ドイツ人の身の丈に合った暮らしぶりという視点では、その原点はやはり日本人と共通する「自然に対する敬い、親しみ」というものがある。ドイツは言うまでもなくキリスト教国である。おおまかに言ってカトリックとプロテスタントが半々であろう。しかし、そのドイツ人の心の奥深くに眠るゲルマン精神はむしろ多神教から来るものであろう。例えばあのワグナーの楽劇では「神々の黄昏」に代表される様に神々、即ち複数の神々を描いているのである。ワグナーの楽劇は同じオペラの形式でもイタリア歌劇と違って、森深くや岩山といったものの自然が舞台装置だ。また本来、欧州のキリスト教国でも例えばギリシャ神話、アイルランドのケルト神話、北欧神話などむしろ多神教の方が自然発生的で多数派である。
一方、日本の稲作農業は天候や水といった自然に左右される事が多いので、植物・動物の自然を支配せんとする小麦農業や牧畜業とは違った「自然への敬い」の宗教観が醸成されたとされている。日本のある有名な仏教哲学者が「ものつくり大学」を提唱し、初代総長になった事は興味深いものがある。というのも、日本人のモノ作り文化というものには、職人、作業員達自らが作る製品そのものをまるで仏像や神様に対するがごとく本当に大切に扱ってきている精神が基本にあるからだ。製品というのは種種雑多であり、その一つ一つがモノ作り従事者にとって仏像、神様のごとき「魂を入れて作るもの」であれば、それはまさに多神教の世界以外の何物でもない。
もう一つ日本人の精神性を表す逸話がある。この米国の大リーグでも活躍した野球の新庄剛志選手は日米を通しての現役時代に、一貫して新人の時に 7,500円で購入したグラブを使い通した事である。それもその古いぼろぼろのグラブに補修に補修を重ね、引退の日までの 20年近い期間に使い通したのである。あの派手なプレーとパフォーマンスぶりの新庄選手にでさえ、ものを大切にするという日本人の精神が貫かれていたのだ。スポーツの本場の米国ではゴルフの一流選手でさえ、ミスショットの後はクラブを叩きつける(へし折る選手もいる)投げつけるなど野蛮な振る舞いが普通だ。米国人にとってのモノは所詮使い捨てなのである。
こうした違いを我々は今一度はっきりと認識しておく必要があるだろう。工業先進国の中で際立つドイツの「脱原発」の動きにも、実は「自然を敬う」というゲルマン精神に根ざしたものがあるのであろう。もう30-40年も前から活動してきているドイツの環境保護運動の政党はその名も「緑の党」 Die Grünenである。緑、即ち木々の緑の森や林は日本人にとっての鎮守の森に等しい大切で貴重なものなのである。またドイツ人にとって最も身近で日常的な運動は spazieren (散歩する)である。郊外の森の中の散歩道を一人思いにふけりながら、あるいは愛犬と、家族、恋人、友人と静かに会話をしながらひたすら静かに歩くのである。
一方、ドイツ人が心から軽蔑し、深くため息をつくのは彼らがグランドキャニオンを訪れる際に泊まるラスベガスの光景である。これほど全てが人工的なもの、偽物、虚飾の街を作る米国人とはいかなる哲学を持つ国民なのであるかと。その米国が全てだと言わんばかりに留学で、ビジネスで学んだ米国式を盲目的に崇拝し、政治的には隷属姿勢を示し続けてきた日本人は、本来精神性に共通のものを持つドイツ人の様に米国との距離を一定に保つべく、今こそ覚醒すべき時であろう。
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