2011年3月31日木曜日

「したたかな国」日本へ

「甦れ美しい日本」になって欲しいと思うが、同時に「したたかな国日本」にも是非なって欲しいと提唱したい。政治、外交とは本来「したたかなに振舞う」という事ではないかと思う。誤解を恐れず言い方を変えれば、目的の為には手段を選ばない「何でもあり」の世界だ。政治も外交も結果が求められているのであって、高邁な理念があっても結果的に国民を幸せにし、安全、安心を守り、国益を最大限追求するという事が実現できなければ、政治家にしろ外交官にしろいくら「死ぬほど努力しました」と言ってみたところで、評価されない筈だ。それはまた結果責任を求められるビジネスに於いてもあてはまるのは言うまでもない。この「したたかさ」において、小沢氏、小泉氏は日本の政界においては両雄にも思えて来るが、おそらく両者間の間では、お互い深く理解しあっている部分があるのではないかと思う。

外国に於いては、「したたかさ」と「何でもあり」と言う面において米国人は実に良く鍛えられている。それも東部、中西部の人間よりも西海岸の米国人の若者はトップクラスだろう。「米国人はこうだ」というのは巨象をなでる様なもので様々な面があり、なかなか勇気のいるものだが、それでも日本人との比較において、あるいは欧州人との比較において、と考えるとある程度的が絞られて来る。例えば、米国の企業での毎年恒例の給与交渉の例を上げてみよう。特に中小の会社で米国人社員一人一人と新年度の給与について業績評価とともに交渉するとなると彼らのその「したたかさ」が如実に出て実にシンドイ。小さい企業やあるいは事業所ともなると、一致協力して目的を達成するという事から、普段は社員の間である種の連帯感なり親密感というのも生まれてくるのはどこの国でも同じだ。しかし、一旦給与、即ち個人レベルでのお金の話となると彼らの人格ががらりと変わってしまうのには感心させられる。

もともと米国人は「沈黙アレルギー」の様なものがあって、例えばマンションのエレベーターの中で見知らぬ人と一緒になっても、目が合うとスマイルするのは勿論、すぐに何らかの意味のない簡単な会話が成立する。彼らは数秒間でも沈黙でいる事は居心地が悪いのだ。そういう米国人との交渉ともなると普段にもまして饒舌になり、また感情表現も豊かになる。彼らの交渉の武器になるのは往々にして社員一人一人に対して責任範囲が明確に決められているJob Descriptionという職務内容記述書だ。That’s not my job! 米国人の部下からこの言葉を聞かない上司はいないであろう。勿論、そう来るのは判っているので上司の側でも理論武装等の対抗策は準備されている。それでもああ言えばこう言うと、まあこれがコミュニケーションだと割切るしかない。

更には自分の満足が行かない結果となるとわめき散らすは(泣き出すのもいるらしい)、おきまりの「他社からオファーがある」とか言い出だすやら(そんならどうぞと言うのが良いが)、騒がしい。それでも、翌日あたりになると昨日の給与交渉の時の騒ぎは無かった様にケロッとしてまた再びスマイル&冗談で働いてくれるという所がまるでガキの様でもある。こんなのはまだまだ「したたかさ」にも入らないほどの序の口ではあるが、解雇されそうになると女房と幼子を事務所に連れて来て泣き落としするとか、有名なセクハラ訴訟の落とし穴等々生き延びる為の「何でもあり」の実例は山とある。

米国で事業をやり、ある程度の成功と収益を得ようとすれば、こういう米国人達と米国流でお付合いしなければならず、またそれに対するある一定の知識なり、経験なり、技術なり、度胸なりといったものも身に付ける柔軟性が求められる。何事も日本流で日本人の美意識と倫理観で物事を進める事が出来ないのであるから、そこは日本人であれ、欧州人であれ、より「したかかさ」が必要となる。

政治もしかり、外交もしかり。勿論、ビジネスでもしかり。ただただ米国流金融帝国主義(そんなものがあるのかどうか知らないが)を嫌いあるいは恐れるのではいっその事また江戸時代の鎖国に戻るのが良いのかも知れない。事実、あの恫喝威嚇を繰り返す隣人中国様との関係でも江戸時代あるいは戦後の冷戦時代の様に日本とはお互い鎖国状態であった時期こそが最良であったなどという説も充分うなづける。しかし、もう相互依存の国際化がここまで進めば後戻りは出来ない。上記の米国人との給与交渉の時の様に日本人側では呆れかえる様なキツイ、シンドイ事に対しても抵抗力をしっかりつけて、彼らよりもより「したたかに」なるのが最良であろう。米国流「したたかさ」にある程抵抗力のついた米国に住む日本人の人達からすれば、慣れてしまえばそれはそれで「あいつ(米国人社員の事)ら馬鹿だな」と仲間内での笑い話のタネともなり楽しいものにもなるのかも知れない。

2011年3月30日水曜日

あらためて小泉氏という政治家

小泉氏と小沢氏は宿命の政敵であろう、いや政敵であった。その政治手法は全く違うし、小泉氏にとっては小沢氏がいた角栄王国が構築した仕組や小沢氏の角栄式政治手法はその政治情念をかけた大改革の対象とさえも言えるものだ。しかし一方においては、近年に於いてこの両氏ほど「政治」というものの持つ「危険であやしい権力の魅力」を体験し、また知り尽くしている政治家はいないだろう。

小泉氏と小沢氏の政治手法の大きな違いは、小泉氏が言わば「一匹狼」的存在で、子分は持たず、派閥に依存せず、また政治資金にも「あまり」依存せず、ただただひたすら自ら発する言葉とメディアを通じての大衆人気を武器にして権力を手にしたところにある。しかし、こうした大衆人気と言うのはハヤリの言葉を使えばsustainable(持続可能)ではないゆえに、権力維持は単発的であり、その身の振り方も当然「闇将軍」的存在の小沢氏とは全く違ったものとなる。大方の選挙民というのは選挙行動においては「移り気で、無知で、愚か」でさえあるのは、2000年以上前の都市国家アテネの民主制度から何も変わらない。それを小泉氏も小沢氏も熟知しているのだ。

小泉氏の政治的情念は、田中角栄氏が作り上げた構造の根本改革、即ち「郵政民営化」と「道路公団民営化」への挑戦に注がれた。この「構造改革」とは、塩爺こと塩川元財務大臣がいみじくも述べた「母屋がおかゆすすっているのに離れですき焼きを食っている」と言う表現の通り(母屋=一般会計、離れ=特別会計)、一般会計である国の財政が逼迫している時に、特別会計で大きな無駄遣いをしているという仕組の大改革だ。具体的には、郵貯、簡保、年金を通じて国民から吸い上げた潤沢な資金を、特別会計として国の予算とは別に旧大蔵省が公庫、政府系銀行、特殊法人(道路公団等)に投融資した仕組である。こういう仕組が日本にある事を聞いた司法関係の米国人は腰をぬかさんばかりに驚いた「あり得ない!」と。

この仕組は戦後の日本においては、国民生活の向上とインフラ整備には確かに効率的に機能した。しかし民間企業の活力がついていく中で時代にそぐわなくなり、存在意義がなくなってきた。この仕組はまた、官僚の采配によって投融資が決まるので、あの「かんぽの宿」に象徴される様な無駄使いや資金の流れが出てくるのは言うまでもない。一方、この資金は霞ヶ関の官僚の天下り先にも流れていくものであった為、官僚が抵抗勢力となっていた。従い、小泉氏の持つ強い政治主導がなければ、この改革は出来なかったであろう。

郵政民営化については色々な立場と見方はあるだろう。しかし、あのままの集金組織を維持して、それを集票システムに活用し、更には自民党内での自らの権力基盤の維持に活用してきた田中角栄式政治手法はあきらかに時代にそぐわぬものとなって、あの時点での自民党の致命的な崩壊につながったであろう。その事が自民党総裁自ら「自民党をぶっ壊す」と叫んだ意味だ。あのシステムが角栄派、経世会の党内での権力維持に寄与してきたのは、システム崩壊とともに派閥が解体状態になっている事から明白である。

また民営化によって日本国民が貯蓄した莫大な資金が米国に騙し取られるとのナイーブな意見さえ出てきていたが、これはお笑いものだ。開かれた国際金融社会での恩恵を日本人や日本企業が受けていながら、一方では自らは鎖国状態にするというのは金融の国際化、自由化の時代には最早通用しない。我々個人でも日本企業でも米国や欧州に投資をし、そこで上げた利益を充分吸い上げ持ち帰る事が可能な開かれたシステムだ。この流れに逆らおうとするのは、ちょうど迫り来る列強の前に怯える幕末の攘夷派と同じ感情論である。要はその様な厳しい国際金融競争にも耐えうる様な体力と体質、抵抗力を作っておく方が重要である。

私はこの小泉改革の果たした日本の政治史上での意義はやはり大きかったと思う。と同時に小泉氏の政治家としての見識、情熱、力量を素直に評価したい。勿論、我々には政治の動きの全てを知る事は出来ない。またその水面下の見えない部分は想像すら出来ない事も多い。それがゆえに政治家を評価するにはその政治家個人が果たして「人間として信頼できるかどうか」、これで見極めるしかない場合もある。それを賢明な国民は知っている筈だ。

2011年3月29日火曜日

あらためて小沢氏という政治家

『小沢党首、核武装可能と中国けん制』〔日本経済新聞〕 2002/4/06
自由党の小沢一郎党首は6日、福岡市内で講演し、軍事力増強を続ける中国を批判して「あまりいい気になると日本人はヒステリーを起こす。核弾頭をつくるのは簡単なんだ。原発でプルトニウムは何千発分もある。本気になれば軍事力では負けない。そうなったらどうするんだ」と述べた。2002年の話とは言え、あの中国様を恫喝するという、今の政界では誰も出来ない何とも勇ましく力強いご発言である。

そう言えば、小沢氏は自由党党首の時にはこういう外交スタンスで政治主張をしていた記憶がある。つい 9年前の事だから、小泉政権の絶頂期に田中真紀子外相を更迭して支持率が少し落ちた頃の話だろう。小沢氏はまた1990年の自民党幹事長時代、湾岸戦争勃発時に自衛隊をペルシャ湾に派遣すべく「操り人形」の海部政権に法案を提出させた。しかし、これは廃案となり国連の元で活動をするPKO法案となって自衛隊の海外派兵への道をつけた。これほどの親米タカ派であったのが今ではとても信じられない。当時、TV朝日のサンプロで田原総一朗氏の質問に「日米安保において米国の兵士が日本を守る為に血を流すならば、逆に日本は米国の為に何もしないで良い、というわけにはいかんでしょう」と述べて、集団的自衛権にまで踏み込む勢いでの積極的な米軍支援を主張した。

その後、小沢氏は1993年の細川政権成立から紆余曲折を経た後、2003年の民主党との合併を経て、2009年の政権交代実現へと大きな政治力を発揮した事は記憶に新しい。政権交代後は一転して、普天間基地移設に関する駐留米軍問題では「日本の防衛には第7艦隊だけで良い」発言もあり、当時の鳩山首相の普天間県外移設、国外移設を後押しした。まあ一言で言えば安保面での180度方向転換であろう。また2009年年末にはすっかり有名となった143名の民主党議員団を引き連れての中国詣を行い、胡錦涛主席と議員一人づつ全員との連続ツーショット記念撮影を実現させるほどの親中ぶりを見せ、更には習近平氏の天皇会見ごり押し問題へと発展させていくのである。まさに小沢氏に向ける胡主席のお顔は「おぬしも悪よのー」だったであろう。

こうした小沢氏の過去の動きを振り返って見れば、現実の政治というものは「理念」というよりも「権力」に重きが置かれるべきものであり、「権力なければ理念の実現は不可能」であるという真実を見せつけられる。即ち、権力を先ず手に入れる為には理念はその時々の政局で猫の目の様に変わってもそれはそれで割切るべきものの様にも思えてくる。

そうなれば、結局は2009年の政権交代というもは1993年の細川政権樹立の時と本質的にそう変わっていない様に思えてくる。その本質とは「小沢氏が主役であり政変の軸」であって、選挙を通じて権力を得る為には「旧社会党系、民社党勢力をどう取り込むか」という事だ。2009年の政変が1993年のものと違うのは、公明党が入っていない事と、抵抗勢力と言われた連中が自民党の主役の座から落とされている事だろう。思い起こせば、その自民党(抵抗勢力が主役の時代の)でさえ、1993年の政変で野党に陥落した後は「社会党」そのものを取り込んで政権を取り返して何とか生き延び様としてきた歴史がある。

さて現在はその小沢氏ナシの言わば「旧社会党系」が主役の中心である民主党政権となっているわけである。政権交代を望んで民主党に投票した人達の一部からすれば「話が違うぞ」との違和感は拭えないだろう。従って、「理念よりも権力」を理解しているオトナの人達からすれば、小沢氏待望論が出てきても不思議ではない。震災復興を論じる先週の朝ナマでは最後に田原総一朗氏はじめ討論参加者の中から「小沢さん早く出てきて東北復興して下さーい」と小沢待望コールさえ出て来ている。もうその雰囲気からは刑事被告人などというタイトルはなきに等しい。

私の立場は小沢氏待望論者でもなく、また頑強に小沢氏を否定するものでもない。ただただ冷静に、冷ややかに、真の日本の再生に果たして「この小沢氏は必要なのかどうか」という一点を見つめるだけである。常に小沢氏の存在は「政治とは何か」を深く考えさせられるものである。

2011年3月28日月曜日

無防備な国、日本

香港で最大発行部数をほこる繁体字(従来の漢字)中国語の「東方日報」の社説である。
中國在日本國難之時出兵釣魚島
http://orientaldaily.on.cc/cnt/china_world/20110319/00182_001.html

普通の日本人には、中国語が判らなくともこの意味は一目瞭然だ。「中国は日本が国難にある時にこそ尖閣諸島に出兵を」と言う意味だ。中国人はこういう事でも躊躇なくやらねばとても生き残れないという厳しい現実の世界に常に直面してきていたのだから、別段驚く事ではない。河野太郎氏のブログで自衛隊の災害支援出動部隊名が全て記載されていたが、海上自衛隊の艦船の相当部分が東北沖にはりついていれば自ずと尖閣付近の防衛は手薄となるのは子供でも判る話だ。戦後の武装解除後のドサクサに北方領土を占領したソ連、ポルトガルからの独立運動の騒乱を機に東ティモールに侵攻したインドネシア軍、相手の危機に乗じて領土に攻め込むのはいつの世も常套手段である。

いや、尖閣の防衛だけではない。今回の大震災で日本の国防上の弱点が脆くも露呈してしまった。実際に日本に陸軍部隊を投入せずとも、一発の核弾頭あるいは核テロなどで東京都心に高濃度放射性物質を飛散させれば日本全体は直ちに機能マヒとなってしまう事があらためて判ってしまったからだ。

1964年に大ヒットした映画「007ゴールドフィンガー」では米国の保有する大量の金塊を放射能で汚染させ半永久的に使えなくしてしまうというストーリーがあったが、現代はそんな面倒な事をせずとも、証券・金融取引を一括で管理、制御するシステム(そんなもの実際にがあるかどうかは知らないが)が高濃度の放射性物質で汚染されてしまえば、即座に日本経済はマヒしてしまい、日本国内のみならず海外との取引も不可能となってしまうだろう。みずほ銀行の ATMシステムが東北地方の災害救援の義援金振込みラッシュだけで、平時においても数日間トラブルを起こし日本国内のみならず海外取引にも使用不可となってしまったのがこういったシステムの脆弱性の表れだ。この銀行は三菱東京UFJと三井住友に比べ、システムに関するリスク分散には全く無防備であった事が判った。

原発事故での放射性物質の拡散被害が本当に首都圏まで及ぶという深刻な事態ともなれば自分の身だけは海外へ逃避させるという事は可能であろう。しかし、こういった金融システムまでもが放射能汚染によって長期間機能マヒともなれば、金融資産の現金化や海外への送金も不可能なものとなってしまい、海外での当座の生活資金さえ手当てがつかなくなってしまうのである。こうしたまさに最悪の事態が富裕層の人達の頭によぎらなかったと言えばウソであろう。そうなれば残るは自らの資産の海外へのリスク分散を図らねばならないという事になるが、それも日本の金融機関を通じての海外資産購入では結果は同じである。自らが事前に海外に出向いて、しかるべき購入手続を現地で行っておく必要が出て来る。

その点、米国では2008年のリーマンショック以降不動産は急落して現在の価格水準は底であると言われているから、ドル安、市場価格安のまたとないチャンスではある。また米国なら不動産の流通市場も発達していて、換金化が必要な時は比較的簡単に行える。首都機能分散の分散先は日本国内に限定されているが、個人資産のリスク分散先は今回の事例を教訓にするならば海外という事になろう。

と、ここまで書けば、あいつは米国の不動産業者のまわしものか、あるいは外資系投資信託会社のまわしものかと疑われるであろう。勿論、私自身は米国への分散投資を勧めも、否定もしない。しかし、今回を教訓にこういった事までのリスク対策の検討すらしないのはあまりにも無防備で危ない。常に起こりうるであろう最悪の事態を念頭において冷静にリスク分析を行う事は、いたずらに周辺に危機感をあおり、不安感を増大させる事ではない。検討した結果をどう判断し、実行するかしないかは100%個人の自己責任においてである。

そういえば早速商魂たくましい米国人不動産業者から被災支援の呼びかけと同時にちゃっかりと日本人を対象とする不動産の売込みを行うというメールが入っていた。なんとも米国的だ。

2011年3月27日日曜日

首都機能分散(ドイツに学ぶ)

「首都機能分散」といった課題にでもドイツの先例がある。先例といってもドイツは地震大国ではない。それは、この国が1871年のドイツ帝国成立前までは王国や公国・侯国、司教領という地方を基盤に成立っていたという歴史と、第二次大戦後の東西ドイツへの分裂そして 1990年の統一という経緯への流れを物語るものでもある。統一ドイツの首都はベルリンではあるが、現在でも西独時代の首都であるボンに教育省、環境省といった連邦政府の6省庁が置かれている。つまり首都機能は分散されている。

ボンはライン川河畔の人口約 30万の小都市であるが、そもそも西独時代にこのボンを首都としたのは、(1) 将来の統一後にいつでもベルリンに首都を移せる様に暫定として小都市を選んだ (2) 戦前の第三帝国時代のベルリンのイメージを払拭する為に対照的な小都市を選んだ、という事だ。本来、ドイツは西独時代から各州(統一後は16州)の地方自治を基盤とする連邦制の国家であり、日本よりも数段進んだ「地方分権」の国家である

それでは何故統一後もボンに一部の省庁を残したかと言えば、それはまず連邦議会での僅差での議決により、1994年に制定されたベルリン・ボン法に基づくものである。議会での表向きの議論では、ベルリンとボンに省庁が分かれる事で生じるコストと、ボンの省庁全てをベルリンに移動させるコストとの比較、更には全省庁移動に伴うボンの経済的な衰退を防ぐという事も含めて総合的に検討された。その結果議会は敢えてボンに政府機能の一部を残すと決めたのだ。

しかしその背景にある、(1) 1871年のプロイセンによる統一ドイツ帝国成立は当時の英仏露墺の列強に対抗するものであったが、その後その強力な中央集権国家というものが結果的に第一第二の大戦での敗戦をもたらしたという事からの反省と知恵がある事 (2) 戦後の東西分裂の象徴として忌まわしい記憶の残るベルリンよりも、長い間の平和と繁栄をもたらした西独と言う国家の首都ボンへの人々の思い入れがある事 (3) また同時にベルリンは新興軍事国家プロイセンの首都、ボンはケルンと並び文化芸術のラインラントの中心、という歴史的な風土と人々の気質の違いがある事、なども見逃せない。

従って、繰り返すがドイツのケースは災害リスク対策の為の「人工的な首都機能の分散」ではない。歴史の流れの中でのごく「自然な政治的選択の結果」であり、その根底にはしっかりと根付いた「地方分権制」が確立されているという観点で見るべきだ。もともとドイツの良さというものは英国のロンドンやフランスのパリといった様な大都市にはない、分散された各都市における「静かで落ち着きがあり自然に恵まれた環境」にある。また同時に戦後の西独の経済的繁栄はこの計画的とも思われる程見事に分散された都市機能にある。即ち、それは前々回にも述べた通り、ほぼ 200kmごとの距離にある Hamburg, Hanover, Düsseldorf/Köln/Bonn, Frankfurt, Stuttgart, Münchenに代表される主要都市での個性豊かでかつ均等な繁栄である。

私個人もベルリンには観光で行くには良いとしても、とてもあの大都市に住む気にはならない。欧米の大都会というものは、必ず外国人労働者との摩擦、治安の悪化、物価高が付き物であるからだ。米国とて同様で、普通の平均的米国人は決して大都会には住みたがらない。郊外にある中小都市の静かで安らかな環境での生活と、子供達へのより高い教育水準を求めるのは同じだ。

振り返って、東京首都圏はその比較においては国際的に見て異常だ。第一、東京の様な都市の狭い空間でしかも狭いがゆえに常に周りの目を気にしながら画一的に育った子供達が将来どういう人間になるかの方が心配だ。経済界でも個性的な活動をしている人材は全てとは言わないまでも関西や九州で育った人間が多い。ソフトバンクの孫氏、旧ライブドアの堀江氏、楽天の三木谷氏、ファストリの柳井氏等、皆さん学生時代に東京で勉強をしたかも知れないが、生まれ育ちは伸び伸びとした環境のある関西以西である。東京で育った子供たちは子供の頃から既にこじんまりとサラリーマン化してしまっているのではないかと心配になる。

今回の大震災の教訓として、大災害による国家的リスク回避の面から首都機能分散の具体化を急ぐ必要があるが、同時にこれによって懸案となっている地方分権化の推進を図り、有形無形の形で日本全体を再活性化させるという側面も出て来る。一体、民主党政権になってこの地方分権化なるものが政治主導でどれだけ進捗したのであろうか。いや政治主導なるもの自体は全くなく、地方分権化は完全に後退してしまっているのが実態だ。「首都機能の分散」と同時に「民主党政権の霧散」が日本の復興再生への第一歩かも知れない。

2011年3月26日土曜日

シュレーダー前首相

ある読者の方から、昔ドイツのハノーファーに行かれた事があるとのコメントを頂き、ふとその地域が政治基盤であったシュレーダー前首相の事を思い出した。シュレーダー前首相はばりばりの SPD(社会民主党)党員で、元学生運動の闘士であり、またあの有名なドイツ赤軍派テロリストの弁護士もしたというほどの筋金入り左翼だ(った)。その輝かしい経歴が示す様にこの前首相の面構えと低音の声はドスが効いている。この点、同じ国のトップにありながら弱い立場のものには怒鳴り散らしていばるが、肝心の危機に際しての国民の前や、外交舞台では借りてきた猫の様に弱々しい小心者の「逃げ菅」総理とは対照的だ。

しかし、シュレーダー氏は堅物一方のガリガリではない。そのドスの効いた顔付きには少し似合わないが、首相就任当時にはやりだした三つボタンの背広をいち早く着こなすおしゃれだ。またドイツ人らしくきちんと計算した様に12年ごとに離婚と再婚を繰返し、現在の美人のドリス夫人は 4人目である。この夫人とはすでに12年を過ぎている頃だが、さすがに氏もまもなく67歳だけに5人目というわけにはいかないだろう。

欧州ではこういう私生活面の事はその政治家の評価には全くといって影響しない。一昔前のフランスのミッテラン元大統領の愛人発覚時での「それがどうした」発言や、あるいは最近のサルコジ大統領の愛人騒ぎなどからも明らかである。またサルコジ氏と大統領選で戦った社会党党首のロワイヤル氏(女性)は正式な婚姻関係のない党員仲間との間に4人の子供がいたり、高校に無償の避妊薬を配布するなどのウルトラリベラルである。

愛すべきフランス人の名誉の為に言っておくが、何事もお堅いドイツ人でもそのリベラルさは同じだ。現在のメルケル政権の No.2である副首相兼外相のヴェスターヴェレ氏はゲイである事を公表し、現職についてからは男性パートナーとの正式な結婚式を挙げている。しかし、この事が政権に影響を与えたという事はない。現在のメルケル政権の不人気の理由はPIGSへの巨額の財政支援であろう。この点、ニュージャージー州知事がゲイである事がカミングアウトしてたちまち失職に追い込まれたという「保守的な」米国とは事情が違う。

さて1998年の CDU連立からから SPD連立への政権交代ではシュレーダー政権には緑の党(正式には同盟90/緑の党)が加わった。その緑の党から副首相兼外相として入閣したフイッシャー氏も学生時代は過激派に属し、議会には薄汚れたジャケットやスニーカー姿で登壇したユニークな存在だ。このフイッシャー氏も5度ほど(正式な)離婚暦があり、私自身の記憶では80年代初めに議会でトレードマークのスニーカー姿で登壇した際には確か英語ではAXXXXXXを表す言葉を発していたのを憶えている。

そんな左翼過激派コンビでも政権に就けば就いたで大いなる変身をせざるを得ないのはどこの国でも同じだ。特に国防安保面では鳩山氏の迷走普天間発言の様な愚かで世間知らずな事などは絶対しない。早速1999年の NATOによるコソボ空爆をいち早く支持し、また 2001年の米国によるアフガン侵攻も躊躇する事なく支持してNATO体制下のドイツ連邦軍を派兵までした。当時この変身ぶりについて知合いのドイツ人と話した時に彼は「いつまでも過ぎ去った過去の左翼過激派の立場にこだわり続けるバカはいないよ」と極めておおらかであったのを憶えている。彼は多くのドイツ国民と同様政権交代を支持していた。

それにしても何事も中途半端なのが菅政権である。あれほどまでも徹底したドイツの左翼過激派が、政権につくや国防安保面ではこれも徹底してタカ派に変身するというのとは大違いだ。被災現場で連日ご苦労されている自衛隊員の皆さんには、吉田茂元首相が防大第一期生の卒業式で述べた名言通り、こんな菅政権でも「皆さん、辛抱して欲しい」といつまで言い続ける事ができるのだろうか。

吉田元首相の防衛大第一期生卒業式での祝辞
「自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時や災害派遣の時なのだ。言葉をかえれば、君達が日陰者である時の方が日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい」

2011年3月25日金曜日

首都機能分散


今回の大震災では肝心の被災地である東北地方の事と並行して、福島原発からの放射能もれがどれだけ首都圏に被害を及ぼすかという事にも焦点があてられていた事が危機の特徴だ。勿論、自衛隊はじめとした組織的な支援活動の面ではその焦点は物資、輸送、人員、機器等は東北地方に向けられている。しかし、メディアや internetの世界では多くの人々の心には「東京はどうなるのか、それによって海外までもどうなるのか」という言わば「東京中心の我欲」に左右されている。これでは被災地の東北地方の人達にとっては正直なところ何ともやりきれない気持ちであろう。しかし、現実は日本の場合、政治、経済、文化、教育等であまりにも異常に過度に全てが東京に集中してしまっているからいたし方のない事だ。

海外でも例えば俗に言う、ニューヨーク、パリ、ロンドンと言った大都会に物事が集中している例はあるが、それでも東京ほど過密ではない。特に米国は国土が日本の約25倍あり、カリフォルニア州一つだけでも日本よりも大きい面積である。従い人口密度をざっと計算してみても国全体平均では約10倍(人口は約3億人と 1.2億人で2.5倍)となってしまう。これに更に東京への過度集中という事を考えれば、実際の皮膚感覚的なものでの東京の密度比較は50倍くらいになるのではないだろうか。またドイツでは首都ベルリン以外ではハンブルグ、ハノーヴァー、ケルン・ボン、フランクフルト、シュトットガルト、ミュンヘンがそれぞれが計算された様に約200km程度の距離に適度に分散されていて各都市での過密感は差ほどない。欧米人がビジネス出張で東京に行くとなれば(1) 満員電車 (2) 背広&タイ、更に夏場は (3) 湿気の「三重苦」を覚悟しなければならないとうのは笑い話ではない。

さて、今回の教訓を活かして国家レベルでの災害リスクの分散を考えればそれは即ち「首都機能の分散」につながり、具体的には「大阪の副首都化、第二首都化」が喫緊の課題となるだろう。更には夏場、いや相当期間の東京首都圏の電力不足により計画停電も予想される。これを機に橋下知事が提唱してきている「大阪市の府への統合による大阪都構想」や「伊丹空港廃止跡地への第二霞ヶ関誘致」がにわかに現実味を帯びてきた。候補先の面での第三の都市名古屋は近くに危ういとされる静岡の浜岡原発がある事と、東海、東南海地震の事を考えれば大阪には分が悪い。しかし、それを打ち消す様な勢いの河村・木村両氏による地方政治の変化もある。何しろ東京首都圏で (1) 大地震 (2) テロ (3) 疫病 が一旦発生すれば、たちまち日本全体がマヒしてしまう事につながり、国防上も軍事攻撃の目標として弱点をさらけ出している点で極めて危険だ。

一方、外国人と東京人からの目でみれば、大阪を含む関西というのは様々な魅力がある。一つは食物であり、肉類も魚類もその素材の味は圧倒的に関西の方が上質だ。また海と山に挟まれた阪神間の空気や水道水の味も一呼吸、一口で東京都心とのその違いが判る。第二は伝統文化であるが、京都奈良の歴史文化遺産、これはもう圧倒的だ。第三に大阪は過密だがその度合は東京ほどではなく京都と神戸との適度の分散で比較的効率的だ。第四に関西各都市はミニ東京にはならないアンチ東京の独自の個性があり、お笑いに象徴されるサブカルチュアもその一例だ。第五に関西空港は成田空港に比べる中心地へのアクセスがより近く、イタリア人デザインによると言われる空港建屋自体の空間の広がりと建築センスは羽田成田を上回る。後は大阪も東京の様に公共交通機関におけるマナーがより整然となる事を望むくらいだ。

これらの面からか、欧米企業でも例えばドイツのバイエルや米国の P&Gといった大企業は関西に拠点を置いている。良く聞けばどうやら日本に派遣されて来る欧米人幹部には関西圏、特に阪神間の方が首都圏より自然があって暮らし安いというのが本音の理由らしい。

東京一極集中は戦後日本の経済効率と画一性の重視がもたらした弊害であろう。仮に石原知事が再選されれば「東京の我欲」を捨て、橋下、河村両氏と協調して首都機能分散と地方分権化に協力してもらいたいものだ。更に何よりも大事な事は国政の強力なリーダーシップだ。「ズル菅」「逃げ菅」「隠れ菅」ではとてもその重責が担えない事が今回完全に露呈した。今回の大震災を教訓に欧米人の目から見ても異常なこの東京一極集中が大きく緩和され、政治の正常化によりまともな国日本に再生される良い機会が来ていると前向きに考えたい。

追記: 3/26早朝のテレ朝「朝ナマ」にて大塚耕平厚生副大臣が「政府として首都機能分散の検討をする」と明言。

2011年3月24日木曜日

ルース大使

ルース米国大使が東北地方の被災地現場を訪問し、避難所で見知らぬ子供と温かみのあるハグをしたり、被災者達を前に涙声で感想を漏らしたりする様子が映像で伝えれている。同時に大使館側ではルース大使の Twitterアカウントを使い日に10回くらいの頻度でさかんに大使の被災地訪問の感想やあるいは米軍の支援活動の様子を刻々と伝えている。この点は雲隠れしたのか被災者達の前どころかメディアの前にさえ全く姿を現さないという「異常、無能」な菅総理とは対照的だ。

ルース大使はサンフランシスコ生まれで、名門スタンフォード大学卒業のトップクラスの弁護士だ。オバマ大統領によるルース大使の指名は、大統領選での選挙資金集めに尽力した功績からというのが理由にあげられているが、おそらくそれだけではないだろう。本命とされていたジョセフ・ナイ教授があまりにも知日派であって日本とのパイプが皆無に近いオバマ氏にとっては使いにくいという事と、何よりもこのルース大使の政界には汚されていないフレッシュな柔軟性と身のこなし方によるところが大きいのではないかと思う。

ルース大使は本来、極めて有能、優秀な米国の弁護士である。弁護士は弁護士としての能力と適性と経験が求められる一方、相手側との交渉、駆引き、論争という面からその身のこなし方というのも重要な要素である事は言うまでもない。また究極的には交渉相手側をもうならせてしまうほどの卓越した、信頼できる人柄というのも事と場合によっては大事だ。欧米でのビジネスではとても日本の比ではないほどの頻度と濃度で弁護士を起用し、また弁護士と接触、相談する機会が増える。例えば企業にとっては、会社設立からはじまり合弁契約、委託生産契約、ライセンス契約、長期供給契約、総代理店契約等の契約書は、その企業や事業の存立そのものに関わる最重要事項ともいえるものである。

そうした契約交渉の事前準備においてはドラフト、つまり原稿段階での顧客との綿密な協議と作戦準備というものが求められる。そこにおける弁護士側の腕のみせどころはいかに徹底した「性悪説」に徹する事が出来るかどうかにかかってくる。ありとあらゆる「想定外」のケースに備えて、顧客側での不測の事態においても顧客の利益を守り通すというのがプロとしての職務だ。例えば、契約書において、「この契約書に取り決められていない事態が発生したら、契約当事者間において誠意を持って話合い、問題解決にあたる」などと言う文言が良く見られるが、これは本来契約書の趣旨ではない。それはまず、何を持って「誠意」というのか、いかなる形での「協議」を示すのかが極めてあいまいで具体的ではなく、ただの心の慰みでしかないからだ。

本来、性悪説というものは相手側に最大の悪意があると決め付けての事を前提にしての立場であるから、それを前提での交渉では当然の事ながら相手側に不快感を味あわせ、傷つけ、不信感をあらわにする事にもつながりかねず、そうなればお互いが感情論になって本来の契約自体が成立たなくなるという結果につながりかねない。そこでは交渉時における交渉当事者としての人格や魅力、身のこなし方、場合によっては「演技」も重要なものとなってくる。一言で言えば「衣の下の鎧」をいかに上手にきれいに優雅に隠し通せるかという事だ。

おそらくルース大使の弁護士としての有能、優秀さはこういう「真摯で誠実」(そう)な人柄によるところが大きいと見ている。外交交渉を表してよく「机の下での足の蹴りあい」と言われるがまさにこれも同様だ。高級ワインを飲みながら、相手側の知識、経験、キャパ、人格、信頼性全てを冷静に見定めるのはビジネス面でも全く同じである。まあ一言で言えばビジネスマンからすれば菅氏の様な人物が相手の交渉では、これは「要注意」「信頼できない」「ずるい」とされるのは間違いない。と同時にこちら側からすれば逆に「無能で弱い」人間だから、この際徹底的に攻撃に出られるとも判断できる相手だ。

こうなるとルース大使が流した被災現場での涙というものは、果たしてその人柄からのものか、職業上のものであるか、あるいはその混合型のものかどうかが判ってくる。

2011年3月23日水曜日

相信希望

18日に台湾の台北において東日本大震災の被災者支援の為に、台湾メディアと赤十字会が合同でチャリティーイベントを開き、4時間半の間に約7.8億台湾ドル(約 21億円)の義援金を集めた。このイベントには馬英九総統夫妻や日本からは中田英寿氏とジュディー・オングさんも寄贈品を持って駆け付け、200人もの芸能人が参加して募金を呼びかけた。中には iPhoneのOEM製造会社として有名な鴻海精密工業の郭台銘会長が個人で 5億円もの寄付をしたという話も流れている。更にイベントの番組終了後も個人、企業、団体からの寄付の申込が後を絶たず、22日の4日間で合計は何と倍の41億円にも達した。

この金額は、台湾の人口が約 23百万人で日本の人口の128百万人はその5.5倍となるから日本に置き換えると225億円にもなるものである。果たして逆の立場であれば日本が台湾の為にここまでの義援金を集める事が出来るであろうか大いに疑問である。もとより日本政府は常にあらゆる局面で中国政府の横槍によって台湾には冷淡で何かと不義理をしてきている。有名な話としては1999年の台中地震の際に援助隊を派遣しようとした日本政府に対し「台湾は中国の領土だから、日本から台湾への援助は中国政府を通せ」と中国政府が注文を付けた事だ。当時は自民党政権だったので、こういう馬鹿げた話の相手はしなかったが、今はあの尖閣での「中国への配慮第一」の民主党政権だ。

今回は台湾側が前回の恩返しとして地震発生後即座に救援隊の派遣を日本政府に申し入れたが、菅政権は「中国の援助隊より先に来られたのでは中国の面子が立たない」としてであろうか、何と台湾隊に2日間もの待ちぼうけを食らわしたのだ。漸く台湾の援助隊が羽田に到着出来たのは中国の援助隊が到着した13日の翌日、災害発生後3日目の14日の事である。しかし、こういう菅政権の非礼な仕打ちにも拘わらず、本国台湾では台湾国民が全土を上げてのチャリティーイベントに応じ巨額の義援金を集めてくれたのである。まさに感動感激である。

更に問題なのは、こういった人道的で本当に心温まる義援金の事について産経以外の主要メディアは一切報じていない事である。事実、これを私が知ったのはTwitter上で勝間和代氏が「日本のテレビで全然紹介されないので是非拡散ご協力を。台湾の皆さん熱すぎます!!! 【台湾総統も参加、4時間半のチャリティー番組で義援金21億円】 http://goo.gl/QCF1i 実際の放送→http://www.youtube.com/watch?v=riGtH4BKX1Y(全文そのまま)と19日にツイートしてくれたからだ。因みにこのリンクされたサイトはマイクロソフトと産経デジタルが共同運営しているinternet newsのMSN産経ニュースのサイトである。

確かにこれ以外の主要メディアは一切報じていない。中国政府の日本の報道機関への規制管理は見事なものであるが、日頃国内では「報道の自由」を大声で叫びながら、外国政府の干渉を簡単に受け入れるメディアもメディアである。これが、昨日の「あらためてTwitter」で述べた通り、既成メディアの終わりを暗示する実態だ。もうこうなれば、我々普通の常識を持つ国民は勝間氏の様な良識的なツイートとブログとYouTubeさえあればそれで良い。Twitterは様々な面で既成メディアを更に駆逐して行くであろうから。

最後に読者の方には上記のYouTubeの番組内容を是非見て頂きたい。特に最後は沖縄の歌「花」を曾心梅という人気歌手が日本語で歌っている、いつもと全く違うスッピンのジーンズ姿で。こういう時の心と姿は日本人と同じなのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=-DeoQnX5Hfg&feature=related
テーマ曲「Believe 相信愛」の YouTube動画はこちら。http://www.youtube.com/watch?v=-ifRqFhQ4Dc

相信希望!熱血援日!日本加油!

2011年3月22日火曜日

あらためてTwitter

今回の大災害ではTwitterの果たす「緊急時における情報伝達機能」の役割が極めて大きい事が見事に証明された。その「速報性」「拡散性」は言うまでもなくその「信頼性」までにおいて新聞雑誌テレビの既製メディアをはるかに上回ったのである。Twitterは信頼できる人間をフォローしている限り、それは「助け合いと善意」の社会であり、ほとんど誹謗中傷とかデマのない「荒れない」世界なのだ。これをホリエモン(堀江貴文)氏は以前Twitterに関する対談の中で「Social Filtering」という言葉を使って説明していた事がある。要は多数の情報が氾濫する中で Twitterで誰をフォローするかによってその得られる情報の質が大きく変わって来るという事である。

Twitterに日頃親しんでおられない方には中々実感頂けないと思うが、要はTwitterというのは 140字以内で意味の無いつぶやきをするのみではなく、優良、有益な情報が詳しく記載された サイトへの「素早い誘導」をする役割を持っているのだ。例えばこういう風にだ。「福島原発問題に関してたった今行われた英国大使館と本国政府間の電話での意見交換の結果は英国大使館のサイトで。http://ukinjapan.fco.gov.uk」という具合に。これを会談に参加した当事者が緊急性の面から(おそらく東京を脱出すべきかどうか問合せてくる在京の英国人への連絡を主眼として)メディアに流す前にTwitterでその場でつぶやくので、日頃フォローしている人からTwitter人気ランキング上位のホリエモン氏や勝間和代氏といった信頼できるソースを通じてたちまち百万人単位に拡散されたのである。因みに堀江氏、勝間氏のフォロワーはそれぞれ約 65万人と約 50万人であり、通常Twitterをやる人は両方同時にフォローしている。

この情報拡散過程において誰がそれをやろうと、行き着く情報ソースであるサイトが英国大使館(しかも英国政府科学技術顧問トップの意見)ともなれば疑う余地のない「信頼性」ともなる。これに対し、一方の大手メディアの産経新聞号外や雑誌AERAはデマとも思える様な号外や見出しでひたすら危機感と不安感をあおり国民を混乱させた。雑誌AERAに対しても Twitter上で即座に批判と注意が伝達されたのである。ここではホリエモンは「終わってる」と一言ツイートしたのが印象的だ。彼は文学部出身らしいが、「終わった」というのは「皆それなりに大丈夫という正しい情報を得ている」から、「その件は終わっている」というのと同時に、「既製メディアそのものもデマまで流したらこれで終わりだ」と表現しているのである。おそらくは一連の既製メディアの刺激的な見出しや表紙は、国民から相手にされなくなって存亡の危機にあるあせりから来るものであろう。このあせりは今回新聞がこの Twitterを活用して何とかTwitterと相互補完しながらも生き延びようとしている事からもうかがえる。

更に大きいのは政府機関の動きだ。今回政府官邸側は震災発生当初から自由報道協会の上杉隆氏らから「政府発表にTwitterも使う様」要請されていたにも拘わらず、官邸は全く無視と拒否をしていた。しかし、原発情勢が深刻化する中で3日後になって急遽官邸のアカウントを開設しTwitterを通じて政府発表を流しだしたのだ。これによって海外から異常とも思われている海外メディア、フリーメディアを一切排除した排他的記者クラブ制度も揺らぎだした。

今回不思議に思ったのは米軍の活動を伝える写真は大量に、それこそルース米国大使のツイートを通じて紹介されるのに対し、肝心の自衛隊員の活躍の様子はほとんど既製メディアからは伝わって来ず写真を目にする事がなかった事だ。例の尖閣問題での海上保安庁のビデオ流出でこりた官邸が極端に規制しているからだろう。しかし陸自は負けていない。周辺のアドバイスを受けて、先日陸自のTwitterアカウントを開設して、一般の写真投稿サイトを使って独自に自衛隊員の活動写真を紹介しだした。これを Twitterで知った国民は「待ってました」とばかりに飛びつき開設3日目で何と10万人近いフォロワーを獲得している。陸自幹部の「武断」を大いに評価したい。

Internetが世界を変えた。その Internetを通じる Twitterがその変化を更に具現化した。まさにホリエモン氏がそう予言した通りになってきた。次に起こる事は何か。それがそろそろ判ってきた。

2011年3月21日月曜日

ドイツ政治との違い

民主党政権の最大の矛盾と欺瞞は、菅総理を始めとする現在の主要閣僚達が「国家」というものに 対してrespectをしてこなかった、いや否定さえしてきたというその政治家としての過去の履歴にある。この菅政権の欺瞞性を明確化し、理解する鍵は戦後のドイツ政治との比較にある。

同じ敗戦国であったドイツとの違いは (1) 西独は東独はじめマルクス主義国家と対峙した事で国内ではマルクス主義に対する稚拙で誤った思い入れがなかった。この点日米安保に守られた言わば温室育ちの日本のマルキスト達は世間知らずでナイーブであった (2) 西独は戦後すぐに核武装したNATO体制下に組み込まれ、国内では徴兵制をとり続けて(去年漸く廃止を決定)、集団的自衛権を国家防衛の基盤としていた。この点日本は憲法9条の下に未だに集団的自衛権さえ確立されていない、という事実である。この二つの決定的な違いは大きい。

1980年代の終わりに冷戦体制が崩れて行く中で、東欧諸国の社会主義政権が崩壊する中で社会主義国家体制の実態が明らかになった。これによってマルクス主義そのものの誤りが証明された。つまり日本の社会主義系運動家達はその政治活動の最初からマルクス主義を志向するという根本的な誤りをしていたという事が証明されたのである。もう一つの誤りは、彼らが単にマルクス主義を志向するのみならず、一方では自衛隊を違憲として国家の生存権たる自主防衛そのものも否定していた事にある。生存権を否定すると言う事は即ち現実の国際社会では国家そのものを否定するという事につながる。日本社会党が「非武装中立」なる非現実的な掛け声を売り物としていたのはそう昔の事ではない。

この結果、その社会党そのものも当然の事ながら解体霧散してしまったが、それではその党員メンバーはどうなったかと言えば、いち早く沈没船から抜け出し、いつの間にかこそこそと変身して現在では政権の中枢や政権与党の中枢に留まっているのだ。言わば、彼らは自らの政治的主張の根本的な誤りを「総括」しないまま、卑怯姑息にも外見だけを変えて生き延びてきているのだ。しかし、その本質や残渣というものは隠し様がない。例えば、民主党の土肥議員は以前日本社会党議員として同じ兵庫県選出の土井党首に近い立場にあり、それだけに与党議員でありながら韓国での竹島放棄の書類にサインをするという反国家的な活動までしているのだ。

ドイツではSPD(社会民主党)が CDU/CSU(キリスト教民主・社会同盟)との政権交代や大連立を繰返してきているが、この政党が NATOによる集団的自衛権や国家そのものを否定する様な動きをしてきていたという事はない。仮にそうした動きをとれば明らかに東独という国家や東欧体制に吸収されてしまう事を意味する厳しい「現実」があったからだ。繰り返すが、民主党政権内の旧社会党系議員や市民運動系議員達は、「マルクス主義」と「自衛権否定」という根本的に間違った政治思想を原点としている政治家であって、彼らが自らの誤りを総括しないまま国家を担う政権や与党の中枢にいる事が大いなる欺瞞であり、政治混迷の根本原因である。

2011年3月20日日曜日

無血開城

早々と「菅氏は官邸を谷垣氏に明け渡せ」との「平成無血開城」論が出だした。また一方では「平時の民主、有事の自民」なる言葉も出回り、まあ半分冗談かとも思える話であるが笑えないほどの真実味がある。そもそもは民主党政権の構造が、「小沢・鳩山の旧自民党体質金権型」 + 「菅・仙石の旧反体制運動型」の集合体であっただけの話であり、現実性のない「バラマキマニュフェスト」と「政権交代」というイメージで多くの国民が騙されたという話である。つまり本来は「平時の民主」でも大きな問題であったのである。

今回の地震・津波・原発の災害において初動対応や情報開示で大きなミスを重ねた民主党政権の幹部に何とも不安を感じ、また違和感を感じている国民は多いであろう。それはこの「国家的危機」の対応に相応しくない「反国家」運動を政治活動の原点とする人間が政権の中枢を担っている事にある。この違和感というものは既に今回の災害前から醸成されてきた。まずは「普天間基地移設問題」、続く「尖閣諸島問題」、「北方領土問題」の度重なる失策、そして災害直前の「土肥議員の竹島放棄サイン問題」更には「前原、菅両氏の在日外国人からの不法献金問題」の露呈と続いてきていたからである。

今回の大災害では、その政府の中枢を担う人達が、つい最近まで徹底して存在そのものを否定し批判してきた自衛隊と在日米軍に大きく救われてきているのが何とも「イソップの童話」的で皮肉な話だ。勿論、災害対応への献身的な努力は自衛隊と米軍だけのものではなく、自治体、地元住民、警察、消防、海上保安庁、一般国民にもよるものであるのは言うまでもないが。その菅総理が防衛大学の卒業式で「自衛隊員を誇りに思う」と述べたというのがこの大いなる矛盾と欺瞞の極まりの頂点だ。まさに「暴力装置養成機関」と思われて来た大学の学生達にとっては「あなただけには言われたくない」の一言だろう。

「国民」と言わず「市民」と言い続けて「国家」を否定してきた市民運動家であり、1999年の国旗・国家法案採決の際、民主党内の自主投票でも反対票を投じた菅・枝野両氏にこの危機に際した「国家」を担う資格はない。この問題に関して反対票を投じた理由を聞かれた菅氏の国会答弁は「国歌は何かもっと元気なものの方が良いと思った」とこじつけとも思われる苦笑まじりのものであった映像が印象的だ。菅氏は「反国家」の立場を貫き、君が代を「音楽的」にではなく、自らの信念であった「政治的」に否定するなら堂々とそう言えば良いではないか。それであればそれで筋が通っている。この答弁こそにこの男の姑息で品性下劣なところが如実に現れている。こういう男がリーダである政党を愚かにも国民は選挙で選んだのである。

2011年3月19日土曜日

入閣要請

この期に及んでなんという菅氏の姑息さか。菅首相が「電話一本」で自民党の谷垣総裁に副総理兼震災復興担当として入閣して欲しいと依頼した事だ。あきらかに「アリバイ作り」である。菅氏の頭の中にあるのは、谷垣氏に断られるのを承知で(それゆえに電話だけで)、「一応お願いはしましたよ」という事実を残す、これだけである。国家危機から真に心の底からの入閣を依頼するなら、きちんと会って話すべきである事は小学生でも判る話だ。

これに対する谷垣総裁の断りの回答は誠に見識あるものであり、またその理由は全くもって妥当であり理解できるものである。谷垣氏の言う通り、(1)既に自民党としては震災復興に関しては与野党合同会議で具体的協議をしており全面的な協力を惜しんできていない、(2)また野党第一党の党首の入閣を依頼するという事は連立の組替えを意味する事であるだけに政策協議もなしでいきなりトップ同士で決めるべきものではない、以上極めて筋が通っている。

リーダーとしてあきらかに失格で、会見では見ている側に不安を感じさせるオドオドとした腰の引けた菅氏とは違って、熟成した政治家としての谷垣氏の会見はさすがであった。もしこの谷垣氏が首相であれば、この震災対応もかなり違っていたであろうし、今後の復興も違うものとなると感じさせるほどの安心感を与えるものだ。

老朽化した福島原発の震災対策等については現在の民主党政権のみならず建設当時からの政権与党であった自民党にも責任は勿論ある。しかし野党としての民主党がこの問題に関して与党に対し具体的な提案で改善を求めたという話は耳にした事はなく、また論戦の対象ともなっていない。それどころか、政権与党になってからの民主党はその姿勢として、「事業仕分け」でこういった震災時の為のスーパー堤防の予算までをカットしてしまっているではないか。

「ズル」と言われている菅氏の姑息さは、とにかくその徹底した責任逃れの姿勢に見て取れる。我々組織に属している、あるいは属していたビジネスマンや官僚は、この「責任逃れ」という事には極めて敏感だ。それは組織の中での責任というものは本来役職や職務権限で明らかにされているものであり、そこにおいて責任が自らに降りかかるという事は組織人として官僚の昇進やビジネスマン人生に致命的なダメージを与えかねないからだ。そこから逃れる為の方策は既に国会での大臣答弁でも聞かされている様に、「聞いていなかった」「相談がなかった」「他組織の協力が得られなかった」等々のお決まりのものだ。

今回の谷垣氏入閣要請は、「この他組織の協力が得られなかった」という証拠を残す為だけのものである事は明白だ。おそらく谷垣氏の胸の中には、この国難にあたっては、菅氏側からきちんとした政策協議や政策提案が同時にあれば、多少政治的なリスクがあったとしても党の役員会にはかって前向きに検討をしようというフェアな気持ちがあったかも知れない。

こうなれば自らが「暴力装置」呼ばわりした自衛隊のその隊員達の命をかけた献身ぶりに対し、自らの発言については何一つ謝罪もせず、隊員の苦労に対し慰労もしない「震災復興担当」の仙石氏にはまさに「天に唾」の罰があたる事は必然であろう。

2011年3月17日木曜日

原発問題

今回の大震災の国家非常事態においても「政治」というものは水面下で様々な動きを見せているのを見逃してはならない。まずは辻元氏の「災害ボランティア担当」首相補佐官任命とそれに続く仙石氏の「災害復興担当」官房副長官任命である。既に民主党政権の中では落ち着きを取り戻した時期での解散総選挙が念頭にある。そこでは何としても政権維持を図らねばならないのであるが、その際には最早バラマキの「マニュフェスト」などでは国民を釣る事は出来ない。

次回総選挙では災害復興に焦点が当てられる事になるが、これについての具体的政策等では与野党間に大きな隔たりというものは差ほど出て来ないであろう。そこで民主党が間違いなく選挙のテーマとして掲げるのが「原発全廃」政策であろう。

勿論、早期に今すぐの話ではない。例えばドイツのシュレーダー政権の時の原発全廃政策の様に20年先の 2021年までという様な形が選挙公約として現実的であろう。今回の未曾有の放射能危機で日本国民はあの第二次大戦敗戦の悲劇に対するのと同様に「原発の存続」には大きな反応を示す事は間違いない。民主党の全く現実性のない「原発全廃」の掛け声には、前回全く現実性のないバラマキ「マニュフェスト」に見事に騙された様に、多くの日本国民はまたもや見事に騙されてしまう事であろう。

日本と同様に「選挙の季節」の動きを見せているのが、エネルギー事情が日本と同じで原発先進国のドイツである。現在の CDU/FDP連立のメルケル政権は SPD/緑 連立のシュレーダー政権が打ち出した「2021年までの原発全廃」方針を平均で12年間延長する修正方針を打ち出しているのであるが、今回の日本の災害で政治的に大きな見直しを迫れている。今年はドイツ16州のうちの 7`州において州議会選挙が行われる選挙の年である。既に2月のハンブルク市(ハンザ同盟都市として州と同列)議会選挙があり、CDUはSPDの約50%に迫る得票率の半分以下という大敗を喫してしまった。これは勿論欧州の PIGS危機に際してのドイツ政府としての多大な財政支援の負担に対する国民の大きな不満が根底にあるのが理由であろう。落ち目のメルケル政権にとって今回の福島原発の事故は政権維持の面では明らかに大きな政治的マイナス要因となっている。

従って、例えば横浜のドイツ人学校の閉鎖と本国への早期の生徒全員引上げなど今回の福島原発事故に対するドイツ政府の反応は他外国に比べてもより敏感である。また原発事故に対する現地の報道でもこれを政治的に利用する為に意図的とも思えるほど危機感をあおる報道もある様である。以上のドイツの原発に関する政治問題についてはドイツ事情分析に関してはこの面での第一人者であり、また私が常々尊敬しているクライン孝子女史の意見をあらためてお聞きするのがベストであろう。

それでは今回の福島原発事故の収集処理が何とかうまく行ったと仮定すると(そうあって欲しいと祈念するのは言うまでもない)、民主党政権側にとっては、事故発生から事故対応における全ての責任を東京電力に負わせ、全ての功績を政権担当者とする事で総選挙に望もうとするであろう。実際は事故対応での全ての努力と功績は自衛隊・警察・消防・東電を中心とする現場の方々の命をかけての作業である事は言うまでもない話である。そこでもう既に明らかな見通しとしてはリーダー失格の菅氏を退陣させ、表舞台から下げて、次の顔は現在連日会見に登場する枝野氏となる事が予想される。本命の前原氏の足が救われた後、次世代の人間として表舞台は全てこの枝野氏が受け持っている。それを支え、裏から操る二人が辻元氏と仙石氏となって、ここに反体制運動を原点とするトリオの(非現実的)「原発全廃」政権が確立される方向となる。これこそが次ぎの国難であろう。

2011年3月15日火曜日

危機に際して

ドイツ語で die Ratten verlassen das sinkende Schiff. という表現がある。これをそのまま英語にすると判りやすいが、the rats are leaving the sinking ship、鼠は沈没しそうな船から逃げる、という意味だ。鼠、つまりその船の主役の船長や船員や客や貨物ではない、いわば寄生の存在のものがいち早く危険を察知して一番に船から逃げ出すという事を表しており、鼠はこの場合は「無責任で臆病な小者」というnegativeな意味合いを持つ。

さて、今回の震災ではドイツ、フランスと欧州各国の大使館や学校では日本にチャーター機を飛ばして自国民を本国に退避させるという措置を早々にとっている。昨今の企業や政府組織では国際的なcrisis managementの重要度が極めて高い中、組織としては当然の措置であろう。また逆にこれが海外における緊急事態であれば、日本企業は素早く同様の措置をとるというのは 9.11テロの時でもしかりである。

しかし、問題はそういった緊急避難措置を取る場合、その組織の責任者はいかに振舞うべきかである。ここに1990年代はじめの湾岸戦争における一例がある。日本企業が中東諸国の原油確保の為に現地側産油国での近代化を進めようと様々なインフラ整備や工場建設を請け負い、また現地組織を運営・管理しているというケースが多い。しかし湾岸戦争時にはそこにイラクのフセイン政権によるスカッドミサイルが繰り返し飛来してくる様な戦争状態となったのだ。そうなれば生命に危険が及ぶ非常事態であり、現地採用社員は勿論日本人派遣社員も緊急退避をわれ先にと行うのは言うまでもない。事実、イラクから飛来のスカッドミサイルはサウディアラビア東部に達して、多数の死傷者が出ている。

そうした中で現地合弁会社の経営責任者として派遣されていた私の友人は現地採用社員、日本人社員、欧米系コントラクター社員のほぼ全員が隣国や欧州に避難する中を数名のサウディ人経営陣とともに、外国人としてはただ一人現地に残ったのである。この男は平時に於いてはどちらかと言えば目立たず、シャープさのない、風貌も地味な男であったが危機に際してはその本領を発揮した。結果、戦争終結後、勇敢な男を称えるという気質のサウディ人の日本人に対する評価を一気に高める事となった。

そして東京本社はこの男の経営責任者としての姿勢と功績を高く評価して、帰任後特例での昇進を決めた。その数年後、彼は今度は北米の投資先の経営者として赴任してきたのであるが、同時に胃がんを患い、久しぶりで再会した時はまるで別人の様にやせ細り、足元もおぼつかないほどの衰弱振りであった。しかし、本来の酒好き、タバコ好きは変わらず、周囲が色々忠告しても、「どうせ死ぬときは死ぬんだ」というのが彼の口癖であった。何か普段は絶対に見せない「胆力」の様なものをこの男は生まれつき持ち合わせているのであろう。

振り返って、日本の侍精神、武士道ではこういった「人の上に立つものの心構え」というものを文化の一つとして伝えてきている。戦艦の艦長は撃沈される時は最後まで船に残り船と運命を共にする、というのが軍人として当たり前の話とされるが、サラリーマンと言われる組織ビジネスマンの DNAにも色濃く残っているものである。

今回、福島原発の現場で生命の危険を顧みず、自らが志願して作業にあたっている自衛隊員が数十名いる。また東電社員の中にも志願して現場に赴いている社員もいると聞く。また全般的にこれだけ欧米メディアが放射能危機を騒ぐ中、東京圏では停電や交通機関の問題はありながらも大挙して東京から早々と逃げ出すという事態が起こっておらず、まさに危機に際する resilianceである。本日も知合いのイスラエル系米国人から電話があり、「これだけの放射能危機が叫ばれているなら、日本から親戚が逃げて来るのだろう?その場合はウチの部屋を使っても良いよ」との有難い申し出でもあった。神様はきっとこれだけの日本人、日本国を必ずや救われる、と堅く信じよう。

2011年3月9日水曜日

仏教の「精神修養」

日本人が米国人に英語で仏教のエッセンスについて説明しようとするとこれは至難の技となる。例えば「空」 Emptiness、「無」 Nothingnessで説明すれば、聞く側からは「それでは全てが何の意味も持たない」「それは宗教ではなく、対極にあるニヒリズムである」という反応しか出て来ない筈だ。それ以前に我々自身が仏教とは何かという事についての理論武装さえ出来ていない事が充分認識される。そんな中で日本の仏教界では若手の僧侶が積極的に米国に留学して博士号を取得したり、更には大学教授として米国人学生に仏教について講義をしている例もある。あの仏教徒であるAppleのCEO Steve Jobs氏の様に、近年特に理系、工学系の米国人学生の間では仏教に興味を示す学生が増えていて大学側でもそのニーズに応えているのであろう。近代的合理性と科学万能主義という「唯物」の世界を突き詰めて行くと、そういったものを超越したmeditationや philosophyという「唯心」の世界を求めるのであろうか。

先日、カリフォルニア大学バークレー校で講座を持つ臨済宗の僧侶で住職でもある方からお話を聴く機会を得た。禅宗の臨済宗は言うまでもなく、座禅を中心とする修行を行う事で「自分を見つめる」事に主眼をおく教えを持っているが、実際にその僧堂(雲水の修行道場)でいかなる事が行われているかをスライドで説明して頂いた。あまり一般には公開されていないという写真のスライドごとに付記された文字をメモしただけでも庭詰、旦過詰、粥座、斎座、飯台、参禅、托鉢。作務、園頭畑、新到参堂、殿司、開静、典座、止静、接心、警策、公案、経行、解定、開枕と、僧堂での厳しい生活を現す専門用語も我々俗世間の人間には新鮮だ。しかし、極寒の時期や蚊の多い極暑の時期を通じて朝の 3時から夜の 10時までを 2-3年粗食に耐えひたすら修行に励み自己を見つめるという生活は想像するだけでも俗人にはとても無理な世界だ。

実はこの講師の方の祖父も父親もメディアを通じて有名な僧侶で、ベストセラーとなった著作やNHK教育テレビのシリーズでそれぞれ「般若心経」を判り易く解説をされた方々だが残念な事に最近お二人とも相次いで他界された様だ。講師はまた二人のご兄弟も揃って僧侶との事であり、芥川賞作家として日本で人気の僧侶の方も同じ宗派の兄弟子にあたるらしく、厳しい修行に耐えた姿を想像させない臨済宗のエリート家系のプリンス的風貌である。

臨済宗と言えば、個人的には京都を訪問して日本の美を体感出来るのはこの宗派の建仁寺、大徳寺、東福寺の三つを上げたい。全ての無駄な装飾を排し、自然の美と調和し、洗練された素朴な美しさには日本人ならずとも脳波に響くものがある筈だ。これらのお寺では毎回必ずと言って良いほどフランスやドイツといった欧州からの観光客の姿を眼にする。いずれもがもの静かに立ち止まり、あるいは縁側に座ってしばしの間静寂の時間を堪能している様に思える。深い歴史と伝統、文化を背景とする彼ら欧州人には何事も合理性と科学性をよりどころとする米国人よりも日本人に近い共通した感覚があるのであろう。

こうして見ると、あらためて日本仏教とキリスト教の違いは何かとの思いを抱かせるものだが、一般的に我々俗人には日本仏教はキリスト教よりもその布教のエネルギーや救済の具体的行動力の面では控え目に見える。しかし逆に「聖書にはこう書かれている」といった教条的な色彩はなく、あくまで個人の内面を追求する言わば精神修養的な「自立と自律」の世界ではないかと思える。

末期症状的民主党政権のお粗末な現状のもと、日本の政治には今何が求められているのかという面で日本国民自らが己を見つめ直すには、その「自立と自律」の為の「精神修養的」な観点が必要だ。まずは2009年の政権交代を喜び騒いだ「世論依存」の大いなる過ちを反省し、一体この民主党政権という詐欺師的な集団は何だったのかと言う本質を見直し総括するという事が必要だ。

2011年3月2日水曜日

TED会議

昨日から西海岸の Long Beachで TEDコンファレンスというユニークな会議が開催されている。TEDとはその頭文字で表される Technology, Entertainment, Designの各分野からの人々が毎年春に南カリフォルニアの Long Beachと Palm Springsに集まり、自由な発想とアイデアに基づく講演とプレゼンテーションを行うという NPO組織の会議である。技術、エンタメ、デザインというソフト産業は米国が最も得意とする分野であるが、これらの分野に拘らずこの集まりでは環境問題、エネルギー問題、病気・貧困対策等地球規模の問題も取り上げられている。

この会議の特徴は、組織や肩書が重視される日本社会の会議とは違って、あくまで個人としての参加が前提であり、組織や国家の枠には捉われず、各人の持つアイデアや主張がしっかりと絞り込まれている事だ。米国で開催されるメインの会議には月500ドルの会費を払うだけで誰でもが参加できるが言語は英語だけである。また講演者の発表内容は YouTubeで無料で公開されおり、参加者でなくともその内容を知る事が出来る。この会議はちょうどスイスで毎年開かれるボス会議の様なデファクト的なものではあるが、既に日本の外ではこういう大きな流れが始まっているのだ。

この公開されている講演の一例を上げて見よう。今やPhilanthropist(慈善事業家)と紹介されるビル・ゲーツ氏による 2009年の「マラリア撲滅の為の蚊の駆除」というテーマの講演である。ゲーツ氏はこの動画の冒頭でThe market does not drive scientists, communicators, governments and thinkers to do the right thing. と述べている。つまり市場経済では現在の地球規模の問題は解決できないと断言しているのである。従ってこの会議が「いかに次の時代の商品開発をやれば儲かるのか」といった次元のものではない事を示している。もう一つの例は、ある若手音楽家が YouTubeを使って世界中からの多くの人々が同じ曲を歌う動画映像を集めて virtual chorusというものを実現している。実際のコーラスの練習は息を合わせるのが中々難しく練習に時間がかかるものらしいが、そういう音楽技術的なものも乗り越えて完成させたものは多くの見知らぬ人々の繋がりを感じさせて感動さえ与えるものである。

今年は慈善事業家としての Bill Gates氏と Harvard大学で生命科学分野の研究で有名な Juan Enriquez氏の話が目玉とされているが、講演者の中には韓国人等のアジア人の名前も見られものの、日本人の講演はここでも皆無、ゼロである。日本からは脳科学者の茂木健一郎氏はじめこれらの分野に詳しい人々が個人で参加し、こういう日本の「蚊帳の外」の現状を嘆きつつも、早速現場からツィートしている。今までに政界からはクリントン元大統領やアル・ゴア元副大統領が講演を行っているが、ゴア氏は今年も顔をだしている様だ。

振り返って日本のメディアは朝から晩まで大学入試の携帯でのカンニングのニュース一色だ。本当に日本のマスメディアは民主党政権同様、揃いも揃って末期的状況である。一社でもこの 重要なTED会議のニュースを伝えている所はあるのであろうか。