに、それなりに明確ではある。
2011年11月1日火曜日
「脱原発」に関するクライン孝子さんの新著
ドイツ政府があらためて脱原発の方向性を打ち出した事が注目されているが、そこに至る背景や環境といったものが詳しく説明された書評は日本では意外と少ない。そんな中で在独 42年になるというクライン孝子さんの新著「なぜドイツは脱原発、世界は増原発なのか。迷走する日本の原発の謎」は極めて明解であり、また時期を得たものである。というのも、現在この脱原発問題のみならず、ギリシャの財政危機問題がユーロ圏全体の経済危機へと発展するのではと危惧される中で、EU全体に於けるドイツの自己抑制的で主導的な役割が一段とあきらかになってきているからだ。
この著書の中での中核は、第4章「ドイツの脱原発事情」と第 7章の「何がドイツを脱原発に踏み切らせたか」の、この二つの部分にあると思う。最初の「脱原発事情」の部分では、何よりもドイツが欧州全体で経済的、科学技術的には圧倒的な地位にあり、そこからの「自信」が脱原発という新たな方向へと歩ませているという点がまず指摘されている。実際にその科学的な成果としてもこの著書での資料によるとドイツでは太陽光、風力、バイオマスの自然エネルギー源の割合は既に全体の14%(日本は1%)を占めるに至っているのである。
日本人でも実際に欧州に住んでビジネスの経験でもしない限り、欧州域内での圧倒的なドイツの国力というものはなかなか実感できないかも知れない。近年アジアを中心とする新興国が急成長でその存在感を示すまでの先進国経済は「日米欧」の時代だと言われた。しかし極論を言えば、これは実際上、「日米独」の時代であったと言っても過言ではない。先進国市場で自動車、機械工業、化学工業の分野での供給側の主役は何と言っても日米独なのであって、英仏の産業は決してその地位にはない。また欧州を需要側の市場として捉えても、自動車、家電、高級雑貨に至るまで統一後のドイツ市場は仏・英・伊とは大きく差をつけてのダントツの成熟した最重要市場でもあるのだ。
しかし、そのドイツも二度の敗戦を経験することで戦後は欧州各国、特にフランスには常におおいなる「気配り」をするという処世術をしっかりと身につけている。そうした気配りが出来るのもフランスには経済力・技術力では到底追いつかれないという大いなる自信というものがあるのは言うまでもない。その自信があってこそ、フランスが国をあげて原発開発・推進をする中での、ドイツによる脱原発への真逆の「方向転換」である。日本でもドイツは原発推進国のフランスから電力の供給を受けているから「脱原発」政策が取れるのだと言う誤った情報が流されている事がこの本では指摘されている。実際はドイツからフランスへのエネルギー供給の方がフランスからドイツへのそれを上回っているのだ。まさにドイツの圧倒的な国力を知る者であれば、これまた充分納得の出来る話だ。
第二の部分の「脱原発に踏み切らせた背景・経緯」こそ、この著書の中で最も注目すべき点だ。戦後米国がその主導的な地位にあるロケットと核兵器の近代兵器の技術はいずれももともとドイツ人が発明・開発したものである。それが現在では大量殺戮兵器として世界規模で利用されるに至っているという事への原罪意識の様なものがドイツ人エリート層にあるというのは充分理解出来る事でもある。ドイツも日本と同様、核兵器は製造も保有もせず自己抑制的である。
更にこれらの点に私なりに付け加えさせて頂けるとするなら、ドイツ人の持つ「清潔感」というものが環境保護や脱原発といった動きの根底にあるのではないかと思う事である。具体例をニ三挙げれば、日本人駐在員の奥様が近所から窓が汚れていると注意されるという話を聞くほど、家々の窓は常に磨かれていてピカピカである事。ドイツ人ビジネスマンと長時間の会議でもしようとなると、休憩時には窓を開けて直接外気を取り込むという換気には充分気をつけねばならないという事。またドイツでは電子レンジの人体に及ぼす影響が判らないということで長らく普及していない事。ドイツの地方を旅行して、どんな安宿でもシワひとつないシーツと磨かれて清潔なバスルームが用意されている事、などなどだ。
3.11の震災後、福島原発からの放射能漏れの危険性が判るやいなや、横浜にあるドイツ人学校の生徒が数回に分かれて4日後の翌週の火曜日までには全員がチャーター便で本国ドイツに帰国、避難したという事実は我々には驚きであった。しかし、今から思えば震災後の日本政府首脳の対応が「人災」だと指摘される中で、実はドイツ政府の迅速かつ周到に準備されてきた「危機管理」対応が正しいものであったという事が判ってきたのである。
ドイツ人と日本人の共通点、それは勤勉、質素、努力、向上心といった「実直さ」というものであろう。しかし、違う点もある、それはドイツが欧州大陸の中心にある関係から、政治的には極めて「したたかである」ことだ。ドイツはもとより EU と NATOという共同体の一員であり、周辺諸国とは地続きであり、また歴史・文化・伝統にも共通するものがある。それがゆえにそのしたたかさというものが充分醸成されていて、例えば冷戦中であってもドイツはロシアからの天然ガスの安定供給を密かに交渉したり、また東西ドイツの統一に向けては英仏両国からの警戒と牽制を巧みにかわして、共同体の一員である事を優先させるという政治的に大なる決断をしているのだ。
日本の政治が混迷する中で、環境保護にはじまり、首都機能分散、更にはこの脱原発問題という問題を通しても、国のあり方はいかにあるべきかという面で日本がドイツから学ぶべきものはまだまだ多い。
この著書の中での中核は、第4章「ドイツの脱原発事情」と第 7章の「何がドイツを脱原発に踏み切らせたか」の、この二つの部分にあると思う。最初の「脱原発事情」の部分では、何よりもドイツが欧州全体で経済的、科学技術的には圧倒的な地位にあり、そこからの「自信」が脱原発という新たな方向へと歩ませているという点がまず指摘されている。実際にその科学的な成果としてもこの著書での資料によるとドイツでは太陽光、風力、バイオマスの自然エネルギー源の割合は既に全体の14%(日本は1%)を占めるに至っているのである。
日本人でも実際に欧州に住んでビジネスの経験でもしない限り、欧州域内での圧倒的なドイツの国力というものはなかなか実感できないかも知れない。近年アジアを中心とする新興国が急成長でその存在感を示すまでの先進国経済は「日米欧」の時代だと言われた。しかし極論を言えば、これは実際上、「日米独」の時代であったと言っても過言ではない。先進国市場で自動車、機械工業、化学工業の分野での供給側の主役は何と言っても日米独なのであって、英仏の産業は決してその地位にはない。また欧州を需要側の市場として捉えても、自動車、家電、高級雑貨に至るまで統一後のドイツ市場は仏・英・伊とは大きく差をつけてのダントツの成熟した最重要市場でもあるのだ。
しかし、そのドイツも二度の敗戦を経験することで戦後は欧州各国、特にフランスには常におおいなる「気配り」をするという処世術をしっかりと身につけている。そうした気配りが出来るのもフランスには経済力・技術力では到底追いつかれないという大いなる自信というものがあるのは言うまでもない。その自信があってこそ、フランスが国をあげて原発開発・推進をする中での、ドイツによる脱原発への真逆の「方向転換」である。日本でもドイツは原発推進国のフランスから電力の供給を受けているから「脱原発」政策が取れるのだと言う誤った情報が流されている事がこの本では指摘されている。実際はドイツからフランスへのエネルギー供給の方がフランスからドイツへのそれを上回っているのだ。まさにドイツの圧倒的な国力を知る者であれば、これまた充分納得の出来る話だ。
第二の部分の「脱原発に踏み切らせた背景・経緯」こそ、この著書の中で最も注目すべき点だ。戦後米国がその主導的な地位にあるロケットと核兵器の近代兵器の技術はいずれももともとドイツ人が発明・開発したものである。それが現在では大量殺戮兵器として世界規模で利用されるに至っているという事への原罪意識の様なものがドイツ人エリート層にあるというのは充分理解出来る事でもある。ドイツも日本と同様、核兵器は製造も保有もせず自己抑制的である。
更にこれらの点に私なりに付け加えさせて頂けるとするなら、ドイツ人の持つ「清潔感」というものが環境保護や脱原発といった動きの根底にあるのではないかと思う事である。具体例をニ三挙げれば、日本人駐在員の奥様が近所から窓が汚れていると注意されるという話を聞くほど、家々の窓は常に磨かれていてピカピカである事。ドイツ人ビジネスマンと長時間の会議でもしようとなると、休憩時には窓を開けて直接外気を取り込むという換気には充分気をつけねばならないという事。またドイツでは電子レンジの人体に及ぼす影響が判らないということで長らく普及していない事。ドイツの地方を旅行して、どんな安宿でもシワひとつないシーツと磨かれて清潔なバスルームが用意されている事、などなどだ。
3.11の震災後、福島原発からの放射能漏れの危険性が判るやいなや、横浜にあるドイツ人学校の生徒が数回に分かれて4日後の翌週の火曜日までには全員がチャーター便で本国ドイツに帰国、避難したという事実は我々には驚きであった。しかし、今から思えば震災後の日本政府首脳の対応が「人災」だと指摘される中で、実はドイツ政府の迅速かつ周到に準備されてきた「危機管理」対応が正しいものであったという事が判ってきたのである。
ドイツ人と日本人の共通点、それは勤勉、質素、努力、向上心といった「実直さ」というものであろう。しかし、違う点もある、それはドイツが欧州大陸の中心にある関係から、政治的には極めて「したたかである」ことだ。ドイツはもとより EU と NATOという共同体の一員であり、周辺諸国とは地続きであり、また歴史・文化・伝統にも共通するものがある。それがゆえにそのしたたかさというものが充分醸成されていて、例えば冷戦中であってもドイツはロシアからの天然ガスの安定供給を密かに交渉したり、また東西ドイツの統一に向けては英仏両国からの警戒と牽制を巧みにかわして、共同体の一員である事を優先させるという政治的に大なる決断をしているのだ。
日本の政治が混迷する中で、環境保護にはじまり、首都機能分散、更にはこの脱原発問題という問題を通しても、国のあり方はいかにあるべきかという面で日本がドイツから学ぶべきものはまだまだ多い。
2011年8月16日火曜日
政治のリーダーシップ
現在、日米両国でリーダー選びの選挙戦への動きが活発化している。と言っても、米国はまだ1年以上先の来年11月の大統領選挙に向けての共和党内の候補者選びの闘いであり、一方日本ではたった1ヶ月先の来月9月に予定される民主党代表選挙である。
そうした中で、今回の連邦政府の債務残高上限切り上げ問題では、米国政治システムの様々な実態を我々に見せつけてくれた。
まず、第一点は大統領と議会の与野党との関係である。日本の様な議院内閣制では与党は政権の首班である首相を一体となって支えるのであるが、米国では国民から(事実上)直接選ばれた政権首班である大統領が議会からはより独立した力を与えられていて、必ずしも議会の与党首脳部とても大統領と一体ではないという事である。
事実、今回の債務上限切り上げ問題での下院の議決では民主党議員の間では表決が賛成 95、反対 95、棄権 3と真二つに割れる結果となっている。この点は重要法案の採決にあたっては表が割れない様に党議拘束をかけ、造反者には罰則が別途決められるという日本の議会では全くあり得ない光景である。
第二点は、上院内では民主・共和のそれぞれの院内総務(与党majority leader と 野党minority leader)が代表を務め、一方下院では多数党から議長(House Speaker)で選ばれるものの、やはりそれぞれ majority leader と minority leaderというまとめ役が存在する。要は、日本の与野党の様に党幹事長や党国対委員長が実質的に衆参両院全てを横断的に取り仕切るという事ではないのである。
従って、今回の問題では大統領の主たる交渉相手は野党共和党が多数を占める下院議長のベイナー議長となった。この場合、下院議長の立場は日本の衆参両院の議長の様に党籍を離れての中立的なものではなく、実質的には野党側での代表的な立場となった。つまり野党側(共和党)では日本の野党である自民党の総裁の様な上下両院を通じての党を代表するリーダーは存在しないという事である。
第三点は、何と言っても大統領の veto、拒否権である。例え上下両院揃っての法案可決となっても大統領の賛成がなければ法案は法律として有効なものとはならないという一方的な特権が大統領にある点である。この拒否権を覆すには上下両院での 2/3以上の多数による再可決が必要であり、実質的には相当高いハードルが設定されている。
以上の通りの教科書的な三点が大統領と議会の緊張関係をもたらしているのであり、そうなれば大統領職というものはそもそも政治家としてよほどのリーダーシップの素質と能力を備えていなければ務まらない役割であろう。しかし、そういう制度に支えられている米国でさえ、英エコノミスト誌の7月31日版でTurning Japanese、「欧米の日本化」と皮肉られている様に欧米でのリーダーシップの欠如がまるで日本政治の様であると指摘されている。つまり更なる財政問題悪化が懸念される欧米でも選挙民の目を気にして、政治家は問題の先送りで更に問題を悪化させてきていると指摘しているのだ。
事実、Gallupによる大統領支持率調査の最新の結果では、オバマ大統領の就任後でははじめて40%を切って39%となり、不支持率も52%となった。大統領就任時の 2009年2月には民主党支持層の 9割、中間派の6割、共和党支持層でさえも 4割がオバマ大統領の Yes, You can と Changeの掛け声のもとにそのリーダーシップに大いに期待して、全体では 7割近い支持率を示したものであった。現在の4割という支持率の内訳は、民主党支持層の8割、中間派での 3割、共和党支持層での 1割となっており、やはり中間派の支持率落ち込みが顕著である。
さて、日本でも首相公選制が叫ばれた事があったが、単に国民が総理大臣を直接選挙で選ぶという制度そのものもさることながら、リーダーシップの創出には首相の地位の独立性と与野党との緊張関係をいかに作り上げるかにもそのヒントがある。実はそうした緊張関係というもが日本型合意形成システムにはなじまないのではないかとの意見も出かねないが、そういう考えは政治における精神的な堕落腐敗であろう。日本国内においても都道府県知事の立場が大統領に近いものである事を忘れてはならない。その典型である大阪府の橋下知事と議会との厳しい緊張関係の例からも、学び取れるものが多々あるのだ。
「今こそ政治に真のリーダーシップが求められる」、我々はこの言葉を何度となく目にしてきた。政治家が国民に向けてそのリーダーシップを示すのに必要なものはまずは Messageと Passionであろう。またその messageと passionというものは厳しい緊張関係を強いられる政治の場においてこそ自ずと醸成されるものであろう。最早、政権交代当時のマニュフェストを打ち消す事で自民党との対立軸を見出せず、ただただ大連立に頼る民主党代表選の候補者に一体いかなる messageとpassionを読み取る事が出来るのであろうか。
そうした中で、今回の連邦政府の債務残高上限切り上げ問題では、米国政治システムの様々な実態を我々に見せつけてくれた。
まず、第一点は大統領と議会の与野党との関係である。日本の様な議院内閣制では与党は政権の首班である首相を一体となって支えるのであるが、米国では国民から(事実上)直接選ばれた政権首班である大統領が議会からはより独立した力を与えられていて、必ずしも議会の与党首脳部とても大統領と一体ではないという事である。
事実、今回の債務上限切り上げ問題での下院の議決では民主党議員の間では表決が賛成 95、反対 95、棄権 3と真二つに割れる結果となっている。この点は重要法案の採決にあたっては表が割れない様に党議拘束をかけ、造反者には罰則が別途決められるという日本の議会では全くあり得ない光景である。
第二点は、上院内では民主・共和のそれぞれの院内総務(与党majority leader と 野党minority leader)が代表を務め、一方下院では多数党から議長(House Speaker)で選ばれるものの、やはりそれぞれ majority leader と minority leaderというまとめ役が存在する。要は、日本の与野党の様に党幹事長や党国対委員長が実質的に衆参両院全てを横断的に取り仕切るという事ではないのである。
従って、今回の問題では大統領の主たる交渉相手は野党共和党が多数を占める下院議長のベイナー議長となった。この場合、下院議長の立場は日本の衆参両院の議長の様に党籍を離れての中立的なものではなく、実質的には野党側での代表的な立場となった。つまり野党側(共和党)では日本の野党である自民党の総裁の様な上下両院を通じての党を代表するリーダーは存在しないという事である。
第三点は、何と言っても大統領の veto、拒否権である。例え上下両院揃っての法案可決となっても大統領の賛成がなければ法案は法律として有効なものとはならないという一方的な特権が大統領にある点である。この拒否権を覆すには上下両院での 2/3以上の多数による再可決が必要であり、実質的には相当高いハードルが設定されている。
以上の通りの教科書的な三点が大統領と議会の緊張関係をもたらしているのであり、そうなれば大統領職というものはそもそも政治家としてよほどのリーダーシップの素質と能力を備えていなければ務まらない役割であろう。しかし、そういう制度に支えられている米国でさえ、英エコノミスト誌の7月31日版でTurning Japanese、「欧米の日本化」と皮肉られている様に欧米でのリーダーシップの欠如がまるで日本政治の様であると指摘されている。つまり更なる財政問題悪化が懸念される欧米でも選挙民の目を気にして、政治家は問題の先送りで更に問題を悪化させてきていると指摘しているのだ。
事実、Gallupによる大統領支持率調査の最新の結果では、オバマ大統領の就任後でははじめて40%を切って39%となり、不支持率も52%となった。大統領就任時の 2009年2月には民主党支持層の 9割、中間派の6割、共和党支持層でさえも 4割がオバマ大統領の Yes, You can と Changeの掛け声のもとにそのリーダーシップに大いに期待して、全体では 7割近い支持率を示したものであった。現在の4割という支持率の内訳は、民主党支持層の8割、中間派での 3割、共和党支持層での 1割となっており、やはり中間派の支持率落ち込みが顕著である。
さて、日本でも首相公選制が叫ばれた事があったが、単に国民が総理大臣を直接選挙で選ぶという制度そのものもさることながら、リーダーシップの創出には首相の地位の独立性と与野党との緊張関係をいかに作り上げるかにもそのヒントがある。実はそうした緊張関係というもが日本型合意形成システムにはなじまないのではないかとの意見も出かねないが、そういう考えは政治における精神的な堕落腐敗であろう。日本国内においても都道府県知事の立場が大統領に近いものである事を忘れてはならない。その典型である大阪府の橋下知事と議会との厳しい緊張関係の例からも、学び取れるものが多々あるのだ。
「今こそ政治に真のリーダーシップが求められる」、我々はこの言葉を何度となく目にしてきた。政治家が国民に向けてそのリーダーシップを示すのに必要なものはまずは Messageと Passionであろう。またその messageと passionというものは厳しい緊張関係を強いられる政治の場においてこそ自ずと醸成されるものであろう。最早、政権交代当時のマニュフェストを打ち消す事で自民党との対立軸を見出せず、ただただ大連立に頼る民主党代表選の候補者に一体いかなる messageとpassionを読み取る事が出来るのであろうか。
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