ドイツ人の身の丈に合った暮らしぶりという視点では、その原点はやはり日本人と共通する「自然に対する敬い、親しみ」というものがある。ドイツは言うまでもなくキリスト教国である。おおまかに言ってカトリックとプロテスタントが半々であろう。しかし、そのドイツ人の心の奥深くに眠るゲルマン精神はむしろ多神教から来るものであろう。例えばあのワグナーの楽劇では「神々の黄昏」に代表される様に神々、即ち複数の神々を描いているのである。ワグナーの楽劇は同じオペラの形式でもイタリア歌劇と違って、森深くや岩山といったものの自然が舞台装置だ。また本来、欧州のキリスト教国でも例えばギリシャ神話、アイルランドのケルト神話、北欧神話などむしろ多神教の方が自然発生的で多数派である。
一方、日本の稲作農業は天候や水といった自然に左右される事が多いので、植物・動物の自然を支配せんとする小麦農業や牧畜業とは違った「自然への敬い」の宗教観が醸成されたとされている。日本のある有名な仏教哲学者が「ものつくり大学」を提唱し、初代総長になった事は興味深いものがある。というのも、日本人のモノ作り文化というものには、職人、作業員達自らが作る製品そのものをまるで仏像や神様に対するがごとく本当に大切に扱ってきている精神が基本にあるからだ。製品というのは種種雑多であり、その一つ一つがモノ作り従事者にとって仏像、神様のごとき「魂を入れて作るもの」であれば、それはまさに多神教の世界以外の何物でもない。
もう一つ日本人の精神性を表す逸話がある。この米国の大リーグでも活躍した野球の新庄剛志選手は日米を通しての現役時代に、一貫して新人の時に 7,500円で購入したグラブを使い通した事である。それもその古いぼろぼろのグラブに補修に補修を重ね、引退の日までの 20年近い期間に使い通したのである。あの派手なプレーとパフォーマンスぶりの新庄選手にでさえ、ものを大切にするという日本人の精神が貫かれていたのだ。スポーツの本場の米国ではゴルフの一流選手でさえ、ミスショットの後はクラブを叩きつける(へし折る選手もいる)投げつけるなど野蛮な振る舞いが普通だ。米国人にとってのモノは所詮使い捨てなのである。
こうした違いを我々は今一度はっきりと認識しておく必要があるだろう。工業先進国の中で際立つドイツの「脱原発」の動きにも、実は「自然を敬う」というゲルマン精神に根ざしたものがあるのであろう。もう30-40年も前から活動してきているドイツの環境保護運動の政党はその名も「緑の党」 Die Grünenである。緑、即ち木々の緑の森や林は日本人にとっての鎮守の森に等しい大切で貴重なものなのである。またドイツ人にとって最も身近で日常的な運動は spazieren (散歩する)である。郊外の森の中の散歩道を一人思いにふけりながら、あるいは愛犬と、家族、恋人、友人と静かに会話をしながらひたすら静かに歩くのである。
一方、ドイツ人が心から軽蔑し、深くため息をつくのは彼らがグランドキャニオンを訪れる際に泊まるラスベガスの光景である。これほど全てが人工的なもの、偽物、虚飾の街を作る米国人とはいかなる哲学を持つ国民なのであるかと。その米国が全てだと言わんばかりに留学で、ビジネスで学んだ米国式を盲目的に崇拝し、政治的には隷属姿勢を示し続けてきた日本人は、本来精神性に共通のものを持つドイツ人の様に米国との距離を一定に保つべく、今こそ覚醒すべき時であろう。
2011年11月29日火曜日
2011年11月25日金曜日
ドイツいじめ
孝子様、「言いたい放談」拝見しました。全く同感です。
ドイツ人にとって「あんただけには言われたくない」と言いたくなるのが英国の論調です。英誌、エコノミストあたりでもECBによるユーロ共通債にドイツが反対姿勢を示している事に対して、「ドイツ厳格主義が欧州統合を潰してしまう」と批判しています。一体自国の都合でユーロに参加さえしていない英国に欧州統合に向けあらゆる努力をしてきているドイツを批判する資格があるのかと。ここで ECBが安易に財務問題を抱える国に共通の資金を大量につぎ込む事になれば、そういった国は本来財政規律を厳格化して、自らが「自律と自立」に向かう様な努力をすべきであるところ、これを怠ってますます事態を悪化させるのは眼に見えています。
そもそもドイツは落日の英国と違って、経済力と技術力、市場の大きさと成熟度では欧州域内では圧倒的です。これが現在のギリシャ、スペイン、イタリア問題で象徴される財政危機にあたってのドイツの存在感に出ています。そのドイツの圧倒的な国力をもたらす源泉には日本と共通するものがあります。「勤勉、努力、向上心」というものを基礎に、「誠実、正直、几帳面」という国民性、何よりも「自然に親しみ、身の丈にあった暮らし」というものがあります。もうひとつは先日のブータン国王の国会での演説の中にもあった「規律」、これこそが両国に共通するものでもあります。ドイツもこの規律を重視するからこそ、それに対して厳格な姿勢でのぞむのです。
また、日独両国は英米のいわゆるアングロサクソン系と違い、決して「カジノ資本主義」には走らないという点でも共通です。英国はご存知の通り、今や自動車も家電製品もIT機器も外資は別として自国では全く作れない技術力なき後進国です。国民が勤勉ではなくなると経済が低迷し、財政悪化につながっているという基本構造ではイギリスもギリシャと何ら変わりません。財政悪化の結果、過度の民営化によってロンドンは観光客にとっても一目で判る様な情けない姿となっているのです。例えば、旧ロンドン市庁舎を日本の不動産業者に売却した為に議事堂対岸には景観を損なう醜く巨大な観覧車の塔が設置されて遊園地化し、バッキンガム宮殿が今やロイヤルグッズを販売する土産物屋化し、ロンドン市内西部にできた欧州最大のショッピングモールの客の大半は中東系で埋め尽くされているという状態です。
先日、米国の大手銀行のセミナーでエコノミストの人が「ギリシャでは 58歳で年金がもらえ(55歳とも言われている)、富裕層は脱税に走り、政府は財政数字をごまかす」「そこまでいい加減であればギリシャは自業自得、救済してもらうならばその見返りに独仏には彼らの休暇先として人気のクレタ島あたりを差し出せ」などとの金融界での冗談話を紹介していましたが、笑い話ながらもついつい頷いてしまいました。
これが企業であれば倒産と言う事ですから、どこかの企業に合併されるか吸収されてしまうという事につながります。何故、国家であれば生き残る事が出来るのであろうかと。実際に敗戦国であるドイツや日本などは領土の一部を奪い取られているではないですか。まずは独立主権国家であれば、国民に負担を強いて財政規律を立て直す事が先決であり、そういう努力を政府がリーダーシップで示していくのがごく当たり前の話です。あの金融危機の際の韓国で国民が自主的に金の製品を拠出したなどという精神は全くないのです。
ドイツ人にとって「あんただけには言われたくない」と言いたくなるのが英国の論調です。英誌、エコノミストあたりでもECBによるユーロ共通債にドイツが反対姿勢を示している事に対して、「ドイツ厳格主義が欧州統合を潰してしまう」と批判しています。一体自国の都合でユーロに参加さえしていない英国に欧州統合に向けあらゆる努力をしてきているドイツを批判する資格があるのかと。ここで ECBが安易に財務問題を抱える国に共通の資金を大量につぎ込む事になれば、そういった国は本来財政規律を厳格化して、自らが「自律と自立」に向かう様な努力をすべきであるところ、これを怠ってますます事態を悪化させるのは眼に見えています。
そもそもドイツは落日の英国と違って、経済力と技術力、市場の大きさと成熟度では欧州域内では圧倒的です。これが現在のギリシャ、スペイン、イタリア問題で象徴される財政危機にあたってのドイツの存在感に出ています。そのドイツの圧倒的な国力をもたらす源泉には日本と共通するものがあります。「勤勉、努力、向上心」というものを基礎に、「誠実、正直、几帳面」という国民性、何よりも「自然に親しみ、身の丈にあった暮らし」というものがあります。もうひとつは先日のブータン国王の国会での演説の中にもあった「規律」、これこそが両国に共通するものでもあります。ドイツもこの規律を重視するからこそ、それに対して厳格な姿勢でのぞむのです。
また、日独両国は英米のいわゆるアングロサクソン系と違い、決して「カジノ資本主義」には走らないという点でも共通です。英国はご存知の通り、今や自動車も家電製品もIT機器も外資は別として自国では全く作れない技術力なき後進国です。国民が勤勉ではなくなると経済が低迷し、財政悪化につながっているという基本構造ではイギリスもギリシャと何ら変わりません。財政悪化の結果、過度の民営化によってロンドンは観光客にとっても一目で判る様な情けない姿となっているのです。例えば、旧ロンドン市庁舎を日本の不動産業者に売却した為に議事堂対岸には景観を損なう醜く巨大な観覧車の塔が設置されて遊園地化し、バッキンガム宮殿が今やロイヤルグッズを販売する土産物屋化し、ロンドン市内西部にできた欧州最大のショッピングモールの客の大半は中東系で埋め尽くされているという状態です。
先日、米国の大手銀行のセミナーでエコノミストの人が「ギリシャでは 58歳で年金がもらえ(55歳とも言われている)、富裕層は脱税に走り、政府は財政数字をごまかす」「そこまでいい加減であればギリシャは自業自得、救済してもらうならばその見返りに独仏には彼らの休暇先として人気のクレタ島あたりを差し出せ」などとの金融界での冗談話を紹介していましたが、笑い話ながらもついつい頷いてしまいました。
これが企業であれば倒産と言う事ですから、どこかの企業に合併されるか吸収されてしまうという事につながります。何故、国家であれば生き残る事が出来るのであろうかと。実際に敗戦国であるドイツや日本などは領土の一部を奪い取られているではないですか。まずは独立主権国家であれば、国民に負担を強いて財政規律を立て直す事が先決であり、そういう努力を政府がリーダーシップで示していくのがごく当たり前の話です。あの金融危機の際の韓国で国民が自主的に金の製品を拠出したなどという精神は全くないのです。
2011年11月1日火曜日
「脱原発」に関するクライン孝子さんの新著
ドイツ政府があらためて脱原発の方向性を打ち出した事が注目されているが、そこに至る背景や環境といったものが詳しく説明された書評は日本では意外と少ない。そんな中で在独 42年になるというクライン孝子さんの新著「なぜドイツは脱原発、世界は増原発なのか。迷走する日本の原発の謎」は極めて明解であり、また時期を得たものである。というのも、現在この脱原発問題のみならず、ギリシャの財政危機問題がユーロ圏全体の経済危機へと発展するのではと危惧される中で、EU全体に於けるドイツの自己抑制的で主導的な役割が一段とあきらかになってきているからだ。
この著書の中での中核は、第4章「ドイツの脱原発事情」と第 7章の「何がドイツを脱原発に踏み切らせたか」の、この二つの部分にあると思う。最初の「脱原発事情」の部分では、何よりもドイツが欧州全体で経済的、科学技術的には圧倒的な地位にあり、そこからの「自信」が脱原発という新たな方向へと歩ませているという点がまず指摘されている。実際にその科学的な成果としてもこの著書での資料によるとドイツでは太陽光、風力、バイオマスの自然エネルギー源の割合は既に全体の14%(日本は1%)を占めるに至っているのである。
日本人でも実際に欧州に住んでビジネスの経験でもしない限り、欧州域内での圧倒的なドイツの国力というものはなかなか実感できないかも知れない。近年アジアを中心とする新興国が急成長でその存在感を示すまでの先進国経済は「日米欧」の時代だと言われた。しかし極論を言えば、これは実際上、「日米独」の時代であったと言っても過言ではない。先進国市場で自動車、機械工業、化学工業の分野での供給側の主役は何と言っても日米独なのであって、英仏の産業は決してその地位にはない。また欧州を需要側の市場として捉えても、自動車、家電、高級雑貨に至るまで統一後のドイツ市場は仏・英・伊とは大きく差をつけてのダントツの成熟した最重要市場でもあるのだ。
しかし、そのドイツも二度の敗戦を経験することで戦後は欧州各国、特にフランスには常におおいなる「気配り」をするという処世術をしっかりと身につけている。そうした気配りが出来るのもフランスには経済力・技術力では到底追いつかれないという大いなる自信というものがあるのは言うまでもない。その自信があってこそ、フランスが国をあげて原発開発・推進をする中での、ドイツによる脱原発への真逆の「方向転換」である。日本でもドイツは原発推進国のフランスから電力の供給を受けているから「脱原発」政策が取れるのだと言う誤った情報が流されている事がこの本では指摘されている。実際はドイツからフランスへのエネルギー供給の方がフランスからドイツへのそれを上回っているのだ。まさにドイツの圧倒的な国力を知る者であれば、これまた充分納得の出来る話だ。
第二の部分の「脱原発に踏み切らせた背景・経緯」こそ、この著書の中で最も注目すべき点だ。戦後米国がその主導的な地位にあるロケットと核兵器の近代兵器の技術はいずれももともとドイツ人が発明・開発したものである。それが現在では大量殺戮兵器として世界規模で利用されるに至っているという事への原罪意識の様なものがドイツ人エリート層にあるというのは充分理解出来る事でもある。ドイツも日本と同様、核兵器は製造も保有もせず自己抑制的である。
更にこれらの点に私なりに付け加えさせて頂けるとするなら、ドイツ人の持つ「清潔感」というものが環境保護や脱原発といった動きの根底にあるのではないかと思う事である。具体例をニ三挙げれば、日本人駐在員の奥様が近所から窓が汚れていると注意されるという話を聞くほど、家々の窓は常に磨かれていてピカピカである事。ドイツ人ビジネスマンと長時間の会議でもしようとなると、休憩時には窓を開けて直接外気を取り込むという換気には充分気をつけねばならないという事。またドイツでは電子レンジの人体に及ぼす影響が判らないということで長らく普及していない事。ドイツの地方を旅行して、どんな安宿でもシワひとつないシーツと磨かれて清潔なバスルームが用意されている事、などなどだ。
3.11の震災後、福島原発からの放射能漏れの危険性が判るやいなや、横浜にあるドイツ人学校の生徒が数回に分かれて4日後の翌週の火曜日までには全員がチャーター便で本国ドイツに帰国、避難したという事実は我々には驚きであった。しかし、今から思えば震災後の日本政府首脳の対応が「人災」だと指摘される中で、実はドイツ政府の迅速かつ周到に準備されてきた「危機管理」対応が正しいものであったという事が判ってきたのである。
ドイツ人と日本人の共通点、それは勤勉、質素、努力、向上心といった「実直さ」というものであろう。しかし、違う点もある、それはドイツが欧州大陸の中心にある関係から、政治的には極めて「したたかである」ことだ。ドイツはもとより EU と NATOという共同体の一員であり、周辺諸国とは地続きであり、また歴史・文化・伝統にも共通するものがある。それがゆえにそのしたたかさというものが充分醸成されていて、例えば冷戦中であってもドイツはロシアからの天然ガスの安定供給を密かに交渉したり、また東西ドイツの統一に向けては英仏両国からの警戒と牽制を巧みにかわして、共同体の一員である事を優先させるという政治的に大なる決断をしているのだ。
日本の政治が混迷する中で、環境保護にはじまり、首都機能分散、更にはこの脱原発問題という問題を通しても、国のあり方はいかにあるべきかという面で日本がドイツから学ぶべきものはまだまだ多い。
この著書の中での中核は、第4章「ドイツの脱原発事情」と第 7章の「何がドイツを脱原発に踏み切らせたか」の、この二つの部分にあると思う。最初の「脱原発事情」の部分では、何よりもドイツが欧州全体で経済的、科学技術的には圧倒的な地位にあり、そこからの「自信」が脱原発という新たな方向へと歩ませているという点がまず指摘されている。実際にその科学的な成果としてもこの著書での資料によるとドイツでは太陽光、風力、バイオマスの自然エネルギー源の割合は既に全体の14%(日本は1%)を占めるに至っているのである。
日本人でも実際に欧州に住んでビジネスの経験でもしない限り、欧州域内での圧倒的なドイツの国力というものはなかなか実感できないかも知れない。近年アジアを中心とする新興国が急成長でその存在感を示すまでの先進国経済は「日米欧」の時代だと言われた。しかし極論を言えば、これは実際上、「日米独」の時代であったと言っても過言ではない。先進国市場で自動車、機械工業、化学工業の分野での供給側の主役は何と言っても日米独なのであって、英仏の産業は決してその地位にはない。また欧州を需要側の市場として捉えても、自動車、家電、高級雑貨に至るまで統一後のドイツ市場は仏・英・伊とは大きく差をつけてのダントツの成熟した最重要市場でもあるのだ。
しかし、そのドイツも二度の敗戦を経験することで戦後は欧州各国、特にフランスには常におおいなる「気配り」をするという処世術をしっかりと身につけている。そうした気配りが出来るのもフランスには経済力・技術力では到底追いつかれないという大いなる自信というものがあるのは言うまでもない。その自信があってこそ、フランスが国をあげて原発開発・推進をする中での、ドイツによる脱原発への真逆の「方向転換」である。日本でもドイツは原発推進国のフランスから電力の供給を受けているから「脱原発」政策が取れるのだと言う誤った情報が流されている事がこの本では指摘されている。実際はドイツからフランスへのエネルギー供給の方がフランスからドイツへのそれを上回っているのだ。まさにドイツの圧倒的な国力を知る者であれば、これまた充分納得の出来る話だ。
第二の部分の「脱原発に踏み切らせた背景・経緯」こそ、この著書の中で最も注目すべき点だ。戦後米国がその主導的な地位にあるロケットと核兵器の近代兵器の技術はいずれももともとドイツ人が発明・開発したものである。それが現在では大量殺戮兵器として世界規模で利用されるに至っているという事への原罪意識の様なものがドイツ人エリート層にあるというのは充分理解出来る事でもある。ドイツも日本と同様、核兵器は製造も保有もせず自己抑制的である。
更にこれらの点に私なりに付け加えさせて頂けるとするなら、ドイツ人の持つ「清潔感」というものが環境保護や脱原発といった動きの根底にあるのではないかと思う事である。具体例をニ三挙げれば、日本人駐在員の奥様が近所から窓が汚れていると注意されるという話を聞くほど、家々の窓は常に磨かれていてピカピカである事。ドイツ人ビジネスマンと長時間の会議でもしようとなると、休憩時には窓を開けて直接外気を取り込むという換気には充分気をつけねばならないという事。またドイツでは電子レンジの人体に及ぼす影響が判らないということで長らく普及していない事。ドイツの地方を旅行して、どんな安宿でもシワひとつないシーツと磨かれて清潔なバスルームが用意されている事、などなどだ。
3.11の震災後、福島原発からの放射能漏れの危険性が判るやいなや、横浜にあるドイツ人学校の生徒が数回に分かれて4日後の翌週の火曜日までには全員がチャーター便で本国ドイツに帰国、避難したという事実は我々には驚きであった。しかし、今から思えば震災後の日本政府首脳の対応が「人災」だと指摘される中で、実はドイツ政府の迅速かつ周到に準備されてきた「危機管理」対応が正しいものであったという事が判ってきたのである。
ドイツ人と日本人の共通点、それは勤勉、質素、努力、向上心といった「実直さ」というものであろう。しかし、違う点もある、それはドイツが欧州大陸の中心にある関係から、政治的には極めて「したたかである」ことだ。ドイツはもとより EU と NATOという共同体の一員であり、周辺諸国とは地続きであり、また歴史・文化・伝統にも共通するものがある。それがゆえにそのしたたかさというものが充分醸成されていて、例えば冷戦中であってもドイツはロシアからの天然ガスの安定供給を密かに交渉したり、また東西ドイツの統一に向けては英仏両国からの警戒と牽制を巧みにかわして、共同体の一員である事を優先させるという政治的に大なる決断をしているのだ。
日本の政治が混迷する中で、環境保護にはじまり、首都機能分散、更にはこの脱原発問題という問題を通しても、国のあり方はいかにあるべきかという面で日本がドイツから学ぶべきものはまだまだ多い。
2011年4月28日木曜日
あらためてドイツとは
今まで数回にわたり教科書のごとくドイツの歴史を駆け足で触れて来たのは国会での馬鹿げた「日独友好決議」なるものがあったのが発端だ。この決議の根底には、ドイツと言う国は軍事国家一筋であり、好戦的で周辺国に侵略ばかりを続けて来たという誤った解釈があるからに違いないと感じ取ったからだ。今回、衆議院での決議の際に退席し、反対した議員の見識を高く評価する。
「勢力均衡による平和」「列強時代に学ぶ」「神聖ローマ帝国」と一貫して触れてきているのは、ドイツの歴史は陸続きの欧州で周辺にフランス、イギリス、ドイツという絶対王政、専制君主の中央集権国家に囲まれて、それらの国々と食うや食わずの生残り競争を続けて来たという背景がある事をまず理解すべきだと思うからだ。そもそもドイツは神聖ローマ帝国の様に皇帝自体が勅書でもって選挙で選ばれると規定された様な存在であったから、地方分権のまことに緩やかな牧歌的な統治形態であったかと言えよう。
侵略という言葉を使うなら、その度数と面積を計算すれば、世界での侵略チャンピオンはイギリスとフランスであろう。それでは日英友好決議なるものがあれば、わざわざ「お互い中国に侵略しました」などと書き込むのであろうか。ドイツは欧州諸国の中で海外での植民地は圧倒的に少ないではないか。
ナチス政権によるポーランド侵攻をとっても、プロイセンとその後のドイツ帝国が戦勝の結果正当に獲得した領土を第一次大戦の敗戦で失い、それをまた取り返しただけの話である。それを単に侵略という言葉で片付けてしまうと、それ以前の歴史を黙殺してしまう事となる。また同時に、英国を除く欧州諸国は日本と違って陸続きである。従って、常に他国に侵略されるか、あるいは侵略するかの繰返しでもあったのだ。
現在フランス南東部のアルザス地方などは何回ドイツ領とフランス領の間をいったりきたり繰り返した事か。つまりは侵略しないと侵略されてしまうというのが現実であったのだ。ドイツとてやたら周辺諸国と戦争ばかりしていたのではなく、戦争を極力避けるべく、あらゆる「外交努力と策略と同盟」をやり尽くしたという事実を忘れてはならない。
ただ一点の大きな汚点はヒトラーのナチス政権でのユダヤ人大量虐殺である。これはもう言い訳のきかない、原爆投下に等しいまさに人類に対する罪であろう。しかし、このナチス政権の非道だけをとってドイツと言う国があたかも好戦的な歴史を繰り返して来たと理解するのは誤りだ。そう理解するのは作られた「軍国日本」のイメージと同様に、戦勝国米国による巧みな「イメージの刷り込み」が功を奏している結果なのだろう。
米国による巧みなイメージの刷り込みという面では、米国に永住している日本人の多くにとって、欧州諸国を見る時の目は米国人の目を通して見たものに影響され易い。しかも悪い事にそういう米国在住の日本人が日本から見れば国際通だという事で通用してしまう事だ。これを例えて言えば、東京の高級フランス料理店で米国在住の国際通の紳士がさも物知り顔でクラムチャウダーをオーダーする様なものだ。また、日本人が欧州にやってきて、あの米国風の発音の英語をさも得意顔で喋るのほど欧州人の軽蔑の対象となるものはない。ドイツ人の同僚達は一応、慇懃に表面上は取り繕っていても、裏に回ればいつもブフッ!だ。
話が随分それてしまったが、ドイツに関してはなかなか言い尽くせないので、あらためてクライン孝子女史の名著「大計なき国家・日本の末路」を是非お薦めする。見出しに書かれている、「戦争で負けて失ったものは、戦争で取り返すしかない」という現実を熟知していたドイツ、この一行が全てを語っている。
「勢力均衡による平和」「列強時代に学ぶ」「神聖ローマ帝国」と一貫して触れてきているのは、ドイツの歴史は陸続きの欧州で周辺にフランス、イギリス、ドイツという絶対王政、専制君主の中央集権国家に囲まれて、それらの国々と食うや食わずの生残り競争を続けて来たという背景がある事をまず理解すべきだと思うからだ。そもそもドイツは神聖ローマ帝国の様に皇帝自体が勅書でもって選挙で選ばれると規定された様な存在であったから、地方分権のまことに緩やかな牧歌的な統治形態であったかと言えよう。
侵略という言葉を使うなら、その度数と面積を計算すれば、世界での侵略チャンピオンはイギリスとフランスであろう。それでは日英友好決議なるものがあれば、わざわざ「お互い中国に侵略しました」などと書き込むのであろうか。ドイツは欧州諸国の中で海外での植民地は圧倒的に少ないではないか。
ナチス政権によるポーランド侵攻をとっても、プロイセンとその後のドイツ帝国が戦勝の結果正当に獲得した領土を第一次大戦の敗戦で失い、それをまた取り返しただけの話である。それを単に侵略という言葉で片付けてしまうと、それ以前の歴史を黙殺してしまう事となる。また同時に、英国を除く欧州諸国は日本と違って陸続きである。従って、常に他国に侵略されるか、あるいは侵略するかの繰返しでもあったのだ。
現在フランス南東部のアルザス地方などは何回ドイツ領とフランス領の間をいったりきたり繰り返した事か。つまりは侵略しないと侵略されてしまうというのが現実であったのだ。ドイツとてやたら周辺諸国と戦争ばかりしていたのではなく、戦争を極力避けるべく、あらゆる「外交努力と策略と同盟」をやり尽くしたという事実を忘れてはならない。
ただ一点の大きな汚点はヒトラーのナチス政権でのユダヤ人大量虐殺である。これはもう言い訳のきかない、原爆投下に等しいまさに人類に対する罪であろう。しかし、このナチス政権の非道だけをとってドイツと言う国があたかも好戦的な歴史を繰り返して来たと理解するのは誤りだ。そう理解するのは作られた「軍国日本」のイメージと同様に、戦勝国米国による巧みな「イメージの刷り込み」が功を奏している結果なのだろう。
米国による巧みなイメージの刷り込みという面では、米国に永住している日本人の多くにとって、欧州諸国を見る時の目は米国人の目を通して見たものに影響され易い。しかも悪い事にそういう米国在住の日本人が日本から見れば国際通だという事で通用してしまう事だ。これを例えて言えば、東京の高級フランス料理店で米国在住の国際通の紳士がさも物知り顔でクラムチャウダーをオーダーする様なものだ。また、日本人が欧州にやってきて、あの米国風の発音の英語をさも得意顔で喋るのほど欧州人の軽蔑の対象となるものはない。ドイツ人の同僚達は一応、慇懃に表面上は取り繕っていても、裏に回ればいつもブフッ!だ。
話が随分それてしまったが、ドイツに関してはなかなか言い尽くせないので、あらためてクライン孝子女史の名著「大計なき国家・日本の末路」を是非お薦めする。見出しに書かれている、「戦争で負けて失ったものは、戦争で取り返すしかない」という現実を熟知していたドイツ、この一行が全てを語っている。
2011年4月27日水曜日
神聖ローマ帝国
ドイツの歴史を学ぶ上でまず最初に戸惑うのは「神聖ローマ帝国」と言う名称だ。ドイツ語では確かにHeiliges Römisches Reichであるからそのままの和訳である。この神聖ローマ帝国は962年のオットー大帝の即位から 1806年のナポレオンのフランスによる征服で解散されるまで実に九百年近くの長きにわたり欧州大陸の中央に君臨するのである。この帝国はローマという仰々しい名前にも拘わらず実態はドイツ人の帝国であった。従って、ヒトラーの時代のドイツを第三帝国と言うのは、この神聖ローマ帝国が第一、1871年のプロイセンによるドイツ帝国が第二という事となる。
そもそもこの帝国は簡単に言えばフランク王国の流れを汲む東フランク王国がその前身と言えよう。フランク王国がライン川とアルプスという地形によって三分割されて、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型となったが、東フランクはそのうちのライン川の東側、アルプスの北側の部分である。しかし当時、北はバイキングのノルマン人、東はフン族のマジャール人の襲来と侵略で、外部異教徒との戦いもあって、帝国はゲルマン人の軍隊指導者を封建領主として征服地をその領地としていったのである。そしてこのゲルマン人の帝国の皇帝は血統ではなく有力領主による選挙により選定される形となっていく。
とは言え、帝国としてのその皇帝の権力はまだまだ脆弱であった為、簡単に言えば、カトリック教会の権威、つまりローマ教皇の伝統と権威を利用したという事だ。これがこの「神聖ローマ」なる仰々しい名前の由来である。この帝国はまた、中央集権的な国家ではなく、領内各地に分散された王国や公国等の領邦によって成立っており、その実態は帝国と言えるものかは、はなはだ疑問である。
この帝国はザクセン朝・ザーリア朝からホーヘンシュタウヘン朝へ、更にはハプスブルグ家にと王朝は事実上、世襲がらみで受け継がれていくが、この帝国の特徴をなんと言っても、ローマ教皇の権威とドイツ諸侯との権力との間における絶妙なバランスにある。つまりイギリスやフランスの様な中央集権的な絶対王政とはまた違った権力構造になっているのである。その一つの表れが、1356年のカール4世時代に出された「金印勅書」である。この勅書は31条からなり、一言で言えば「皇帝の選挙規程」と「帝国議会の法的根拠」を示すものである。そもそもゲルマン人の社会では昔から皇帝さえも選挙で選ぶと言う慣わしがあった事が驚きであり、また皇帝自身が自らの地位を律する勅書を出すと言うのもこの時代の事を思えば極めて近代的な事である。
長い帝国の歴史の詳細は割愛するとして、17世紀に入りこの強固な帝国の存在を大きく揺らがす事態が生じるのである。16世紀のルターによる宗教改革とそれを促進したグーテンベルグによる印刷技術の発明に事の発端を見る事が出来る。従来聖職者が独占的に支配してきたラテン語の聖書のドイツ語版を印刷技術により大量配布する事が可能となって、これが新教徒勢力を作り出したのと同時にドイツ人としての国民意識を芽生えさせたのである。こうなれば帝国はなにもなすすべもなく、ドイツ国内は分裂状態となって諸外国勢力を巻き込んでの30年の宗教戦争となるのだ。後の国民国家の成立へとつながるあの有名なウェストファリア条約(1648年)はこの30年戦争の終結と戦後処理の為に66カ国もが参加し署名した。これにより帝国は形骸化し弱体化して、帝都のあるオーストリアはオスマントルコやナポレオンフランスに侵略されてしまうのである。
こうしてドイツの歴史を見てくると、日本の隣国の大国の事を思わざるを得ない。世界の人口の 1/5を持ち、5年後には米国を抜いて世界一の経済大国になろうとするこの現代の帝国においては、国民の選挙権がない事はおろか、言論の自由も、インターネットを使う自由もない。共産党という一つの政党による古典的、専制的な政治体制が続いている国である。しかもその共産党内部においてでさえ、皇帝たるトップを決める選挙規程も明らかにされていないのであるから、金印勅書が出された14世紀ドイツよりもはるかに遅れているのである。国家財政破綻による落日の米国が東アジアからの軍事的プレゼンスの後退を余儀なくされ、勢力均衡のバランスが大きく崩れて、この大国の「歯止めの利かない暴走」の向かう先がこの日本となるのは目に見えている。もうグーテンベルグの印刷技術に匹敵するインターネットにしか、この暴走を少しでも抑える手立ては残されていないのであるが。
そもそもこの帝国は簡単に言えばフランク王国の流れを汲む東フランク王国がその前身と言えよう。フランク王国がライン川とアルプスという地形によって三分割されて、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型となったが、東フランクはそのうちのライン川の東側、アルプスの北側の部分である。しかし当時、北はバイキングのノルマン人、東はフン族のマジャール人の襲来と侵略で、外部異教徒との戦いもあって、帝国はゲルマン人の軍隊指導者を封建領主として征服地をその領地としていったのである。そしてこのゲルマン人の帝国の皇帝は血統ではなく有力領主による選挙により選定される形となっていく。
とは言え、帝国としてのその皇帝の権力はまだまだ脆弱であった為、簡単に言えば、カトリック教会の権威、つまりローマ教皇の伝統と権威を利用したという事だ。これがこの「神聖ローマ」なる仰々しい名前の由来である。この帝国はまた、中央集権的な国家ではなく、領内各地に分散された王国や公国等の領邦によって成立っており、その実態は帝国と言えるものかは、はなはだ疑問である。
この帝国はザクセン朝・ザーリア朝からホーヘンシュタウヘン朝へ、更にはハプスブルグ家にと王朝は事実上、世襲がらみで受け継がれていくが、この帝国の特徴をなんと言っても、ローマ教皇の権威とドイツ諸侯との権力との間における絶妙なバランスにある。つまりイギリスやフランスの様な中央集権的な絶対王政とはまた違った権力構造になっているのである。その一つの表れが、1356年のカール4世時代に出された「金印勅書」である。この勅書は31条からなり、一言で言えば「皇帝の選挙規程」と「帝国議会の法的根拠」を示すものである。そもそもゲルマン人の社会では昔から皇帝さえも選挙で選ぶと言う慣わしがあった事が驚きであり、また皇帝自身が自らの地位を律する勅書を出すと言うのもこの時代の事を思えば極めて近代的な事である。
長い帝国の歴史の詳細は割愛するとして、17世紀に入りこの強固な帝国の存在を大きく揺らがす事態が生じるのである。16世紀のルターによる宗教改革とそれを促進したグーテンベルグによる印刷技術の発明に事の発端を見る事が出来る。従来聖職者が独占的に支配してきたラテン語の聖書のドイツ語版を印刷技術により大量配布する事が可能となって、これが新教徒勢力を作り出したのと同時にドイツ人としての国民意識を芽生えさせたのである。こうなれば帝国はなにもなすすべもなく、ドイツ国内は分裂状態となって諸外国勢力を巻き込んでの30年の宗教戦争となるのだ。後の国民国家の成立へとつながるあの有名なウェストファリア条約(1648年)はこの30年戦争の終結と戦後処理の為に66カ国もが参加し署名した。これにより帝国は形骸化し弱体化して、帝都のあるオーストリアはオスマントルコやナポレオンフランスに侵略されてしまうのである。
こうしてドイツの歴史を見てくると、日本の隣国の大国の事を思わざるを得ない。世界の人口の 1/5を持ち、5年後には米国を抜いて世界一の経済大国になろうとするこの現代の帝国においては、国民の選挙権がない事はおろか、言論の自由も、インターネットを使う自由もない。共産党という一つの政党による古典的、専制的な政治体制が続いている国である。しかもその共産党内部においてでさえ、皇帝たるトップを決める選挙規程も明らかにされていないのであるから、金印勅書が出された14世紀ドイツよりもはるかに遅れているのである。国家財政破綻による落日の米国が東アジアからの軍事的プレゼンスの後退を余儀なくされ、勢力均衡のバランスが大きく崩れて、この大国の「歯止めの利かない暴走」の向かう先がこの日本となるのは目に見えている。もうグーテンベルグの印刷技術に匹敵するインターネットにしか、この暴走を少しでも抑える手立ては残されていないのであるが。
2011年4月26日火曜日
列強時代に学ぶ
ドイツの歴史はイギリスやフランスの歴史と違って、時代時代によってその領域の地図が変わるので複雑だ。1871年のプロイセン主導によるドイツ帝国成立までは、その領域は同じドイツ圏の覇者オーストリア・ハプスブルグ家による神聖ローマ帝国のもとに王国、公国等に小さく分かれていた。ドイツ帝国成立に至る決め手はプロイセンによるナポレオン三世のフランスとの普仏戦争(1871年)での勝利であるが、それに先立つオーストリアとの普墺戦争(1866年)での勝利も、ドイツ圏の領域での足固めとして大変重要であった。
普墺戦争に至るまでのドイツ圏での覇権を求めてのオーストリアとの戦いで、プロイセン側での主役は何と言っても1740年に即位したフリードリッヒ大王(Friedrich der Große)であろう。最近では米国のゲーツ国防長官が演説で引用したDiplomatie ohne Waffen ist wie Musik ohne Instrumente. 「軍事なき外交は楽器なき音楽のごとし」の名言を残したプロイセンの専制君主である。歴史上の大人物を今の近代社会の価値判断に基づいて評価を下す事は出来ない。このフリードリッヒ大王の名言は憲法9条により平和ボケをした現代の日本では好戦的であるとして危険視されていて、それこそ外交官の間では禁句であろう。しかし、時代を問わずこれが外交の本質だ。
フリードリッヒ大王は即位の年の年末には、早速オーストリア継承戦争(1740年)を仕掛ける。オーストリアのマリア・テレジア王女が神聖ローマ帝国の皇帝に即位する事に反対し(王女の皇帝即位は前例がなかった)、この名目での戦争に勝利してプロイセンは隣接するシュレジア地方(現在のポーランドの東部)を獲得した。しばらく後に、挽回をはかるマリア・テレジアのオーストリアは宿敵フランスと、更にロシアとも同盟を結ぶ事でプロイセンに挑んだ。この7年戦争(1756-63年)は長期戦となりプロイセンは苦戦し敗戦まで覚悟したが、結局、フランスと対抗する同盟国イギリスの支援を得て何とか持ちこたえるのである。
その後一時的にはプロイセン、ロシア、オーストリアの三国間では勢力の均衡が保たれ、緩衝地帯であるポーランドの三分割が進められた。また、プロイセンはイギリス・オランダ連合軍と一緒に戦ったワーテルローの戦い(1815年)でフランスのナポレオンを破り、ウイーン会議(1815年)を経て、ドイツ圏の盟主であるオーストリアをしのぐ勢いとなる。一方では、プロイセンはロシア、オーストリアとの間の神聖同盟を結び、国内での革命勢力を押さえると同時に、フランスからの産業・商業の担い手である新教徒ユグノーを積極的に受け入れて、軍備の近代化と国力の充実を図った。この結果が最終的には普墺戦争(1866年)での圧倒的な近大軍事力での勝利である。
その後、前回述べた通り、ドイツ帝国が成立した 1871年から第一次大戦勃発の1914年までの 44年間にわたり、「英仏露墺普」の欧州列強間の勢力均衡が保たれ、それが複雑に絡み合う列強間での同盟関係を作り出した。ここにこそ外交・安保の本質が隠されていて欧州の歴史で最も面白い時期である。またそれは同時に、日清戦争後の空白地帯となった満州・北支地域で南下を目論むロシアと対峙していた日本にとって、露仏同盟に対抗するイギリスとの日英同盟(1902年)を結ぶ結果に至った事は恵まれた環境であった。
多極化に向かう現在の世界の列強は「米露中欧」である。そして舞台は欧州から東アジアに移った。19世紀の領土拡張と、現代での産業・資源と金融・財政での競争と、国益のぶつかり合いの内容の違いはあっても、その根底には軍事力(核武装の)がある事は何ら変わらない。今回の大震災での原発事故で、放射性物質の汚染がかくも恐ろしいものであるのかを日本国民は知らされた。列強側では日本国民の災害に対する resilienceを絶賛しながらも、裏では菅政権の狼狽する対応の無能ぶりを見て、「日本を陥れるには核での威嚇がかくも有効なるものか」という事を冷徹な眼で学び取ったであろう。
18世紀末の「普露墺」の列強によるポーランド分割の様に、近い将来の「米中露」間での非核地帯の日台韓の共同管理に向けての動きは既に始まっている。それが落日の大国米国にとって取り敢えず取り得る唯一の勢力均衡の構図なのであろう。
普墺戦争に至るまでのドイツ圏での覇権を求めてのオーストリアとの戦いで、プロイセン側での主役は何と言っても1740年に即位したフリードリッヒ大王(Friedrich der Große)であろう。最近では米国のゲーツ国防長官が演説で引用したDiplomatie ohne Waffen ist wie Musik ohne Instrumente. 「軍事なき外交は楽器なき音楽のごとし」の名言を残したプロイセンの専制君主である。歴史上の大人物を今の近代社会の価値判断に基づいて評価を下す事は出来ない。このフリードリッヒ大王の名言は憲法9条により平和ボケをした現代の日本では好戦的であるとして危険視されていて、それこそ外交官の間では禁句であろう。しかし、時代を問わずこれが外交の本質だ。
フリードリッヒ大王は即位の年の年末には、早速オーストリア継承戦争(1740年)を仕掛ける。オーストリアのマリア・テレジア王女が神聖ローマ帝国の皇帝に即位する事に反対し(王女の皇帝即位は前例がなかった)、この名目での戦争に勝利してプロイセンは隣接するシュレジア地方(現在のポーランドの東部)を獲得した。しばらく後に、挽回をはかるマリア・テレジアのオーストリアは宿敵フランスと、更にロシアとも同盟を結ぶ事でプロイセンに挑んだ。この7年戦争(1756-63年)は長期戦となりプロイセンは苦戦し敗戦まで覚悟したが、結局、フランスと対抗する同盟国イギリスの支援を得て何とか持ちこたえるのである。
その後一時的にはプロイセン、ロシア、オーストリアの三国間では勢力の均衡が保たれ、緩衝地帯であるポーランドの三分割が進められた。また、プロイセンはイギリス・オランダ連合軍と一緒に戦ったワーテルローの戦い(1815年)でフランスのナポレオンを破り、ウイーン会議(1815年)を経て、ドイツ圏の盟主であるオーストリアをしのぐ勢いとなる。一方では、プロイセンはロシア、オーストリアとの間の神聖同盟を結び、国内での革命勢力を押さえると同時に、フランスからの産業・商業の担い手である新教徒ユグノーを積極的に受け入れて、軍備の近代化と国力の充実を図った。この結果が最終的には普墺戦争(1866年)での圧倒的な近大軍事力での勝利である。
その後、前回述べた通り、ドイツ帝国が成立した 1871年から第一次大戦勃発の1914年までの 44年間にわたり、「英仏露墺普」の欧州列強間の勢力均衡が保たれ、それが複雑に絡み合う列強間での同盟関係を作り出した。ここにこそ外交・安保の本質が隠されていて欧州の歴史で最も面白い時期である。またそれは同時に、日清戦争後の空白地帯となった満州・北支地域で南下を目論むロシアと対峙していた日本にとって、露仏同盟に対抗するイギリスとの日英同盟(1902年)を結ぶ結果に至った事は恵まれた環境であった。
多極化に向かう現在の世界の列強は「米露中欧」である。そして舞台は欧州から東アジアに移った。19世紀の領土拡張と、現代での産業・資源と金融・財政での競争と、国益のぶつかり合いの内容の違いはあっても、その根底には軍事力(核武装の)がある事は何ら変わらない。今回の大震災での原発事故で、放射性物質の汚染がかくも恐ろしいものであるのかを日本国民は知らされた。列強側では日本国民の災害に対する resilienceを絶賛しながらも、裏では菅政権の狼狽する対応の無能ぶりを見て、「日本を陥れるには核での威嚇がかくも有効なるものか」という事を冷徹な眼で学び取ったであろう。
18世紀末の「普露墺」の列強によるポーランド分割の様に、近い将来の「米中露」間での非核地帯の日台韓の共同管理に向けての動きは既に始まっている。それが落日の大国米国にとって取り敢えず取り得る唯一の勢力均衡の構図なのであろう。
2011年4月24日日曜日
勢力均衡による平和
1861年の日本とプロイセンとの修好通商条約締結から150周年という事で先日の何ともピントの外れた国会決議と相成ったわけだが、そもそもこの時代のプロイセン(Preußen)は地図上から見ても現在のドイツとはやや性格が異なる国家だ。プロイセンは北ドイツ、ポーランド、バルト海沿岸を拠点とするドイツ騎士団領とブランデンブルグ選帝侯領が合体して出来た新興の軍事国家だ。この時代のプロイセンの東アジア遠征艦隊が日本にやってきたのが条約締結のきっかけらしい。
既にアジア各地に植民地獲得の爪を伸ばしていたイギリスやフランス、あるいは南下の動きを見せていたロシアを避けて、日本がこの欧州で急激に勢いを伸ばすプロテスタントの軍事新興国を明治維新後の富国強兵のお手本にしたのは正解だろう。プロイセンとて極東での植民地獲得の野心を持って極東にやって来たのであろうが、当時は何分いまだドイツとしての統一前後でもあり、欧州での自らの足元固めに専念するのが先決であったであろうから、日本にとっては組みやすい相手だ。
プロイセンはこの日本との条約締結の 5年後の1866年には普墺戦争でオーストリアを破り、更にそのまた 5年後の1871年には普仏戦争でナポレオン三世のフランスを破って、破竹の勢いであった。この結果、同じ年にプロイセンが主導してドイツ各地の王国、公国、大公国、司教領等の領邦を取り纏めて統一的なドイツ帝国の成立を果たすのである。
実はこのドイツ帝国成立の1871年から第一次世界大戦が始まる1914年までの 44年間は欧州には戦争がない、安定した平和が保たれた時代であった。言うまでもなく、英仏露独墺の列強の間で見事な勢力均衡(Balance of Power)が成立っていたからである。この44年間という時間の長さを感覚でとらえ様とすれば、それは丁度1945年の日本の敗戦から1989年のベルリンの壁崩壊までの東西冷戦時代の長さと同じである。
それでは何故、新興軍事国プロイセン主導によるドイツ帝国の出現によって、欧州内の勢力均衡バランスの変化が生じたにも拘らず、半世紀近くも平和が保たれたのだろうか。それはドイツの鉄血宰相(der Eiserne Kanzler)と言われているビスマルクの絶妙な外交手腕によるものである。ビスマルクはあくまでも現実主義的な観点に徹して、誕生間もないドイツの欧州内での地位を確固なものとし、その国益と生き残りの為を思い、外交手腕を発揮した。ビスマルクは当時複雑に絡み合う英仏露墺の列強間の利害・敵対関係を徹底的に分析利用して、各国間での協商や同盟を画策し、独自の安全保障体制を作り上げたという事なのだ。これこそが結果的に欧州内で見事な勢力均衡を生み出したという事であり、決してビスマルクは平和主義者でもハト派でも何でもない。
同様に戦後日本の平和と経済的な繁栄は、何も憲法9条があったからや平和念仏を唱えていたからの結果からではない。これはあくまで米ソ間での「核の攻撃には核で対抗」という軍事力での勢力均衡が保たれていた結果であり、また日本が日米安保条約に基づいて米国との軍事同盟関係を持つという正しい政治的選択をした結果であるのは言うまでもない。
歴史を振り返れば勢力均衡が崩れて、突出した軍事大国が出現した時ほど大規模な戦争の惨劇が生まれる時はない。欧州の例ではナポレオンのフランス、ヒトラーのドイツ、スターリンのソ連である。そしてこれから間違いなく起こるであろう事は急速な軍事的拡張を続ける中国による東アジアでの覇権である。おまけに中国の人民解放軍は国家の軍隊ではなく、中国共産党に属する組織である。
その後、ドイツ帝国はビスマルクを疎んじたウィルヘルム二世により誤った方向に路線変更がなされ、ビスマルクが築いた平和の遺産を生かす事なく第一次大戦に突入した。その100年前においてでさえ、ドイツ帝国では議会の総選挙が実施されていた。例え統帥権が独立していたとは言え、言論の自由は確保されて、社会民主党が大躍進した様な国である。この事を思えば、この東アジアにおいて今後勢力均衡が崩れる様な事ともなれば、惨劇の歴史が繰り返されるのは必然であろう。
既にアジア各地に植民地獲得の爪を伸ばしていたイギリスやフランス、あるいは南下の動きを見せていたロシアを避けて、日本がこの欧州で急激に勢いを伸ばすプロテスタントの軍事新興国を明治維新後の富国強兵のお手本にしたのは正解だろう。プロイセンとて極東での植民地獲得の野心を持って極東にやって来たのであろうが、当時は何分いまだドイツとしての統一前後でもあり、欧州での自らの足元固めに専念するのが先決であったであろうから、日本にとっては組みやすい相手だ。
プロイセンはこの日本との条約締結の 5年後の1866年には普墺戦争でオーストリアを破り、更にそのまた 5年後の1871年には普仏戦争でナポレオン三世のフランスを破って、破竹の勢いであった。この結果、同じ年にプロイセンが主導してドイツ各地の王国、公国、大公国、司教領等の領邦を取り纏めて統一的なドイツ帝国の成立を果たすのである。
実はこのドイツ帝国成立の1871年から第一次世界大戦が始まる1914年までの 44年間は欧州には戦争がない、安定した平和が保たれた時代であった。言うまでもなく、英仏露独墺の列強の間で見事な勢力均衡(Balance of Power)が成立っていたからである。この44年間という時間の長さを感覚でとらえ様とすれば、それは丁度1945年の日本の敗戦から1989年のベルリンの壁崩壊までの東西冷戦時代の長さと同じである。
それでは何故、新興軍事国プロイセン主導によるドイツ帝国の出現によって、欧州内の勢力均衡バランスの変化が生じたにも拘らず、半世紀近くも平和が保たれたのだろうか。それはドイツの鉄血宰相(der Eiserne Kanzler)と言われているビスマルクの絶妙な外交手腕によるものである。ビスマルクはあくまでも現実主義的な観点に徹して、誕生間もないドイツの欧州内での地位を確固なものとし、その国益と生き残りの為を思い、外交手腕を発揮した。ビスマルクは当時複雑に絡み合う英仏露墺の列強間の利害・敵対関係を徹底的に分析利用して、各国間での協商や同盟を画策し、独自の安全保障体制を作り上げたという事なのだ。これこそが結果的に欧州内で見事な勢力均衡を生み出したという事であり、決してビスマルクは平和主義者でもハト派でも何でもない。
同様に戦後日本の平和と経済的な繁栄は、何も憲法9条があったからや平和念仏を唱えていたからの結果からではない。これはあくまで米ソ間での「核の攻撃には核で対抗」という軍事力での勢力均衡が保たれていた結果であり、また日本が日米安保条約に基づいて米国との軍事同盟関係を持つという正しい政治的選択をした結果であるのは言うまでもない。
歴史を振り返れば勢力均衡が崩れて、突出した軍事大国が出現した時ほど大規模な戦争の惨劇が生まれる時はない。欧州の例ではナポレオンのフランス、ヒトラーのドイツ、スターリンのソ連である。そしてこれから間違いなく起こるであろう事は急速な軍事的拡張を続ける中国による東アジアでの覇権である。おまけに中国の人民解放軍は国家の軍隊ではなく、中国共産党に属する組織である。
その後、ドイツ帝国はビスマルクを疎んじたウィルヘルム二世により誤った方向に路線変更がなされ、ビスマルクが築いた平和の遺産を生かす事なく第一次大戦に突入した。その100年前においてでさえ、ドイツ帝国では議会の総選挙が実施されていた。例え統帥権が独立していたとは言え、言論の自由は確保されて、社会民主党が大躍進した様な国である。この事を思えば、この東アジアにおいて今後勢力均衡が崩れる様な事ともなれば、惨劇の歴史が繰り返されるのは必然であろう。
2011年4月22日金曜日
日独友好決議なるもの
22日の衆議院本会議で政府・民主党主導による「日独友好決議」なるものが採択された様だ。安倍、麻生、元首相ら40名の自民党議員が退席し、また一部の自民党議員が反対する中での決議採択だ。そもそもこの日独友好決議は、1861年の日本とプロイセンとの修好通商条約締結の150周年記念という事で出された民主党案が、自民党との話合いで一部内容が修正されてきたものらしい。
具体的には、「両国は、その侵略行為により、近隣諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えることになった」となっていた民主党案を、ホロコーストなどのナチスの戦争犯罪と同一視していると受け止められかねないため、自民党側がこの点につき強く反発していた。3月末時点では「侵略行為」という表現を削除し、「両国は、近隣諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えることになった」と修正する方向で進んでいたという事だ。
しかし、本来重要な事実として、謝罪や反省をすると言っても戦後のドイツと日本は全く異質だという事をまず理解しておかねばならない。つまり
1. ドイツは「全てナチスが悪かった」という事で、戦前の体制を全面否定した別の国家となった。
2. 日本は終戦後もそのままの国体を維持して、象徴天皇制にする事で国家は継続した。
3. ドイツは英米仏露の共同管理となり、しかも東側は体制の異なる別個の国家となった。
4. 日本は米国の占領下となったが、ドイツの様に体制の事なる形での国の分断ななかった。
5. ドイツは英米仏らとの集団的自衛権に基づく NATO体制に組み込まれた。
6. 日本は米国だけとの日米安保条約(しかも当面集団的自衛権なし)だけの体制となった。
一言で言えば、米英仏、特に米国にとればソ連・東欧の社会主義体制国との対峙と、また同時に血を分けた同盟国イスラエルとの関係上、西ドイツをして「全てナチスが悪かった」事を全面に打ち出させ、NATO加盟とEC共同体結成により「西欧への統合化」を進めさせる事が必然であったわけだ。また西ドイツとしても、「全てナチスが悪かった」に基づき、この「西欧への統合化」の流れに身を委ねるのが必然の選択であり、同時に将来の東独の統合を目指しての国家再興の道でもある。つまりは、厳しい冷戦体制下で生き延びる上での「したたかな」で「狡猾」な道とも言えるのだ。
しかしそうは言っても、一方では常識的に見て、ドイツ国民として「ナチスのホロコーストを見過ごした」というキリスト教神学的な原罪意識というものもあったであろう事は充分考えられる。これゆえ、一般的な理解としてはこの西ドイツの「したたかさ」や「狡猾さ」は、日本人にとってはそれこそ150年前からの潜在意識にある所の「お手本とする尊敬すべきドイツ人」のイメージを損ないかねないので表面化されないだけだ。
またドイツの「全てナチスが悪い」という点については、戦後の日独両国における国際軍事裁判でも大きな違いを見せている。ニュルンベルク裁判でのナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)は「人道に対する罪」であり、「平和に対する罪」とか「戦争犯罪」とは全く異質であって、日本は「人道に対する罪」では何も裁かれてはいない。天皇陛下がこれら三つの罪により裁判で裁かれるという動きさえもなかったし、また後から出て来た確たる根拠のない従軍慰安婦問題などは全く提議さえされていなかったのである。
こういった根本的な違いを理解せずして、単純に「戦前は両国とも悪うございました」と国会で決議するのはドイツ側から見ても噴飯モノかも知れない。「オトナでしたたかな国」ドイツにすれば、その口から出てくる外交上の美辞麗句は別として、内心では「まあ日本と言う国はなんと国際音痴で、ウブで、ナイーブな事」と見られる事は間違いない。民主党政権による外交音痴がここに来てまたまた取り返しのつかない国難の元を生み出しているのである。
具体的には、「両国は、その侵略行為により、近隣諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えることになった」となっていた民主党案を、ホロコーストなどのナチスの戦争犯罪と同一視していると受け止められかねないため、自民党側がこの点につき強く反発していた。3月末時点では「侵略行為」という表現を削除し、「両国は、近隣諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えることになった」と修正する方向で進んでいたという事だ。
しかし、本来重要な事実として、謝罪や反省をすると言っても戦後のドイツと日本は全く異質だという事をまず理解しておかねばならない。つまり
1. ドイツは「全てナチスが悪かった」という事で、戦前の体制を全面否定した別の国家となった。
2. 日本は終戦後もそのままの国体を維持して、象徴天皇制にする事で国家は継続した。
3. ドイツは英米仏露の共同管理となり、しかも東側は体制の異なる別個の国家となった。
4. 日本は米国の占領下となったが、ドイツの様に体制の事なる形での国の分断ななかった。
5. ドイツは英米仏らとの集団的自衛権に基づく NATO体制に組み込まれた。
6. 日本は米国だけとの日米安保条約(しかも当面集団的自衛権なし)だけの体制となった。
一言で言えば、米英仏、特に米国にとればソ連・東欧の社会主義体制国との対峙と、また同時に血を分けた同盟国イスラエルとの関係上、西ドイツをして「全てナチスが悪かった」事を全面に打ち出させ、NATO加盟とEC共同体結成により「西欧への統合化」を進めさせる事が必然であったわけだ。また西ドイツとしても、「全てナチスが悪かった」に基づき、この「西欧への統合化」の流れに身を委ねるのが必然の選択であり、同時に将来の東独の統合を目指しての国家再興の道でもある。つまりは、厳しい冷戦体制下で生き延びる上での「したたかな」で「狡猾」な道とも言えるのだ。
しかしそうは言っても、一方では常識的に見て、ドイツ国民として「ナチスのホロコーストを見過ごした」というキリスト教神学的な原罪意識というものもあったであろう事は充分考えられる。これゆえ、一般的な理解としてはこの西ドイツの「したたかさ」や「狡猾さ」は、日本人にとってはそれこそ150年前からの潜在意識にある所の「お手本とする尊敬すべきドイツ人」のイメージを損ないかねないので表面化されないだけだ。
またドイツの「全てナチスが悪い」という点については、戦後の日独両国における国際軍事裁判でも大きな違いを見せている。ニュルンベルク裁判でのナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)は「人道に対する罪」であり、「平和に対する罪」とか「戦争犯罪」とは全く異質であって、日本は「人道に対する罪」では何も裁かれてはいない。天皇陛下がこれら三つの罪により裁判で裁かれるという動きさえもなかったし、また後から出て来た確たる根拠のない従軍慰安婦問題などは全く提議さえされていなかったのである。
こういった根本的な違いを理解せずして、単純に「戦前は両国とも悪うございました」と国会で決議するのはドイツ側から見ても噴飯モノかも知れない。「オトナでしたたかな国」ドイツにすれば、その口から出てくる外交上の美辞麗句は別として、内心では「まあ日本と言う国はなんと国際音痴で、ウブで、ナイーブな事」と見られる事は間違いない。民主党政権による外交音痴がここに来てまたまた取り返しのつかない国難の元を生み出しているのである。
2011年3月27日日曜日
首都機能分散(ドイツに学ぶ)
「首都機能分散」といった課題にでもドイツの先例がある。先例といってもドイツは地震大国ではない。それは、この国が1871年のドイツ帝国成立前までは王国や公国・侯国、司教領という地方を基盤に成立っていたという歴史と、第二次大戦後の東西ドイツへの分裂そして 1990年の統一という経緯への流れを物語るものでもある。統一ドイツの首都はベルリンではあるが、現在でも西独時代の首都であるボンに教育省、環境省といった連邦政府の6省庁が置かれている。つまり首都機能は分散されている。
ボンはライン川河畔の人口約 30万の小都市であるが、そもそも西独時代にこのボンを首都としたのは、(1) 将来の統一後にいつでもベルリンに首都を移せる様に暫定として小都市を選んだ (2) 戦前の第三帝国時代のベルリンのイメージを払拭する為に対照的な小都市を選んだ、という事だ。本来、ドイツは西独時代から各州(統一後は16州)の地方自治を基盤とする連邦制の国家であり、日本よりも数段進んだ「地方分権」の国家である。
それでは何故統一後もボンに一部の省庁を残したかと言えば、それはまず連邦議会での僅差での議決により、1994年に制定されたベルリン・ボン法に基づくものである。議会での表向きの議論では、ベルリンとボンに省庁が分かれる事で生じるコストと、ボンの省庁全てをベルリンに移動させるコストとの比較、更には全省庁移動に伴うボンの経済的な衰退を防ぐという事も含めて総合的に検討された。その結果議会は敢えてボンに政府機能の一部を残すと決めたのだ。
しかしその背景にある、(1) 1871年のプロイセンによる統一ドイツ帝国成立は当時の英仏露墺の列強に対抗するものであったが、その後その強力な中央集権国家というものが結果的に第一第二の大戦での敗戦をもたらしたという事からの反省と知恵がある事 (2) 戦後の東西分裂の象徴として忌まわしい記憶の残るベルリンよりも、長い間の平和と繁栄をもたらした西独と言う国家の首都ボンへの人々の思い入れがある事 (3) また同時にベルリンは新興軍事国家プロイセンの首都、ボンはケルンと並び文化芸術のラインラントの中心、という歴史的な風土と人々の気質の違いがある事、なども見逃せない。
従って、繰り返すがドイツのケースは災害リスク対策の為の「人工的な首都機能の分散」ではない。歴史の流れの中でのごく「自然な政治的選択の結果」であり、その根底にはしっかりと根付いた「地方分権制」が確立されているという観点で見るべきだ。もともとドイツの良さというものは英国のロンドンやフランスのパリといった様な大都市にはない、分散された各都市における「静かで落ち着きがあり自然に恵まれた環境」にある。また同時に戦後の西独の経済的繁栄はこの計画的とも思われる程見事に分散された都市機能にある。即ち、それは前々回にも述べた通り、ほぼ 200kmごとの距離にある Hamburg, Hanover, Düsseldorf/Köln/Bonn, Frankfurt, Stuttgart, Münchenに代表される主要都市での個性豊かでかつ均等な繁栄である。
私個人もベルリンには観光で行くには良いとしても、とてもあの大都市に住む気にはならない。欧米の大都会というものは、必ず外国人労働者との摩擦、治安の悪化、物価高が付き物であるからだ。米国とて同様で、普通の平均的米国人は決して大都会には住みたがらない。郊外にある中小都市の静かで安らかな環境での生活と、子供達へのより高い教育水準を求めるのは同じだ。
振り返って、東京首都圏はその比較においては国際的に見て異常だ。第一、東京の様な都市の狭い空間でしかも狭いがゆえに常に周りの目を気にしながら画一的に育った子供達が将来どういう人間になるかの方が心配だ。経済界でも個性的な活動をしている人材は全てとは言わないまでも関西や九州で育った人間が多い。ソフトバンクの孫氏、旧ライブドアの堀江氏、楽天の三木谷氏、ファストリの柳井氏等、皆さん学生時代に東京で勉強をしたかも知れないが、生まれ育ちは伸び伸びとした環境のある関西以西である。東京で育った子供たちは子供の頃から既にこじんまりとサラリーマン化してしまっているのではないかと心配になる。
今回の大震災の教訓として、大災害による国家的リスク回避の面から首都機能分散の具体化を急ぐ必要があるが、同時にこれによって懸案となっている地方分権化の推進を図り、有形無形の形で日本全体を再活性化させるという側面も出て来る。一体、民主党政権になってこの地方分権化なるものが政治主導でどれだけ進捗したのであろうか。いや政治主導なるもの自体は全くなく、地方分権化は完全に後退してしまっているのが実態だ。「首都機能の分散」と同時に「民主党政権の霧散」が日本の復興再生への第一歩かも知れない。
ボンはライン川河畔の人口約 30万の小都市であるが、そもそも西独時代にこのボンを首都としたのは、(1) 将来の統一後にいつでもベルリンに首都を移せる様に暫定として小都市を選んだ (2) 戦前の第三帝国時代のベルリンのイメージを払拭する為に対照的な小都市を選んだ、という事だ。本来、ドイツは西独時代から各州(統一後は16州)の地方自治を基盤とする連邦制の国家であり、日本よりも数段進んだ「地方分権」の国家である。
それでは何故統一後もボンに一部の省庁を残したかと言えば、それはまず連邦議会での僅差での議決により、1994年に制定されたベルリン・ボン法に基づくものである。議会での表向きの議論では、ベルリンとボンに省庁が分かれる事で生じるコストと、ボンの省庁全てをベルリンに移動させるコストとの比較、更には全省庁移動に伴うボンの経済的な衰退を防ぐという事も含めて総合的に検討された。その結果議会は敢えてボンに政府機能の一部を残すと決めたのだ。
しかしその背景にある、(1) 1871年のプロイセンによる統一ドイツ帝国成立は当時の英仏露墺の列強に対抗するものであったが、その後その強力な中央集権国家というものが結果的に第一第二の大戦での敗戦をもたらしたという事からの反省と知恵がある事 (2) 戦後の東西分裂の象徴として忌まわしい記憶の残るベルリンよりも、長い間の平和と繁栄をもたらした西独と言う国家の首都ボンへの人々の思い入れがある事 (3) また同時にベルリンは新興軍事国家プロイセンの首都、ボンはケルンと並び文化芸術のラインラントの中心、という歴史的な風土と人々の気質の違いがある事、なども見逃せない。
従って、繰り返すがドイツのケースは災害リスク対策の為の「人工的な首都機能の分散」ではない。歴史の流れの中でのごく「自然な政治的選択の結果」であり、その根底にはしっかりと根付いた「地方分権制」が確立されているという観点で見るべきだ。もともとドイツの良さというものは英国のロンドンやフランスのパリといった様な大都市にはない、分散された各都市における「静かで落ち着きがあり自然に恵まれた環境」にある。また同時に戦後の西独の経済的繁栄はこの計画的とも思われる程見事に分散された都市機能にある。即ち、それは前々回にも述べた通り、ほぼ 200kmごとの距離にある Hamburg, Hanover, Düsseldorf/Köln/Bonn, Frankfurt, Stuttgart, Münchenに代表される主要都市での個性豊かでかつ均等な繁栄である。
私個人もベルリンには観光で行くには良いとしても、とてもあの大都市に住む気にはならない。欧米の大都会というものは、必ず外国人労働者との摩擦、治安の悪化、物価高が付き物であるからだ。米国とて同様で、普通の平均的米国人は決して大都会には住みたがらない。郊外にある中小都市の静かで安らかな環境での生活と、子供達へのより高い教育水準を求めるのは同じだ。
振り返って、東京首都圏はその比較においては国際的に見て異常だ。第一、東京の様な都市の狭い空間でしかも狭いがゆえに常に周りの目を気にしながら画一的に育った子供達が将来どういう人間になるかの方が心配だ。経済界でも個性的な活動をしている人材は全てとは言わないまでも関西や九州で育った人間が多い。ソフトバンクの孫氏、旧ライブドアの堀江氏、楽天の三木谷氏、ファストリの柳井氏等、皆さん学生時代に東京で勉強をしたかも知れないが、生まれ育ちは伸び伸びとした環境のある関西以西である。東京で育った子供たちは子供の頃から既にこじんまりとサラリーマン化してしまっているのではないかと心配になる。
今回の大震災の教訓として、大災害による国家的リスク回避の面から首都機能分散の具体化を急ぐ必要があるが、同時にこれによって懸案となっている地方分権化の推進を図り、有形無形の形で日本全体を再活性化させるという側面も出て来る。一体、民主党政権になってこの地方分権化なるものが政治主導でどれだけ進捗したのであろうか。いや政治主導なるもの自体は全くなく、地方分権化は完全に後退してしまっているのが実態だ。「首都機能の分散」と同時に「民主党政権の霧散」が日本の復興再生への第一歩かも知れない。
2011年3月26日土曜日
シュレーダー前首相
ある読者の方から、昔ドイツのハノーファーに行かれた事があるとのコメントを頂き、ふとその地域が政治基盤であったシュレーダー前首相の事を思い出した。シュレーダー前首相はばりばりの SPD(社会民主党)党員で、元学生運動の闘士であり、またあの有名なドイツ赤軍派テロリストの弁護士もしたというほどの筋金入り左翼だ(った)。その輝かしい経歴が示す様にこの前首相の面構えと低音の声はドスが効いている。この点、同じ国のトップにありながら弱い立場のものには怒鳴り散らしていばるが、肝心の危機に際しての国民の前や、外交舞台では借りてきた猫の様に弱々しい小心者の「逃げ菅」総理とは対照的だ。
しかし、シュレーダー氏は堅物一方のガリガリではない。そのドスの効いた顔付きには少し似合わないが、首相就任当時にはやりだした三つボタンの背広をいち早く着こなすおしゃれだ。またドイツ人らしくきちんと計算した様に12年ごとに離婚と再婚を繰返し、現在の美人のドリス夫人は 4人目である。この夫人とはすでに12年を過ぎている頃だが、さすがに氏もまもなく67歳だけに5人目というわけにはいかないだろう。
欧州ではこういう私生活面の事はその政治家の評価には全くといって影響しない。一昔前のフランスのミッテラン元大統領の愛人発覚時での「それがどうした」発言や、あるいは最近のサルコジ大統領の愛人騒ぎなどからも明らかである。またサルコジ氏と大統領選で戦った社会党党首のロワイヤル氏(女性)は正式な婚姻関係のない党員仲間との間に4人の子供がいたり、高校に無償の避妊薬を配布するなどのウルトラリベラルである。
愛すべきフランス人の名誉の為に言っておくが、何事もお堅いドイツ人でもそのリベラルさは同じだ。現在のメルケル政権の No.2である副首相兼外相のヴェスターヴェレ氏はゲイである事を公表し、現職についてからは男性パートナーとの正式な結婚式を挙げている。しかし、この事が政権に影響を与えたという事はない。現在のメルケル政権の不人気の理由はPIGSへの巨額の財政支援であろう。この点、ニュージャージー州知事がゲイである事がカミングアウトしてたちまち失職に追い込まれたという「保守的な」米国とは事情が違う。
さて1998年の CDU連立からから SPD連立への政権交代ではシュレーダー政権には緑の党(正式には同盟90/緑の党)が加わった。その緑の党から副首相兼外相として入閣したフイッシャー氏も学生時代は過激派に属し、議会には薄汚れたジャケットやスニーカー姿で登壇したユニークな存在だ。このフイッシャー氏も5度ほど(正式な)離婚暦があり、私自身の記憶では80年代初めに議会でトレードマークのスニーカー姿で登壇した際には確か英語ではAXXXXXXを表す言葉を発していたのを憶えている。
そんな左翼過激派コンビでも政権に就けば就いたで大いなる変身をせざるを得ないのはどこの国でも同じだ。特に国防安保面では鳩山氏の迷走普天間発言の様な愚かで世間知らずな事などは絶対しない。早速1999年の NATOによるコソボ空爆をいち早く支持し、また 2001年の米国によるアフガン侵攻も躊躇する事なく支持してNATO体制下のドイツ連邦軍を派兵までした。当時この変身ぶりについて知合いのドイツ人と話した時に彼は「いつまでも過ぎ去った過去の左翼過激派の立場にこだわり続けるバカはいないよ」と極めておおらかであったのを憶えている。彼は多くのドイツ国民と同様政権交代を支持していた。
それにしても何事も中途半端なのが菅政権である。あれほどまでも徹底したドイツの左翼過激派が、政権につくや国防安保面ではこれも徹底してタカ派に変身するというのとは大違いだ。被災現場で連日ご苦労されている自衛隊員の皆さんには、吉田茂元首相が防大第一期生の卒業式で述べた名言通り、こんな菅政権でも「皆さん、辛抱して欲しい」といつまで言い続ける事ができるのだろうか。
吉田元首相の防衛大第一期生卒業式での祝辞
「自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時や災害派遣の時なのだ。言葉をかえれば、君達が日陰者である時の方が日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい」
しかし、シュレーダー氏は堅物一方のガリガリではない。そのドスの効いた顔付きには少し似合わないが、首相就任当時にはやりだした三つボタンの背広をいち早く着こなすおしゃれだ。またドイツ人らしくきちんと計算した様に12年ごとに離婚と再婚を繰返し、現在の美人のドリス夫人は 4人目である。この夫人とはすでに12年を過ぎている頃だが、さすがに氏もまもなく67歳だけに5人目というわけにはいかないだろう。
欧州ではこういう私生活面の事はその政治家の評価には全くといって影響しない。一昔前のフランスのミッテラン元大統領の愛人発覚時での「それがどうした」発言や、あるいは最近のサルコジ大統領の愛人騒ぎなどからも明らかである。またサルコジ氏と大統領選で戦った社会党党首のロワイヤル氏(女性)は正式な婚姻関係のない党員仲間との間に4人の子供がいたり、高校に無償の避妊薬を配布するなどのウルトラリベラルである。
愛すべきフランス人の名誉の為に言っておくが、何事もお堅いドイツ人でもそのリベラルさは同じだ。現在のメルケル政権の No.2である副首相兼外相のヴェスターヴェレ氏はゲイである事を公表し、現職についてからは男性パートナーとの正式な結婚式を挙げている。しかし、この事が政権に影響を与えたという事はない。現在のメルケル政権の不人気の理由はPIGSへの巨額の財政支援であろう。この点、ニュージャージー州知事がゲイである事がカミングアウトしてたちまち失職に追い込まれたという「保守的な」米国とは事情が違う。
さて1998年の CDU連立からから SPD連立への政権交代ではシュレーダー政権には緑の党(正式には同盟90/緑の党)が加わった。その緑の党から副首相兼外相として入閣したフイッシャー氏も学生時代は過激派に属し、議会には薄汚れたジャケットやスニーカー姿で登壇したユニークな存在だ。このフイッシャー氏も5度ほど(正式な)離婚暦があり、私自身の記憶では80年代初めに議会でトレードマークのスニーカー姿で登壇した際には確か英語ではAXXXXXXを表す言葉を発していたのを憶えている。
そんな左翼過激派コンビでも政権に就けば就いたで大いなる変身をせざるを得ないのはどこの国でも同じだ。特に国防安保面では鳩山氏の迷走普天間発言の様な愚かで世間知らずな事などは絶対しない。早速1999年の NATOによるコソボ空爆をいち早く支持し、また 2001年の米国によるアフガン侵攻も躊躇する事なく支持してNATO体制下のドイツ連邦軍を派兵までした。当時この変身ぶりについて知合いのドイツ人と話した時に彼は「いつまでも過ぎ去った過去の左翼過激派の立場にこだわり続けるバカはいないよ」と極めておおらかであったのを憶えている。彼は多くのドイツ国民と同様政権交代を支持していた。
それにしても何事も中途半端なのが菅政権である。あれほどまでも徹底したドイツの左翼過激派が、政権につくや国防安保面ではこれも徹底してタカ派に変身するというのとは大違いだ。被災現場で連日ご苦労されている自衛隊員の皆さんには、吉田茂元首相が防大第一期生の卒業式で述べた名言通り、こんな菅政権でも「皆さん、辛抱して欲しい」といつまで言い続ける事ができるのだろうか。
吉田元首相の防衛大第一期生卒業式での祝辞
「自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時や災害派遣の時なのだ。言葉をかえれば、君達が日陰者である時の方が日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい」
2011年3月21日月曜日
ドイツ政治との違い
民主党政権の最大の矛盾と欺瞞は、菅総理を始めとする現在の主要閣僚達が「国家」というものに 対してrespectをしてこなかった、いや否定さえしてきたというその政治家としての過去の履歴にある。この菅政権の欺瞞性を明確化し、理解する鍵は戦後のドイツ政治との比較にある。
同じ敗戦国であったドイツとの違いは (1) 西独は東独はじめマルクス主義国家と対峙した事で国内ではマルクス主義に対する稚拙で誤った思い入れがなかった。この点日米安保に守られた言わば温室育ちの日本のマルキスト達は世間知らずでナイーブであった (2) 西独は戦後すぐに核武装したNATO体制下に組み込まれ、国内では徴兵制をとり続けて(去年漸く廃止を決定)、集団的自衛権を国家防衛の基盤としていた。この点日本は憲法9条の下に未だに集団的自衛権さえ確立されていない、という事実である。この二つの決定的な違いは大きい。
1980年代の終わりに冷戦体制が崩れて行く中で、東欧諸国の社会主義政権が崩壊する中で社会主義国家体制の実態が明らかになった。これによってマルクス主義そのものの誤りが証明された。つまり日本の社会主義系運動家達はその政治活動の最初からマルクス主義を志向するという根本的な誤りをしていたという事が証明されたのである。もう一つの誤りは、彼らが単にマルクス主義を志向するのみならず、一方では自衛隊を違憲として国家の生存権たる自主防衛そのものも否定していた事にある。生存権を否定すると言う事は即ち現実の国際社会では国家そのものを否定するという事につながる。日本社会党が「非武装中立」なる非現実的な掛け声を売り物としていたのはそう昔の事ではない。
この結果、その社会党そのものも当然の事ながら解体霧散してしまったが、それではその党員メンバーはどうなったかと言えば、いち早く沈没船から抜け出し、いつの間にかこそこそと変身して現在では政権の中枢や政権与党の中枢に留まっているのだ。言わば、彼らは自らの政治的主張の根本的な誤りを「総括」しないまま、卑怯姑息にも外見だけを変えて生き延びてきているのだ。しかし、その本質や残渣というものは隠し様がない。例えば、民主党の土肥議員は以前日本社会党議員として同じ兵庫県選出の土井党首に近い立場にあり、それだけに与党議員でありながら韓国での竹島放棄の書類にサインをするという反国家的な活動までしているのだ。
ドイツではSPD(社会民主党)が CDU/CSU(キリスト教民主・社会同盟)との政権交代や大連立を繰返してきているが、この政党が NATOによる集団的自衛権や国家そのものを否定する様な動きをしてきていたという事はない。仮にそうした動きをとれば明らかに東独という国家や東欧体制に吸収されてしまう事を意味する厳しい「現実」があったからだ。繰り返すが、民主党政権内の旧社会党系議員や市民運動系議員達は、「マルクス主義」と「自衛権否定」という根本的に間違った政治思想を原点としている政治家であって、彼らが自らの誤りを総括しないまま国家を担う政権や与党の中枢にいる事が大いなる欺瞞であり、政治混迷の根本原因である。
同じ敗戦国であったドイツとの違いは (1) 西独は東独はじめマルクス主義国家と対峙した事で国内ではマルクス主義に対する稚拙で誤った思い入れがなかった。この点日米安保に守られた言わば温室育ちの日本のマルキスト達は世間知らずでナイーブであった (2) 西独は戦後すぐに核武装したNATO体制下に組み込まれ、国内では徴兵制をとり続けて(去年漸く廃止を決定)、集団的自衛権を国家防衛の基盤としていた。この点日本は憲法9条の下に未だに集団的自衛権さえ確立されていない、という事実である。この二つの決定的な違いは大きい。
1980年代の終わりに冷戦体制が崩れて行く中で、東欧諸国の社会主義政権が崩壊する中で社会主義国家体制の実態が明らかになった。これによってマルクス主義そのものの誤りが証明された。つまり日本の社会主義系運動家達はその政治活動の最初からマルクス主義を志向するという根本的な誤りをしていたという事が証明されたのである。もう一つの誤りは、彼らが単にマルクス主義を志向するのみならず、一方では自衛隊を違憲として国家の生存権たる自主防衛そのものも否定していた事にある。生存権を否定すると言う事は即ち現実の国際社会では国家そのものを否定するという事につながる。日本社会党が「非武装中立」なる非現実的な掛け声を売り物としていたのはそう昔の事ではない。
この結果、その社会党そのものも当然の事ながら解体霧散してしまったが、それではその党員メンバーはどうなったかと言えば、いち早く沈没船から抜け出し、いつの間にかこそこそと変身して現在では政権の中枢や政権与党の中枢に留まっているのだ。言わば、彼らは自らの政治的主張の根本的な誤りを「総括」しないまま、卑怯姑息にも外見だけを変えて生き延びてきているのだ。しかし、その本質や残渣というものは隠し様がない。例えば、民主党の土肥議員は以前日本社会党議員として同じ兵庫県選出の土井党首に近い立場にあり、それだけに与党議員でありながら韓国での竹島放棄の書類にサインをするという反国家的な活動までしているのだ。
ドイツではSPD(社会民主党)が CDU/CSU(キリスト教民主・社会同盟)との政権交代や大連立を繰返してきているが、この政党が NATOによる集団的自衛権や国家そのものを否定する様な動きをしてきていたという事はない。仮にそうした動きをとれば明らかに東独という国家や東欧体制に吸収されてしまう事を意味する厳しい「現実」があったからだ。繰り返すが、民主党政権内の旧社会党系議員や市民運動系議員達は、「マルクス主義」と「自衛権否定」という根本的に間違った政治思想を原点としている政治家であって、彼らが自らの誤りを総括しないまま国家を担う政権や与党の中枢にいる事が大いなる欺瞞であり、政治混迷の根本原因である。
2011年3月17日木曜日
原発問題
今回の大震災の国家非常事態においても「政治」というものは水面下で様々な動きを見せているのを見逃してはならない。まずは辻元氏の「災害ボランティア担当」首相補佐官任命とそれに続く仙石氏の「災害復興担当」官房副長官任命である。既に民主党政権の中では落ち着きを取り戻した時期での解散総選挙が念頭にある。そこでは何としても政権維持を図らねばならないのであるが、その際には最早バラマキの「マニュフェスト」などでは国民を釣る事は出来ない。
次回総選挙では災害復興に焦点が当てられる事になるが、これについての具体的政策等では与野党間に大きな隔たりというものは差ほど出て来ないであろう。そこで民主党が間違いなく選挙のテーマとして掲げるのが「原発全廃」政策であろう。
勿論、早期に今すぐの話ではない。例えばドイツのシュレーダー政権の時の原発全廃政策の様に20年先の 2021年までという様な形が選挙公約として現実的であろう。今回の未曾有の放射能危機で日本国民はあの第二次大戦敗戦の悲劇に対するのと同様に「原発の存続」には大きな反応を示す事は間違いない。民主党の全く現実性のない「原発全廃」の掛け声には、前回全く現実性のないバラマキ「マニュフェスト」に見事に騙された様に、多くの日本国民はまたもや見事に騙されてしまう事であろう。
日本と同様に「選挙の季節」の動きを見せているのが、エネルギー事情が日本と同じで原発先進国のドイツである。現在の CDU/FDP連立のメルケル政権は SPD/緑 連立のシュレーダー政権が打ち出した「2021年までの原発全廃」方針を平均で12年間延長する修正方針を打ち出しているのであるが、今回の日本の災害で政治的に大きな見直しを迫れている。今年はドイツ16州のうちの 7`州において州議会選挙が行われる選挙の年である。既に2月のハンブルク市(ハンザ同盟都市として州と同列)議会選挙があり、CDUはSPDの約50%に迫る得票率の半分以下という大敗を喫してしまった。これは勿論欧州の PIGS危機に際してのドイツ政府としての多大な財政支援の負担に対する国民の大きな不満が根底にあるのが理由であろう。落ち目のメルケル政権にとって今回の福島原発の事故は政権維持の面では明らかに大きな政治的マイナス要因となっている。
従って、例えば横浜のドイツ人学校の閉鎖と本国への早期の生徒全員引上げなど今回の福島原発事故に対するドイツ政府の反応は他外国に比べてもより敏感である。また原発事故に対する現地の報道でもこれを政治的に利用する為に意図的とも思えるほど危機感をあおる報道もある様である。以上のドイツの原発に関する政治問題についてはドイツ事情分析に関してはこの面での第一人者であり、また私が常々尊敬しているクライン孝子女史の意見をあらためてお聞きするのがベストであろう。
それでは今回の福島原発事故の収集処理が何とかうまく行ったと仮定すると(そうあって欲しいと祈念するのは言うまでもない)、民主党政権側にとっては、事故発生から事故対応における全ての責任を東京電力に負わせ、全ての功績を政権担当者とする事で総選挙に望もうとするであろう。実際は事故対応での全ての努力と功績は自衛隊・警察・消防・東電を中心とする現場の方々の命をかけての作業である事は言うまでもない話である。そこでもう既に明らかな見通しとしてはリーダー失格の菅氏を退陣させ、表舞台から下げて、次の顔は現在連日会見に登場する枝野氏となる事が予想される。本命の前原氏の足が救われた後、次世代の人間として表舞台は全てこの枝野氏が受け持っている。それを支え、裏から操る二人が辻元氏と仙石氏となって、ここに反体制運動を原点とするトリオの(非現実的)「原発全廃」政権が確立される方向となる。これこそが次ぎの国難であろう。
次回総選挙では災害復興に焦点が当てられる事になるが、これについての具体的政策等では与野党間に大きな隔たりというものは差ほど出て来ないであろう。そこで民主党が間違いなく選挙のテーマとして掲げるのが「原発全廃」政策であろう。
勿論、早期に今すぐの話ではない。例えばドイツのシュレーダー政権の時の原発全廃政策の様に20年先の 2021年までという様な形が選挙公約として現実的であろう。今回の未曾有の放射能危機で日本国民はあの第二次大戦敗戦の悲劇に対するのと同様に「原発の存続」には大きな反応を示す事は間違いない。民主党の全く現実性のない「原発全廃」の掛け声には、前回全く現実性のないバラマキ「マニュフェスト」に見事に騙された様に、多くの日本国民はまたもや見事に騙されてしまう事であろう。
日本と同様に「選挙の季節」の動きを見せているのが、エネルギー事情が日本と同じで原発先進国のドイツである。現在の CDU/FDP連立のメルケル政権は SPD/緑 連立のシュレーダー政権が打ち出した「2021年までの原発全廃」方針を平均で12年間延長する修正方針を打ち出しているのであるが、今回の日本の災害で政治的に大きな見直しを迫れている。今年はドイツ16州のうちの 7`州において州議会選挙が行われる選挙の年である。既に2月のハンブルク市(ハンザ同盟都市として州と同列)議会選挙があり、CDUはSPDの約50%に迫る得票率の半分以下という大敗を喫してしまった。これは勿論欧州の PIGS危機に際してのドイツ政府としての多大な財政支援の負担に対する国民の大きな不満が根底にあるのが理由であろう。落ち目のメルケル政権にとって今回の福島原発の事故は政権維持の面では明らかに大きな政治的マイナス要因となっている。
従って、例えば横浜のドイツ人学校の閉鎖と本国への早期の生徒全員引上げなど今回の福島原発事故に対するドイツ政府の反応は他外国に比べてもより敏感である。また原発事故に対する現地の報道でもこれを政治的に利用する為に意図的とも思えるほど危機感をあおる報道もある様である。以上のドイツの原発に関する政治問題についてはドイツ事情分析に関してはこの面での第一人者であり、また私が常々尊敬しているクライン孝子女史の意見をあらためてお聞きするのがベストであろう。
それでは今回の福島原発事故の収集処理が何とかうまく行ったと仮定すると(そうあって欲しいと祈念するのは言うまでもない)、民主党政権側にとっては、事故発生から事故対応における全ての責任を東京電力に負わせ、全ての功績を政権担当者とする事で総選挙に望もうとするであろう。実際は事故対応での全ての努力と功績は自衛隊・警察・消防・東電を中心とする現場の方々の命をかけての作業である事は言うまでもない話である。そこでもう既に明らかな見通しとしてはリーダー失格の菅氏を退陣させ、表舞台から下げて、次の顔は現在連日会見に登場する枝野氏となる事が予想される。本命の前原氏の足が救われた後、次世代の人間として表舞台は全てこの枝野氏が受け持っている。それを支え、裏から操る二人が辻元氏と仙石氏となって、ここに反体制運動を原点とするトリオの(非現実的)「原発全廃」政権が確立される方向となる。これこそが次ぎの国難であろう。
2011年2月3日木曜日
マタイ受難曲
BMWと言えば、米国でも若者の間で一番人気の高級ドイツ車であるが、音楽界の BMWと言えばそれはベートーベン and/or バッハ、モーツアルト、ワグナーの事だ。取り分けバッハ(J.S.Bach)はその作品数、宗教性、スケールといった点からドイツ系音楽界の最高峰の地位にあるといえるだろう。更に、そのバッハの数ある作品の中での最高傑作をあげるとすれば、それは「マタイ受難曲」ではないだろうか。今年のカレンダーでは Ostern(復活祭)が最も遅くなる 4月24日になっているので、そこから46日前の Aschermittwoch(灰の水曜日)あたりからはこの曲のシーズンを迎える。
マタイ受難曲は新約聖書のマタイの福音書、第26-27章に書かれているイエスの捕縛から刑死までの様子を精微で美しい旋律とドイツ語の歌詞で劇的に描いているものである。通常は3時間、演奏者により長いもので3時間半にも及ぶ超大作である。
最も美しい旋律は第39曲の Erbarme dich, mein Gott (神よ、憐れみ下さい)である。ペテロが「鶏が鳴く前に、おまえは三度私を知らないと言うだろう」というイエスの言葉を思い出して、実際にそうしてしまった事を悔い、激しく泣く様子を描いた場面である。バイオリンの前奏で始まるこのあまりにも哀しく美しすぎるアルトのアリアを聞き、ペテロの感情が移入されて、実際に涙を流す人も多い。
何と言ってもこのマタイ受難曲のハイライトは、第61曲のイエスが最後に残す言葉、Eli Eli Lama Sabachthani, Mein Gott, mein Gott, Warum hast du mich verlassen ?(神よ、何故私をお見捨てになったのですか?)の部分であり、その後に続く合唱の Wenn ich einmal soll scheiden(いつか私がこの世に別れを告げる時)はこの受難曲の中で歌詞を変えながら5回も繰り返される旋律がベースにあり、これが言わばテーマ曲である。
このバッハの作品を最も忠実に表現していると言われるのが故カール・リヒターであろう。カール・リヒターは旧東独で牧師の息子として生まれ、バッハが音楽監督を務めたライプチッヒの聖トーマス教会(マタイ受難曲が初演された場所でもある)でバッハの音楽を学んだ。
カール・リヒターはその後西独のミュンヘンに移りミュンヘンバッハ管弦楽団を組織し活躍したが、1981年に54歳の若さで急死した。私自身は1977年の大晦日の晩に偶々滞在先のミュンヘンの教会でこのカール・リヒターのオルガン独奏がある事を知り、急いで駆けつけて聴いた事がある。この教会のパイプオルガンは後方の二階部分に設置されていたので、前方を向いて着席している我々はオルガン奏者を見ないで、演奏は後から頭越しに聞こえてくる形となっていた。重々しい石造りの南ドイツの教会に響くバッハのオルガン曲はまさにカトリック色の強いこの地方でで迎える大晦日に相応しいものであった。時折、演奏中のカール・リヒターを振り返って見上げてみると、目を閉じたまま楽譜を見ずに全曲暗譜での演奏であったが、この姿が彼の宗教的精神性を表わし今でも強い印象で残っている。
このカール・リヒターが1971年に指揮したマタイ受難曲を DVDにしたものが 2006年に 始めてreleaseされたのであるが、それを見てみると、従来の耳で聴く CDでの音だけではなく、まるで宗教家のごとき風貌のカール・リヒターの指揮ぶりなどが見られて感動を新たにする。まさにドイツ的な堅固で質実で厳格な演奏と独唱、合唱である。
マタイ受難曲は新約聖書のマタイの福音書、第26-27章に書かれているイエスの捕縛から刑死までの様子を精微で美しい旋律とドイツ語の歌詞で劇的に描いているものである。通常は3時間、演奏者により長いもので3時間半にも及ぶ超大作である。
最も美しい旋律は第39曲の Erbarme dich, mein Gott (神よ、憐れみ下さい)である。ペテロが「鶏が鳴く前に、おまえは三度私を知らないと言うだろう」というイエスの言葉を思い出して、実際にそうしてしまった事を悔い、激しく泣く様子を描いた場面である。バイオリンの前奏で始まるこのあまりにも哀しく美しすぎるアルトのアリアを聞き、ペテロの感情が移入されて、実際に涙を流す人も多い。
何と言ってもこのマタイ受難曲のハイライトは、第61曲のイエスが最後に残す言葉、Eli Eli Lama Sabachthani, Mein Gott, mein Gott, Warum hast du mich verlassen ?(神よ、何故私をお見捨てになったのですか?)の部分であり、その後に続く合唱の Wenn ich einmal soll scheiden(いつか私がこの世に別れを告げる時)はこの受難曲の中で歌詞を変えながら5回も繰り返される旋律がベースにあり、これが言わばテーマ曲である。
このバッハの作品を最も忠実に表現していると言われるのが故カール・リヒターであろう。カール・リヒターは旧東独で牧師の息子として生まれ、バッハが音楽監督を務めたライプチッヒの聖トーマス教会(マタイ受難曲が初演された場所でもある)でバッハの音楽を学んだ。
カール・リヒターはその後西独のミュンヘンに移りミュンヘンバッハ管弦楽団を組織し活躍したが、1981年に54歳の若さで急死した。私自身は1977年の大晦日の晩に偶々滞在先のミュンヘンの教会でこのカール・リヒターのオルガン独奏がある事を知り、急いで駆けつけて聴いた事がある。この教会のパイプオルガンは後方の二階部分に設置されていたので、前方を向いて着席している我々はオルガン奏者を見ないで、演奏は後から頭越しに聞こえてくる形となっていた。重々しい石造りの南ドイツの教会に響くバッハのオルガン曲はまさにカトリック色の強いこの地方でで迎える大晦日に相応しいものであった。時折、演奏中のカール・リヒターを振り返って見上げてみると、目を閉じたまま楽譜を見ずに全曲暗譜での演奏であったが、この姿が彼の宗教的精神性を表わし今でも強い印象で残っている。
このカール・リヒターが1971年に指揮したマタイ受難曲を DVDにしたものが 2006年に 始めてreleaseされたのであるが、それを見てみると、従来の耳で聴く CDでの音だけではなく、まるで宗教家のごとき風貌のカール・リヒターの指揮ぶりなどが見られて感動を新たにする。まさにドイツ的な堅固で質実で厳格な演奏と独唱、合唱である。
2010年2月21日日曜日
PIGS

PIGS、ギリシャ財政危機で表面化した経済危機が危ぶまれる南欧の国々Portugal, Italy, Greece, Spainの総称である。これらの国々はEUの中核である独英仏に比べると経済構造が脆弱であり、財政規律に関してはルーズである。なぜギリシャ財政危機の様な問題が起こるかと言えば、一言で言えば、経済レベルの全く違う国々の間で無理やりユーロという共通通貨を導入した事にある。つまりユーロ加盟各国政府はユーロという共通通貨のおかげで、その時々の経済状況に対処する為の独自の金融政策はとる事が出来ず、財政政策しかとれない事にある。
本来 EUの本格的統一や通貨統合というものは、「人、物、金」の移動が促進され、経済が活性化される事から、こうした南欧や東欧、バルト三国といった国々の方にメリットがある筈であるが、それは同時にそういった地域へのバブルを誘発してしまう危険性もはらんでいる。特にこうした地域ではもともと経済活動が高度化していないだけに経済政策、財政規律の面でも問題が多い。つまり表現は不適切で悪いが、「経済のシロウトが身の丈に合わない借金をしてバブルに手を出す」様なものであり、アルプスの北と南ではとても経済面、ビジネス面では同じ市場とは思えないという事である。
そもそもユーロの総元締めである欧州中央銀行はフランクフルトにあり、基調としてはブンデスバンクの流れを汲むドイツ式の厳格な金融政策が取られてきている。それでは何故欧州EU全体で圧倒的な経済力を持つ優等生のドイツが自らを犠牲にしてユーロ導入に踏み切ったのかと言えば、それは「ドイツ統一」との深い関わりであろう。1989年のドイツ統一による東側復興の為に統一ドイツは大幅な財政赤字を抱え込む事となり、当然の結果としてドイツマルク金利の上昇がもたらされた。欧州ダントツの経済大国ドイツが高金利となれば、従来の固定相場制を維持するにはポンドもフランも金利を上げざるを得ず、それは必ずしも不況に苦しむ各国の経済状況からは望ましい事ではない。そうした混乱を避ける意味からも従来の通貨統合の動きが一気に加速されたのである。
もう一点はおそらく政治的なものであろう。既に複数のメディアが報じている通り、東西ドイツの統一の動きに対しては、フランスのミッテラン大統領とイギリスのサッチャー首相が露骨に警戒感を露わにして、ゴルバチョフ大統領に統一を阻止する様に働きかかけた事は事実の様である。そうしたフランスとイギリスに対して、東西ドイツの統一を歴史的、政治的使命とするコール首相の「ドイツ統一認知」を得る為の思い切った妥協策であろう。コール氏の決断により一気にドイツ統一の動きが加速し、また同時にユーロ導入の具体化への動きも加速されたのである。
そもそも通貨というものが自然発生的なもので、その国の歴史、伝統、文化、社会と無関係のものではない筈である。それをEUは経済活動のグローバル化の中で米国やアジアと競合する為、あるいは欧州域内での金融、投資、貿易、決済の利便性の面から、加盟国の国家主権はそのままにして、通貨を無理やり人工的に統合してしまおうという「革新」を行ったわけであり、そこには決してプラス面だけではなくマイナス面もある筈である。
イギリスは依然としてユーロには不加盟であり、保守党がユーロ参加に一貫して反対してきているのは、統一通貨に基づく共通の金融政策に縛られる事なく、主権国家として自国の経済状況に応じての政策が打てるという自由度を確保する為であり、これが長い目で見れば真の「保守」としての正しい選択であるのかも知れない。
本来 EUの本格的統一や通貨統合というものは、「人、物、金」の移動が促進され、経済が活性化される事から、こうした南欧や東欧、バルト三国といった国々の方にメリットがある筈であるが、それは同時にそういった地域へのバブルを誘発してしまう危険性もはらんでいる。特にこうした地域ではもともと経済活動が高度化していないだけに経済政策、財政規律の面でも問題が多い。つまり表現は不適切で悪いが、「経済のシロウトが身の丈に合わない借金をしてバブルに手を出す」様なものであり、アルプスの北と南ではとても経済面、ビジネス面では同じ市場とは思えないという事である。
そもそもユーロの総元締めである欧州中央銀行はフランクフルトにあり、基調としてはブンデスバンクの流れを汲むドイツ式の厳格な金融政策が取られてきている。それでは何故欧州EU全体で圧倒的な経済力を持つ優等生のドイツが自らを犠牲にしてユーロ導入に踏み切ったのかと言えば、それは「ドイツ統一」との深い関わりであろう。1989年のドイツ統一による東側復興の為に統一ドイツは大幅な財政赤字を抱え込む事となり、当然の結果としてドイツマルク金利の上昇がもたらされた。欧州ダントツの経済大国ドイツが高金利となれば、従来の固定相場制を維持するにはポンドもフランも金利を上げざるを得ず、それは必ずしも不況に苦しむ各国の経済状況からは望ましい事ではない。そうした混乱を避ける意味からも従来の通貨統合の動きが一気に加速されたのである。
もう一点はおそらく政治的なものであろう。既に複数のメディアが報じている通り、東西ドイツの統一の動きに対しては、フランスのミッテラン大統領とイギリスのサッチャー首相が露骨に警戒感を露わにして、ゴルバチョフ大統領に統一を阻止する様に働きかかけた事は事実の様である。そうしたフランスとイギリスに対して、東西ドイツの統一を歴史的、政治的使命とするコール首相の「ドイツ統一認知」を得る為の思い切った妥協策であろう。コール氏の決断により一気にドイツ統一の動きが加速し、また同時にユーロ導入の具体化への動きも加速されたのである。
そもそも通貨というものが自然発生的なもので、その国の歴史、伝統、文化、社会と無関係のものではない筈である。それをEUは経済活動のグローバル化の中で米国やアジアと競合する為、あるいは欧州域内での金融、投資、貿易、決済の利便性の面から、加盟国の国家主権はそのままにして、通貨を無理やり人工的に統合してしまおうという「革新」を行ったわけであり、そこには決してプラス面だけではなくマイナス面もある筈である。
イギリスは依然としてユーロには不加盟であり、保守党がユーロ参加に一貫して反対してきているのは、統一通貨に基づく共通の金融政策に縛られる事なく、主権国家として自国の経済状況に応じての政策が打てるという自由度を確保する為であり、これが長い目で見れば真の「保守」としての正しい選択であるのかも知れない。
2009年11月23日月曜日
技術は二番目では駄目
「技術は二番目でも良いではないか」、民主党議員によるあきれた発言だ。技術力というものは一番でなければ早晩市場から消え去るかも知れない、というのが厳しい国際競争の現実だ。これを検証し裏付けるものは中々ないのであるが、ちょうど自動車業界の方から第三者の中立機関による米国市場における「メーカーブランド別 2010年モデルの品質評価データ」というものが送られてきたので、これを御紹介しよう(現物は権威ある”Consumer Reports” で、一目瞭然のグラフで示されている)。
まず第一の点は、対象となる30数ブランドのうちのトップ7位までが日本のメーカーで占められている事だ。これは日常の米国での生活の光景から見てごく自然で当たり前だと思う。南カリフォルニアでの日常の光景という大まかな表現で言えば、目にする車の半数以上は日本車である。
第二の注目点は第8位に韓国 Hyundaiが入っている事だ。これも不思議ではない。日本で韓国車に乗る機会というのはそうないだろう。しかし米国内を仕事で頻繁に出張する際に使う空港からのレンタカーの中には数少ないながらHyundaiの選択肢というのが実に12-13年以上も前からあったのである。当時はレンタカーだけは嫌でも米国車を使わなくてはならないので、毎回何か故障が起こらぬかと心配な事もあり、予約の際は無理を承知で日本車 requestを毎回出していた。そこでレンタカー会社の受付で「残念ながら日本車はありませんが、Hyundaiならご用意できます」と言われた時はつい、Lucky!と喜んで OKしたものだ。乗り心地とエンジンの静かさは日本車と同等であり(当時、エンジンは日本から`韓国に輸入していたかも知れない)長距離運転でも全く疲れない大変満足のいくものであった。
第三の注目点こそが本来の主題であるが、ドイツ車の品質評価が相対的に低い事である。まずドイツ勢の中ではトップのポルシェの第9位は例外として、VWが第21位、Benzが第23位、Audiが第24位、BMWが第26位とポルシェ以外は軒並み 20位以降である。更により注目すべき点はグラフで見ると品質のぶれの幅を示す横棒がドイツ車の場合は際立って長い事、つまりぶれが大きい事であり、これこそが技術力が劣化し出す兆候だ。これは日本のドイツ車ファンの方には意外に思われるかも知れないが、私が二回にわたるドイツ勤務の際に経験した BMWとBenzの使用体験からもついうなずいてしまうものである。つまり故障が日本車よりも間違いなく多いという事だ。ドイツ人社員に言わせると、「ああこれはトルコ製なんですよ。だってベンツのドイツの工場では Gast Arbeiter(外国人労働者-主にトルコ人)が車を作っていますから」と。そういう事で、二回目のドイツ勤務から再び米国に戻り、米国では 4台目の日本車のリースを決めた時は全く迷いは無かった。現在の車で米国では 5台目の日本車となるが3年のリース(米国では個人でもリースが普及)期間中に故障なんてものはいかなるものも想定されていない。事実、いずれも毎回見事に故障は皆無である。
それでは日本人が今も固く信じている「ドイツの技術力」がなぜ今や韓国の Hyundaiや Kia(第14位)までに負けるに至ったのか。その遠因はやはり、民主党的「高福祉・高負担」と民主党的「技術力追及に対する甘やかしの姿勢」ではないだろうかとついこじつけてしまいたくなる。
私自身以前転職した先がその分野では世界一の技術力を持つという中小のメーカーであったが、日本の製造業の現場はすざましい。その技術開発と品質管理の厳しさは自衛隊、いや帝国陸海軍並みかそれ以上のものであろう。日本に出張したおりに、トヨタ生産方式の改善コンサルタントの方と数回東北地方の工場に同行した事があるが、現場の責任者への問題点指摘と改善要求の際の怒号罵声のすざましさは殴りかからんばかりの迫力だ。会社としては中小企業だけに賃金水準や付加給付などは「中福祉」企業であるが、それでも現場の作業員には、その分野では世界一の技術力を持ち続けるという強い自負と誇りが態度に表れており、彼らは高温、騒音、油まみれの作業環境などは全く気にしない。これこそが技術立国日本の力の源泉だと思う。間違ってもドイツの自動車産業のケースとならぬ様、民主党に替わる早期の政権交代を期待したい。
まず第一の点は、対象となる30数ブランドのうちのトップ7位までが日本のメーカーで占められている事だ。これは日常の米国での生活の光景から見てごく自然で当たり前だと思う。南カリフォルニアでの日常の光景という大まかな表現で言えば、目にする車の半数以上は日本車である。
第二の注目点は第8位に韓国 Hyundaiが入っている事だ。これも不思議ではない。日本で韓国車に乗る機会というのはそうないだろう。しかし米国内を仕事で頻繁に出張する際に使う空港からのレンタカーの中には数少ないながらHyundaiの選択肢というのが実に12-13年以上も前からあったのである。当時はレンタカーだけは嫌でも米国車を使わなくてはならないので、毎回何か故障が起こらぬかと心配な事もあり、予約の際は無理を承知で日本車 requestを毎回出していた。そこでレンタカー会社の受付で「残念ながら日本車はありませんが、Hyundaiならご用意できます」と言われた時はつい、Lucky!と喜んで OKしたものだ。乗り心地とエンジンの静かさは日本車と同等であり(当時、エンジンは日本から`韓国に輸入していたかも知れない)長距離運転でも全く疲れない大変満足のいくものであった。
第三の注目点こそが本来の主題であるが、ドイツ車の品質評価が相対的に低い事である。まずドイツ勢の中ではトップのポルシェの第9位は例外として、VWが第21位、Benzが第23位、Audiが第24位、BMWが第26位とポルシェ以外は軒並み 20位以降である。更により注目すべき点はグラフで見ると品質のぶれの幅を示す横棒がドイツ車の場合は際立って長い事、つまりぶれが大きい事であり、これこそが技術力が劣化し出す兆候だ。これは日本のドイツ車ファンの方には意外に思われるかも知れないが、私が二回にわたるドイツ勤務の際に経験した BMWとBenzの使用体験からもついうなずいてしまうものである。つまり故障が日本車よりも間違いなく多いという事だ。ドイツ人社員に言わせると、「ああこれはトルコ製なんですよ。だってベンツのドイツの工場では Gast Arbeiter(外国人労働者-主にトルコ人)が車を作っていますから」と。そういう事で、二回目のドイツ勤務から再び米国に戻り、米国では 4台目の日本車のリースを決めた時は全く迷いは無かった。現在の車で米国では 5台目の日本車となるが3年のリース(米国では個人でもリースが普及)期間中に故障なんてものはいかなるものも想定されていない。事実、いずれも毎回見事に故障は皆無である。
それでは日本人が今も固く信じている「ドイツの技術力」がなぜ今や韓国の Hyundaiや Kia(第14位)までに負けるに至ったのか。その遠因はやはり、民主党的「高福祉・高負担」と民主党的「技術力追及に対する甘やかしの姿勢」ではないだろうかとついこじつけてしまいたくなる。
私自身以前転職した先がその分野では世界一の技術力を持つという中小のメーカーであったが、日本の製造業の現場はすざましい。その技術開発と品質管理の厳しさは自衛隊、いや帝国陸海軍並みかそれ以上のものであろう。日本に出張したおりに、トヨタ生産方式の改善コンサルタントの方と数回東北地方の工場に同行した事があるが、現場の責任者への問題点指摘と改善要求の際の怒号罵声のすざましさは殴りかからんばかりの迫力だ。会社としては中小企業だけに賃金水準や付加給付などは「中福祉」企業であるが、それでも現場の作業員には、その分野では世界一の技術力を持ち続けるという強い自負と誇りが態度に表れており、彼らは高温、騒音、油まみれの作業環境などは全く気にしない。これこそが技術立国日本の力の源泉だと思う。間違ってもドイツの自動車産業のケースとならぬ様、民主党に替わる早期の政権交代を期待したい。
2009年11月9日月曜日
台湾とドイツ
NHKのベルリンの壁崩壊20周年の特集番組で、東独側では壁崩壊後に生まれた若者世代を中心に旧西独側との経済格差から来る不満からか旧東独に憧れを持つと言った現象まで現れていると報じられていた。まさか「もう一度壁を作れ」と言う人はあまりいないとは思うが、こういう若者は、旧東独のドイツ社会主義統一党と SPD(社会民主党)を離党した左派グループとが合体したDie Linke(左翼党)という政党を支持していると紹介している。
これを見て、つい最近日本の「周辺」の国でも起こったある政権交代の事が思い起こされた。それは世界で最も親日の国とされる台湾での事である。台湾は李登輝元総統のもと 1990年代から急速に民主化を進めてきた結果、2000年の陳水偏民進党政権の成立に至ったのである。その背景としては台湾生まれの本省人と中国大陸出身の外省人の比率がおおよそ 85:15となってきた事もあるが、それよりも台湾が中国の妨害で国際政治・社会では阻害されながらも、グローバリズムの進展の中で IT産業を中心に経済的に大きな発展を遂げた事が台湾の人々の独立国国民としての自身を深めたところにもあるのだろう。
しかしながら、2008年の総統選挙では陳水偏氏の後任である民進党の謝長廷氏は大陸生まれで国民党の馬英九氏に大差で敗北したのである。国民は決して映画俳優なみのマスクの馬氏に惑わされただけではない。それに先立つ立法院選挙でも国民党は民進党に圧勝していたのである。この現象に日本の良識ある人々は「一体何故?」と思われた方も多いと思う。台湾人の民進党支持層を含むいわゆる独立派の人々は口々に「国民党がメディアと軍と官僚組織を押さえている事から公正で正当な選挙が出来なかった」と述べている。確かに戦後長く続いた国民党独裁政権体制の残渣というものは消し難いものはあるだろうし、事実そういった不正はあるだろう。しかし、私にはそういう表面的な事もさることながら、それは民主主義体制が確立されたからこそ、必ず生じる一つの「不幸な共通現象」、「不都合な真実」に他ならないと思えるのである。
この「不幸な現象」を理解する為に、ドイツの歴史を振り返ってみよう。ドイツは第一次世界大戦後それ以前のドイツ帝国から、いわゆるヴァイマール共和制に移行して民主主義国家となった。しかし天文学的数字の巨額の賠償金と驚異的なインフレにより国民経済は疲弊し、人々の不安と不満は高まり、その様な国民の心理状態からでこそ、あのヒットラー率いるナチ党が国民の熱狂的な支持を受けて民主主義の選挙の中で正当に政権を握ったのである。実は表面的には違った現象でも台湾国民の心理もこれと共通のものがある。
台湾は国際社会から閉鎖された中で、一方では中国の政治的、経済的、軍事的存在感は急速に高まり、このままでは台湾は政治的、経済的、軍事的に呑み込まれてしまうという大いなる不安と懸念を持っている事は間違いない。何よりも頼りとする米国や日本も今や中国の言うままとなりがちで頼りにはならない。そうした不安、不満が頂点にある時に国民はヴァイマール共和制のドイツのごとく、民主主義で自らが選んだ筈の政権を自ら民主主義で葬り去るのである。ドイツの心理学者、エーリッヒ・フロムもその著書「自由からの逃走」で人間(台湾国民)は自己実現(台湾人としての identity確立や国連加盟)が阻まれる時に一種の危機に陥り、自らが意識しないままに権威(中華思想)への従属と自己の自由(台湾の民主主義)を否定する方向に向かう、と述べている。
これは2000年以上も前の民主主義の原型である都市国家アテネでも既に起こっていた事を政治学の教科書では教えている。アテネではそれまでの貴族によるいわゆる僭主専制政治から市民の投票により選んだ将軍による民主政治に変わっていたのであるが、民主主義体制の市民は民主主義を手にした途端、まことに気まぐれとなる。その将軍の施政に少しでも不満や不安が出てくると、投票で自らが選んだ将軍を自らの手で葬り去るという事を繰り返したのである。それがやがては都市国家の活力をそいで、あっという間に隣国の新興軍事大国マケドニアの力に屈して占領されてしまう結果につながるのである。
いや、ひとごとではない。それは国民が「政権交代政権交代」と無邪気に興奮しながら選挙で選んだ、「国家観なく、ポピュリズムに走る」、「独裁裏将軍の操る」民主党政権の日本国、そのものの姿でもあるのだ。
これを見て、つい最近日本の「周辺」の国でも起こったある政権交代の事が思い起こされた。それは世界で最も親日の国とされる台湾での事である。台湾は李登輝元総統のもと 1990年代から急速に民主化を進めてきた結果、2000年の陳水偏民進党政権の成立に至ったのである。その背景としては台湾生まれの本省人と中国大陸出身の外省人の比率がおおよそ 85:15となってきた事もあるが、それよりも台湾が中国の妨害で国際政治・社会では阻害されながらも、グローバリズムの進展の中で IT産業を中心に経済的に大きな発展を遂げた事が台湾の人々の独立国国民としての自身を深めたところにもあるのだろう。
しかしながら、2008年の総統選挙では陳水偏氏の後任である民進党の謝長廷氏は大陸生まれで国民党の馬英九氏に大差で敗北したのである。国民は決して映画俳優なみのマスクの馬氏に惑わされただけではない。それに先立つ立法院選挙でも国民党は民進党に圧勝していたのである。この現象に日本の良識ある人々は「一体何故?」と思われた方も多いと思う。台湾人の民進党支持層を含むいわゆる独立派の人々は口々に「国民党がメディアと軍と官僚組織を押さえている事から公正で正当な選挙が出来なかった」と述べている。確かに戦後長く続いた国民党独裁政権体制の残渣というものは消し難いものはあるだろうし、事実そういった不正はあるだろう。しかし、私にはそういう表面的な事もさることながら、それは民主主義体制が確立されたからこそ、必ず生じる一つの「不幸な共通現象」、「不都合な真実」に他ならないと思えるのである。
この「不幸な現象」を理解する為に、ドイツの歴史を振り返ってみよう。ドイツは第一次世界大戦後それ以前のドイツ帝国から、いわゆるヴァイマール共和制に移行して民主主義国家となった。しかし天文学的数字の巨額の賠償金と驚異的なインフレにより国民経済は疲弊し、人々の不安と不満は高まり、その様な国民の心理状態からでこそ、あのヒットラー率いるナチ党が国民の熱狂的な支持を受けて民主主義の選挙の中で正当に政権を握ったのである。実は表面的には違った現象でも台湾国民の心理もこれと共通のものがある。
台湾は国際社会から閉鎖された中で、一方では中国の政治的、経済的、軍事的存在感は急速に高まり、このままでは台湾は政治的、経済的、軍事的に呑み込まれてしまうという大いなる不安と懸念を持っている事は間違いない。何よりも頼りとする米国や日本も今や中国の言うままとなりがちで頼りにはならない。そうした不安、不満が頂点にある時に国民はヴァイマール共和制のドイツのごとく、民主主義で自らが選んだ筈の政権を自ら民主主義で葬り去るのである。ドイツの心理学者、エーリッヒ・フロムもその著書「自由からの逃走」で人間(台湾国民)は自己実現(台湾人としての identity確立や国連加盟)が阻まれる時に一種の危機に陥り、自らが意識しないままに権威(中華思想)への従属と自己の自由(台湾の民主主義)を否定する方向に向かう、と述べている。
これは2000年以上も前の民主主義の原型である都市国家アテネでも既に起こっていた事を政治学の教科書では教えている。アテネではそれまでの貴族によるいわゆる僭主専制政治から市民の投票により選んだ将軍による民主政治に変わっていたのであるが、民主主義体制の市民は民主主義を手にした途端、まことに気まぐれとなる。その将軍の施政に少しでも不満や不安が出てくると、投票で自らが選んだ将軍を自らの手で葬り去るという事を繰り返したのである。それがやがては都市国家の活力をそいで、あっという間に隣国の新興軍事大国マケドニアの力に屈して占領されてしまう結果につながるのである。
いや、ひとごとではない。それは国民が「政権交代政権交代」と無邪気に興奮しながら選挙で選んだ、「国家観なく、ポピュリズムに走る」、「独裁裏将軍の操る」民主党政権の日本国、そのものの姿でもあるのだ。
東側諸国の実態
前号にて旧東独地域では旧西独地域との著しい経済格差の不満から壁の存在を知らない若者層では旧東独体制に憧れまでを抱くに至っていると報じられている事を述べた。先日、同様に米国内で日本の新政権に大いに期待するという日本人ジャーナリストの女性が講演で「だって小沢さんってもう過去の人でしょうー」と発言したのには参加者一同驚いた。ひょっとして自民党幹部としての金権全盛時代や細川政権時代の闇将軍であった小沢氏を知らない20代の若い世代かと思いきや、お顔のシワを良く見るとそうでもなさそうであった。
いずれもつい20数年前の事とは言え、歴史を知らないという事は恐ろしい。その面では我々団塊世代のビジネスマンは政治家、官僚、メディアの方々とは違い、冷静終結前のいわゆる東側体制の東欧諸国に仕事で頻繁に出かけて行き、その実態をつぶさに見て、体で体験しているだけに政治がどうあるべきかの信念は揺らぎないものがある。この「甦れ美しい日本」のメルマガにも時折投稿される関西零細企業経営者の方にも共通するのは、冷戦中にその東欧諸国に度々出張した体験を持つ事であろう。
それではその団塊の世代が学生時代の頃から一部知識人に「理想の社会主義国」として教えられたりしていた東欧諸国の実態というものの一例をご披露しておこう。
その理想の国とされていた一つはルーマニアである。冷戦終結前にもルーマニアのブカレストには日本企業の駐在員事務所が置かれていて、少人数ながら日本人も家族連れで現地に赴任していたのである。このルーマニアは「ローマ人の国」を意味する国名からも推察される様に東独、ハンガリー、チェコの様な工業国家ではなかった。従って外貨を稼ぐには農産物や畜産物といったものの輸出しかなく、チャウチェスク独裁政権のもとでは農業国でありながら、国民には充分な食料は行き渡ってはいなかった。
その結果、現地では日本人家族に食べさせられる様な食料品の入手が難しく、近隣の先進国である西独から駐在員が出張と称して毎週のごとく西独で調達した肉、魚、野菜、パンといったものをコンテナーに詰めて代わる代わる運び屋をやったのである。勿論、私も運び屋をやったが、問題は入国検査である。ある同僚の西独駐在員は入国検査でその食料コンテナーの中身までを調べられて、係官に目の前でその中身をゴミ箱に捨てられたのである。勿論、そんな大芝居は誰が見てもみえみえであり、後でその貴重品である西側の食料品をゴミ箱から拾って係官の皆で山分けしたのは間違いない。辛いのはその運び屋出張社員の到着を家族と共に待ちわびていたブカレスト駐在員の「オマエは一体何の為に出張して来たのか」という落胆ぶりである。
それでも出張者は、一応は出張目的として現地政府の公団との輸出入の折衝をするという事になるのであるが、泊まるホテルも駐在員事務所も食事をする所も全てがアメリカ系のインターコンチネンタルホテル内だけの世界となる。つまり一歩そのホテルの外に出れば、通信のインフラから交通手段、レストランも何にもないただただ灰色の世界なのである。公団には事務所の車を使って出かける事となるが、相手は国営公団のお役人である。アポイントを取っていても、一時間いや二時間、暗い部屋の堅い木の椅子で待たされるのはざらである。出てくる役人どももどれもやる気のない、しかし高飛車な態度の腐りきった人間ばかりでうんざりする。案の定、この腐りきった独裁政権の末路は、無血民主化を成し遂げた東独、ハンガリー、チェコとは違ってあのテレビで何度も繰返し放映される事となったチャウチェスク夫妻の銃殺シーンである。
こういう事が当時日本のメディアが決して伝えなかった、しかし我々ビジネスマンがまず知り得た、「人間を幸せにする理想の社会主義国」の実態なのであった。国営化企業、計画経済、社会主義といったものがいかに人間の精神とモラルを腐らしてしまうものか、その本来の国民全体を幸せにすると言う観念的な目的からは大きくかけ離れた現実的な結果を導くものであるという事を、我々は身をもって体験していたのである。
いずれもつい20数年前の事とは言え、歴史を知らないという事は恐ろしい。その面では我々団塊世代のビジネスマンは政治家、官僚、メディアの方々とは違い、冷静終結前のいわゆる東側体制の東欧諸国に仕事で頻繁に出かけて行き、その実態をつぶさに見て、体で体験しているだけに政治がどうあるべきかの信念は揺らぎないものがある。この「甦れ美しい日本」のメルマガにも時折投稿される関西零細企業経営者の方にも共通するのは、冷戦中にその東欧諸国に度々出張した体験を持つ事であろう。
それではその団塊の世代が学生時代の頃から一部知識人に「理想の社会主義国」として教えられたりしていた東欧諸国の実態というものの一例をご披露しておこう。
その理想の国とされていた一つはルーマニアである。冷戦終結前にもルーマニアのブカレストには日本企業の駐在員事務所が置かれていて、少人数ながら日本人も家族連れで現地に赴任していたのである。このルーマニアは「ローマ人の国」を意味する国名からも推察される様に東独、ハンガリー、チェコの様な工業国家ではなかった。従って外貨を稼ぐには農産物や畜産物といったものの輸出しかなく、チャウチェスク独裁政権のもとでは農業国でありながら、国民には充分な食料は行き渡ってはいなかった。
その結果、現地では日本人家族に食べさせられる様な食料品の入手が難しく、近隣の先進国である西独から駐在員が出張と称して毎週のごとく西独で調達した肉、魚、野菜、パンといったものをコンテナーに詰めて代わる代わる運び屋をやったのである。勿論、私も運び屋をやったが、問題は入国検査である。ある同僚の西独駐在員は入国検査でその食料コンテナーの中身までを調べられて、係官に目の前でその中身をゴミ箱に捨てられたのである。勿論、そんな大芝居は誰が見てもみえみえであり、後でその貴重品である西側の食料品をゴミ箱から拾って係官の皆で山分けしたのは間違いない。辛いのはその運び屋出張社員の到着を家族と共に待ちわびていたブカレスト駐在員の「オマエは一体何の為に出張して来たのか」という落胆ぶりである。
それでも出張者は、一応は出張目的として現地政府の公団との輸出入の折衝をするという事になるのであるが、泊まるホテルも駐在員事務所も食事をする所も全てがアメリカ系のインターコンチネンタルホテル内だけの世界となる。つまり一歩そのホテルの外に出れば、通信のインフラから交通手段、レストランも何にもないただただ灰色の世界なのである。公団には事務所の車を使って出かける事となるが、相手は国営公団のお役人である。アポイントを取っていても、一時間いや二時間、暗い部屋の堅い木の椅子で待たされるのはざらである。出てくる役人どももどれもやる気のない、しかし高飛車な態度の腐りきった人間ばかりでうんざりする。案の定、この腐りきった独裁政権の末路は、無血民主化を成し遂げた東独、ハンガリー、チェコとは違ってあのテレビで何度も繰返し放映される事となったチャウチェスク夫妻の銃殺シーンである。
こういう事が当時日本のメディアが決して伝えなかった、しかし我々ビジネスマンがまず知り得た、「人間を幸せにする理想の社会主義国」の実態なのであった。国営化企業、計画経済、社会主義といったものがいかに人間の精神とモラルを腐らしてしまうものか、その本来の国民全体を幸せにすると言う観念的な目的からは大きくかけ離れた現実的な結果を導くものであるという事を、我々は身をもって体験していたのである。
欧州の現実
今回の8月の選挙結果から、日本も欧州先進国の様に少子・高齢化の問題を抱え、これからは高福祉国家の道を一途に目指して、市場経済重視の道には二度と戻らないであろうと思い込むのは早急であろう。英国では来年6月の総選挙で 13年ぶりに保守党に政権交代する可能性が高まってきている。43歳というキャメロン党首の人気が急上昇中である。このキャメロン氏は王族の血を引き、イートン – オックスフォードという絵に書いたエリートであり、長身、甘いマスク、弁舌爽やか、ユーモアあり、よき父親(2月に長男を亡くした事への同情あり)、自転車通勤という庶民性と、英国では申し分ない条件である。しかも、サッチャー流の新自由主義とは一線をかいて中道の道を行くとなれば支持層も幅広い。
もし英国で保守党政権へと交代すれば、フランス、ドイツに並んで三国揃っての保守政権となる。しかしながら、米国とは若干違い、保守政権が米国型の市場経済至上主義に走るという事は三国での政権交代の流れを見る限りあり得ないであろう。いずれも保守派の中ではやや中道路線を歩み、社会民主主義的な政策を維持していて、幅広い支持層を獲得しているからである。それではそうした明確な対立軸がない中で、何が政権交代をもたらしているのであろうか。どうも党首の外見、人気、人柄によるところが大きそうだ。
そこにはそれぞれ三国のお国柄の違いも見て取れる。フランスのサルコジ大統領はややあくの強い個性を見せ付けるし、ドイツのメルケル首相はいかにもドイツ的(牧師の娘で西独生まれ、東独育ち)な質素ないでたちである。メルケル首相はドイツでは党派を問わず、女性層の支持を完全に取り付けているらしい。米国から見ても、あのヒラリー女史の様な人を見下した、冷たそうな雰囲気で一種の緊張感をもたらすのではなく、メルケル首相の決してファッショナブルとは言えないな服装といでたちに、何となく癒される様で好感が持てるのである。
英独仏三国の政治を見ていると、日本との大きな違いの一つが、首班が日本の様にそうコロコロと変わらない事だ。それは一つにはドイツでの解散権の制約等の議会の規約上の要因もあるであろうが、やはりしっかりとした二大政党制というものが確立していて、日本の様に以前は自民党の中枢にいた人物が、今度はぞろぞろと民主党の中枢で権力を把握するといった大いなる欺瞞と矛盾がないからである、つまりあくまでも政策が中心であって、日本の様に政局を軸に選挙民が惑わされると言う様な馬鹿げた事が起こっていないからであろう。
もし英国で保守党政権へと交代すれば、フランス、ドイツに並んで三国揃っての保守政権となる。しかしながら、米国とは若干違い、保守政権が米国型の市場経済至上主義に走るという事は三国での政権交代の流れを見る限りあり得ないであろう。いずれも保守派の中ではやや中道路線を歩み、社会民主主義的な政策を維持していて、幅広い支持層を獲得しているからである。それではそうした明確な対立軸がない中で、何が政権交代をもたらしているのであろうか。どうも党首の外見、人気、人柄によるところが大きそうだ。
そこにはそれぞれ三国のお国柄の違いも見て取れる。フランスのサルコジ大統領はややあくの強い個性を見せ付けるし、ドイツのメルケル首相はいかにもドイツ的(牧師の娘で西独生まれ、東独育ち)な質素ないでたちである。メルケル首相はドイツでは党派を問わず、女性層の支持を完全に取り付けているらしい。米国から見ても、あのヒラリー女史の様な人を見下した、冷たそうな雰囲気で一種の緊張感をもたらすのではなく、メルケル首相の決してファッショナブルとは言えないな服装といでたちに、何となく癒される様で好感が持てるのである。
英独仏三国の政治を見ていると、日本との大きな違いの一つが、首班が日本の様にそうコロコロと変わらない事だ。それは一つにはドイツでの解散権の制約等の議会の規約上の要因もあるであろうが、やはりしっかりとした二大政党制というものが確立していて、日本の様に以前は自民党の中枢にいた人物が、今度はぞろぞろと民主党の中枢で権力を把握するといった大いなる欺瞞と矛盾がないからである、つまりあくまでも政策が中心であって、日本の様に政局を軸に選挙民が惑わされると言う様な馬鹿げた事が起こっていないからであろう。
ドイツ版不都合な真実
「関西の零細企業経営のオッサン」の方の記事を読み、まさに四半世紀前に私自身が経験した西ドイツでの高福祉の「不都合な真実」を思い出した。そこで現在の新政権が目指す高福祉政策の結果がいかなるものとなるのかの一例としてそれをご披露しよう。それはちょうど 25年前、即ち西ドイツが70年代からの社会民主党政権時代に確立した「高福祉政策」の頂点にある時代に、私がたまたま日本の製造業現地責任者として、本社が約 50億円を投じた150人規模の新工場を立ち上げ、工場を運営していた時の経験談である。
その際、一番苦労したのが日本とは全く異なる雇用関係である。そこで、営業関係はその分野で経験の深いもう一人の日本人に任せきり、この雇用問題に関しては信頼できるドイツ人の人事総務部長と製造部長の二人から色々教えてもらいながら、徹底的に取り組んだ。まずその法制面での実態とは以下の様なものである。
1. 解雇防止法で従業員は違法行為でもない限り原則的に解雇出来ない
2. 勿論、派遣労働なるものはなく、一時雇用はごく短期間に限定される
3. 労働時間は週35時間(当時)以内に厳格に規定され、残業なるものはそもそもない
4. 日曜日は工場の運転は出来ない(従って 24時間X 7日の連続運転は不可能)
5. 工場内に Betriebsrat と称する作業所単位での労使協議会の設置を義務付けられる
6. 原則従業員の人事雇用に関する事項は全てこの協議会での了承取り付けが必要
7. 現場従業員の賃金水準は企業の業績に関係なく、上部団体の産業別組合が決定する
8. 子供手当ては国から支給されるが、母性保護法により女性従業員の出産前後 14ヶ月は完全な有給休暇となる
まだまだ列記すれば限りないが、これが西欧先進資本主義国での「高福祉政策」の法制である。特にドイツ独特の労使協議会の存在により、従業員側のどういう人間が労使協議会の委員長になるかが経営上の成否を決める大きな要因となってしまう。労使協議会と言っても、日本の様な企業別労組と違い、上部団体の産業別労組の影響を大きく受けるのであって、いかに経営側が社内で協議会委員長と良好な関係を築こうが、合意に至らないケースも多く、その場合の最終決定は労働裁判所に委ねられ、裁判官の元に何回も足を運ぶという事となる。
今から考えれば、その後の冷戦終結によるグローバリズムの前であっただけに、旧東側体制や新興国からの安い賃金での輸入品というものも無かった時代であり、この高福祉からくる極めて高コスト体質の企業でもその当時は充分存立できたのである。当然ながらこの工場は現在では中国品等の輸入品とはとても競合出来ず、たちまち廃業となってしまっている。
それでは次にこうしたぬるま湯的高福祉政策が現場の従業員の態度にいかなる影響をもたらすかのいくつかの事例をご紹介しよう。
クライン・孝子さんの「大計なき国家日本の末路」にも書かれている様に当時の西独政府は東独政府に高額のお金を出して、西側に逃亡しようとした人間を西側に引き取っていた。我々の工場にも東独からの3名の人間が現場に雇用されていたが、人事部長と製造部長が声を揃えて彼ら3名の勤務態度を高く評価し、いち早く班長に抜擢したのはそのうちの一名であった。彼はポーランド生まれであったが、「私はドイツ人である」と胸を張って頑張っていた。彼は戦後ドイツから領土をポーランドに取り返された旧ドイツ領地域の出身であったのである。
これは何を意味するのか。もう既に高福祉政策の労働者保護の恩恵にどっぷり浸かっていた西独の労働者とは違い、職業選択の自由さえない東側体制から解放された喜びからか、彼らは一から頑張って、必死で勤勉に働いたという事である。
二番目は、これまた日本や米国で考えられない事であるが、平たく言えば有給での「病気ずる休み」がいくらでも可能であるという事だ。私自身も風邪気味で近所の医者で見てもらった事があるが、そこでドイツ人医師は「それでは休みは何日欲しいのか?」と聞いてきたのである。それは「病気であるから何日の休養が必要である」との医師からの証明書があれば、法律では有給休暇の枠外で、有給で何日でも休めるのである。本人が風邪の症状で辛い苦しいと言えば近所で仲良くしている医師とか親戚の医師であれば気軽にそういう証明は書いてくれるものである。悪意の従業員にかかると、ある時は医者を次々と変えたりしてこれを乱発させて、工場シフト体制に穴をあけてしまうのである。
もう一点は Schwarz Arbeit(闇労働)、つまり手厚い失業保険の給付を受けながら、同時に闇で働き続けて報酬を受取る事である。これは当局がなかなか失業者一人一人の実態をつかめない事から、相当蔓延していた様に思う。いわゆる家庭内のペンキ塗りや電気製品の修理等のいわゆるアルバイト的な仕事はほぼこの連中の活躍の場であった事は間違いない。
こういう高福祉・高負担社会であっても、それでもドイツは当時は西欧諸国では群を抜いて経済的に豊かなであり、先進であり続けたのは、いかにドイツ人の時間当たりの生産性が高く、いかにドイツ人が効率良く働くかを示すものである。しかしながら、そこまで生産性の高くない英国の先例では、経営者、従業員ともに自動車、家電、OA他の機械類などは自国内で作るという気概さえなくし、工業で成立っていた地方都市が次々と荒廃していったのはこの高福祉政策の結果である。まさに関西のオッサンの方が述べられていた「大なり小なり精神を冒され腐りつつある」と言う状態が現実におきていたのであった。
その際、一番苦労したのが日本とは全く異なる雇用関係である。そこで、営業関係はその分野で経験の深いもう一人の日本人に任せきり、この雇用問題に関しては信頼できるドイツ人の人事総務部長と製造部長の二人から色々教えてもらいながら、徹底的に取り組んだ。まずその法制面での実態とは以下の様なものである。
1. 解雇防止法で従業員は違法行為でもない限り原則的に解雇出来ない
2. 勿論、派遣労働なるものはなく、一時雇用はごく短期間に限定される
3. 労働時間は週35時間(当時)以内に厳格に規定され、残業なるものはそもそもない
4. 日曜日は工場の運転は出来ない(従って 24時間X 7日の連続運転は不可能)
5. 工場内に Betriebsrat と称する作業所単位での労使協議会の設置を義務付けられる
6. 原則従業員の人事雇用に関する事項は全てこの協議会での了承取り付けが必要
7. 現場従業員の賃金水準は企業の業績に関係なく、上部団体の産業別組合が決定する
8. 子供手当ては国から支給されるが、母性保護法により女性従業員の出産前後 14ヶ月は完全な有給休暇となる
まだまだ列記すれば限りないが、これが西欧先進資本主義国での「高福祉政策」の法制である。特にドイツ独特の労使協議会の存在により、従業員側のどういう人間が労使協議会の委員長になるかが経営上の成否を決める大きな要因となってしまう。労使協議会と言っても、日本の様な企業別労組と違い、上部団体の産業別労組の影響を大きく受けるのであって、いかに経営側が社内で協議会委員長と良好な関係を築こうが、合意に至らないケースも多く、その場合の最終決定は労働裁判所に委ねられ、裁判官の元に何回も足を運ぶという事となる。
今から考えれば、その後の冷戦終結によるグローバリズムの前であっただけに、旧東側体制や新興国からの安い賃金での輸入品というものも無かった時代であり、この高福祉からくる極めて高コスト体質の企業でもその当時は充分存立できたのである。当然ながらこの工場は現在では中国品等の輸入品とはとても競合出来ず、たちまち廃業となってしまっている。
それでは次にこうしたぬるま湯的高福祉政策が現場の従業員の態度にいかなる影響をもたらすかのいくつかの事例をご紹介しよう。
クライン・孝子さんの「大計なき国家日本の末路」にも書かれている様に当時の西独政府は東独政府に高額のお金を出して、西側に逃亡しようとした人間を西側に引き取っていた。我々の工場にも東独からの3名の人間が現場に雇用されていたが、人事部長と製造部長が声を揃えて彼ら3名の勤務態度を高く評価し、いち早く班長に抜擢したのはそのうちの一名であった。彼はポーランド生まれであったが、「私はドイツ人である」と胸を張って頑張っていた。彼は戦後ドイツから領土をポーランドに取り返された旧ドイツ領地域の出身であったのである。
これは何を意味するのか。もう既に高福祉政策の労働者保護の恩恵にどっぷり浸かっていた西独の労働者とは違い、職業選択の自由さえない東側体制から解放された喜びからか、彼らは一から頑張って、必死で勤勉に働いたという事である。
二番目は、これまた日本や米国で考えられない事であるが、平たく言えば有給での「病気ずる休み」がいくらでも可能であるという事だ。私自身も風邪気味で近所の医者で見てもらった事があるが、そこでドイツ人医師は「それでは休みは何日欲しいのか?」と聞いてきたのである。それは「病気であるから何日の休養が必要である」との医師からの証明書があれば、法律では有給休暇の枠外で、有給で何日でも休めるのである。本人が風邪の症状で辛い苦しいと言えば近所で仲良くしている医師とか親戚の医師であれば気軽にそういう証明は書いてくれるものである。悪意の従業員にかかると、ある時は医者を次々と変えたりしてこれを乱発させて、工場シフト体制に穴をあけてしまうのである。
もう一点は Schwarz Arbeit(闇労働)、つまり手厚い失業保険の給付を受けながら、同時に闇で働き続けて報酬を受取る事である。これは当局がなかなか失業者一人一人の実態をつかめない事から、相当蔓延していた様に思う。いわゆる家庭内のペンキ塗りや電気製品の修理等のいわゆるアルバイト的な仕事はほぼこの連中の活躍の場であった事は間違いない。
こういう高福祉・高負担社会であっても、それでもドイツは当時は西欧諸国では群を抜いて経済的に豊かなであり、先進であり続けたのは、いかにドイツ人の時間当たりの生産性が高く、いかにドイツ人が効率良く働くかを示すものである。しかしながら、そこまで生産性の高くない英国の先例では、経営者、従業員ともに自動車、家電、OA他の機械類などは自国内で作るという気概さえなくし、工業で成立っていた地方都市が次々と荒廃していったのはこの高福祉政策の結果である。まさに関西のオッサンの方が述べられていた「大なり小なり精神を冒され腐りつつある」と言う状態が現実におきていたのであった。
大計なき国家
「大計なき国家・日本の末路」 クライン・孝子著
この本を読んでつくづく感じた事がある。日本人はある程度米国に関しては情報や知識、体験に恵まれていて米国は比較的「近い国」であるが、ドイツに関してはそれらの面からは依然「遠い国」なのである。例えば自分自身の周りを見渡しても、親戚、友人の殆どと言って良いほど米国勤務や留学の経験がある。今の時代、永住権を持って米国に住んでいますといっても、日本人では何も珍しい事ではない。事実、カリフォルニア州あたりでは定年後そのまま帰国せずに永住している人や、あるいは定年後改めて永住権を取って移住する人までがかなりいる。しかし、ドイツに住んでいました、留学しましたという人にはそう多く会う事はない。日本人の欧州観光旅行でもまず行き先はロンドン、パリなのである。
そんな中でドイツに関する情報というものは駐在や留学でドイツに住んだ事のある人間にとっても、意外と限られたものである。一つにはドイツ語という言語の問題もあるだろうし、仕事の関係でドイツに住んでも担当範囲が、欧州全域とかで何事もドイツだけというわけにはいかない事もあるからだろう。クライン・孝子さんの本はそういう意味ではユニークであり貴重である。何よりも一般の日本人が知らない事実をジャーナリストとしての視点から細かく調べ上げている事であり、この本に書かれている戦後ドイツの悲劇や情報戦略・諜報機関といったものを今までどれだけの日本人が調査し、書き記したであろうか。
そもそも我々日本人にとって、ドイツという国は、米国という国に対する感情とはまた違った特別なものがあるのではないか。それは特にクライン・孝子さんの世代にとってはもう米国などとは比較にならない思い入れがあって当然だ。同世代の両国の人達が第二次大戦末期と戦後にどれだけ色々な問題で苦労をし、辛酸をなめさせられたか。そこに於いて、国のあり方や政治のあり方がどうあるべきかを体で学んだものを、今の若者、いや戦後生まれの我々さえも今一度ドイツの戦後体験を深く理解する事で学び取らねばならないと思う。
クライン・孝子さんの言いたい事を代弁すれば、ドイツの体験とは一言で言えば「現実は厳しい」に尽きるのではないか。外交・安全保障、情報戦略、教育、メディア、歴史認識、これらにしっかりと対処しないとそれこそ「末路」へと向かうという事だ。この本が出版されたのはきしくも政権交代により日本の新政権が生まれた時期と重なり、これら全ての面から見れば、今後ますます末路へと向かうという危惧を強めざるを得ない。ひょっとしてクライン・孝子さんはそれを随分前からお見通しで敢えてこれを書かれたのではないかと思う。米国に住む私が何故今、急に昔住んだドイツの事を繰返し思い返すかと言えば、それはひとえに「新政権の危うさ」からである。今日本が学ぶのは米国からよりもドイツからである点を深く深く再認識させてくれた名著である。
この本を読んでつくづく感じた事がある。日本人はある程度米国に関しては情報や知識、体験に恵まれていて米国は比較的「近い国」であるが、ドイツに関してはそれらの面からは依然「遠い国」なのである。例えば自分自身の周りを見渡しても、親戚、友人の殆どと言って良いほど米国勤務や留学の経験がある。今の時代、永住権を持って米国に住んでいますといっても、日本人では何も珍しい事ではない。事実、カリフォルニア州あたりでは定年後そのまま帰国せずに永住している人や、あるいは定年後改めて永住権を取って移住する人までがかなりいる。しかし、ドイツに住んでいました、留学しましたという人にはそう多く会う事はない。日本人の欧州観光旅行でもまず行き先はロンドン、パリなのである。
そんな中でドイツに関する情報というものは駐在や留学でドイツに住んだ事のある人間にとっても、意外と限られたものである。一つにはドイツ語という言語の問題もあるだろうし、仕事の関係でドイツに住んでも担当範囲が、欧州全域とかで何事もドイツだけというわけにはいかない事もあるからだろう。クライン・孝子さんの本はそういう意味ではユニークであり貴重である。何よりも一般の日本人が知らない事実をジャーナリストとしての視点から細かく調べ上げている事であり、この本に書かれている戦後ドイツの悲劇や情報戦略・諜報機関といったものを今までどれだけの日本人が調査し、書き記したであろうか。
そもそも我々日本人にとって、ドイツという国は、米国という国に対する感情とはまた違った特別なものがあるのではないか。それは特にクライン・孝子さんの世代にとってはもう米国などとは比較にならない思い入れがあって当然だ。同世代の両国の人達が第二次大戦末期と戦後にどれだけ色々な問題で苦労をし、辛酸をなめさせられたか。そこに於いて、国のあり方や政治のあり方がどうあるべきかを体で学んだものを、今の若者、いや戦後生まれの我々さえも今一度ドイツの戦後体験を深く理解する事で学び取らねばならないと思う。
クライン・孝子さんの言いたい事を代弁すれば、ドイツの体験とは一言で言えば「現実は厳しい」に尽きるのではないか。外交・安全保障、情報戦略、教育、メディア、歴史認識、これらにしっかりと対処しないとそれこそ「末路」へと向かうという事だ。この本が出版されたのはきしくも政権交代により日本の新政権が生まれた時期と重なり、これら全ての面から見れば、今後ますます末路へと向かうという危惧を強めざるを得ない。ひょっとしてクライン・孝子さんはそれを随分前からお見通しで敢えてこれを書かれたのではないかと思う。米国に住む私が何故今、急に昔住んだドイツの事を繰返し思い返すかと言えば、それはひとえに「新政権の危うさ」からである。今日本が学ぶのは米国からよりもドイツからである点を深く深く再認識させてくれた名著である。
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